それだけのことなんだよ
こちらに戻ってくるエルルの表情は、いつもと違っていた。
顔色が悪いわけではないが、真剣に何かを考え続けているように見えた。
そんな彼女に俺は言葉をかける。
エルルが抱えている理由も、おおよそ掴みながら。
「どうだ?」
「……うん」
上の空、とは明らかに違うな。
何かを掴みかけた瞬間、手放したような感覚だろうな。
「そう遠くないうちに感じられるようになるよ。
今はその先の世界へ足を踏み入れただけで十分なんだ。
感覚が掴めただけで使いこなせるような力でもないんだよ」
「……そっか」
残念そうにエルルは答えた。
その気持ちは良く分かる。
俺も同じだったからな。
掴みかけた力を手放すことに、表現のしづらい感情が湧いてくる。
でも、頑張って手を伸ばそうとも、それに届くことはない。
まるで見えない場所に浮いている物を触れようとする感覚。
それを言葉にするなら、いちばん近いのはこれだろうな。
「鏡花水月。
目に見えるが、届かない。
感じるが、言葉では表せない。
まるで湖に映った月を取ろうとするように。
触れられないものに手を伸ばすように」
俺もそうだった。
掴みきれない何かを必死に捉えようとしても、まるで向こうの方から逃げられるような気持ちになった。
エルルは俺とよく似た感覚を持ったんだろうな。
だからこそ、俺にはその気持ちが痛いほど良く分かるよ。
「でもな、あの時エルルが感じたものは、確かにあったんだ。
それは決して触れられないものじゃないんだ。
一度でもそれを感じ取ったことが証明しているんだよ」
「……じゃあ、あたしでも……手に入れられる力、なの?」
いつになく真剣な表情をしながら訊ねる。
本当にあの頃の俺と良く似ているよ、エルルは。
「大丈夫だ。
得手不得手はあるから習熟速度は人それぞれだけど、頑張り続ければ届く力だ。
それにエルルはすでに一度その場所へ辿り着いたのは確かだよ。
だから絶対に手に入れられる力だと俺は確信した。
あとは無理をしないでゆっくりと技術を高めていけばいいんだよ」
「……そっか」
小さく発したその言葉はわずかに震え、俯きながら口元を緩ませる。
焦りも不安も、確かに届いたはずなのに消えてしまった怖さも……。
とても良く似たことを体験した俺には分かるよ。
だけど大丈夫なんだ。
感じ方、捉え方も人それぞれだけど、間違いなんかじゃないんだ。
「そのままゆっくり、歩いて行けばいいんだよ」
自然と出た父の言葉に、俺は少し驚かされた。
いや、きっとこうして受け継がれていくものなのかもしれない。
教育っていうのはきっと、こういうものなのかもしれないな。
しかし、これで今後の方針も決まった。
気配の"その先"を全員が掴みかけたなら、できることは極端に増えてくる。
眼前にあるたくさんの道から迷わないように導いていく必要はあるが、どの道も間違いじゃないからな。
たとえ曲がりくねっていたとしても、いつかは必ず最適な道へ戻れるはずだ。
だが山頂は未だ遠く、霞がかっている。
それでも、確かに頂が見え始めた。
同時にみんなが軌道に乗れた瞬間でもあった。
これなら2週間もあれば、相当強くなれる。
元々身体的にも精神的にも強いからな。
俺のいた世界は平和で、安全すぎた。
命を奪われる可能性が高い世界だからこその成長速度を見せてくれるはずだ。
あとはゆっくり、無理せずにそれぞれのペースで進んでいこう。
みんなと一緒なら、きっと大丈夫だ。
個性豊かなメンバーだし、駆け足で先に行かれるような感覚もあるかもしれないけど、置いて行ったりなんてしない。
俺が隣で背中を押すからな。
無理しないようにしっかりと歩みながら、みんなのところに行けばいい。
ただ、それだけのことなんだよ。
だから、感じている不安も、取り残されるような焦りも、いつの間にか独りでいたと思わせる恐怖も、今エルルが感じているだけで、そんなことは俺が絶対に起こさせない。
俺たちは家族なんだ。
みんなで一緒に歩いていこう。
……なんだ。
いま、何かを感じた気がする……。
俺自身、何かがはまりかけたような……。
とても大切な何かを感じたような気がする……。
……消えた、か……。
この感覚が何かは、いずれ掴めるかもしれない。
もしかしたら、"奥義の最奥"に届きかけていたのか?
まぁ、今はいい。
今はただ、みんなの成長を、みんなと一緒に喜ぼう。




