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第九十七話〜天地開闢〜

 広徳四年(治天紀元十九年)水無月一日に、北陸道南方の新大陸は「南陸道(なんりくどう)」と命名され、旧王都の葛古には新たに「臨安府(りんあんふ)」が設置された。例の如く、帥を頂点に置く組織体制である。

 南陸道の公称だが、大陸の増加によって方角が被ってしまう事態が発生した。また、南洋道は都から見て明らかに南西方向にあるのに「大南洲」などと称されるのはややこしいと言う意見も多く出されたため、既存の公称の改名も同時に望まれた。都を中心とすると、西川道と西陸道は西に、北陸道と東洋道は東に(厳密に言えば東洋道の巨島は南にあるが、東洋道府の置かれている島は東にある)、南洋道は南西で南陸道は南東である。命名候補については激しい議論が交わされたが、最終的に洲の特徴を名付けることになった。西川道と西陸道は「大洲(おおいしま)」、南洋道は「砂洲(すなのしま)」、東洋道は「海洲(うみのしま)」、北陸道は「原洲(はらのしま)」で南陸道は「山洲(やまのしま)」である。安直だとする意見も散見されたが、一応の決着を見た。


 南陸道攻略の際に用いられた新兵器は「崩国砲(くにくずしのほう)」と呼称されたが、陰陽尹の判断によって研技院の管轄として封印された。威力の過大さと、全土王化による必要性の希薄さが理由とされた。恐らく、二度と人目に触れることは無いだろう。

 西川道の新離宮は「震旦宮(もろこしのみや)」と名付けられ、完成は広徳七年頃との概算が出た。大神像は広徳十年には開眼供養が可能だとされている。


 以上を以て聖武天皇は遂に全土の王化を達成し、その威光と恩恵を遍く全球全地に注ぐことに成功した。


 …………


 広徳廿年、治天紀元卅五年正月。

 統治の安定獲得と国庫の平安を聞いた聖武天皇は、大規模な全地行幸を道真に提案した。最初は予算等の関係で渋っていたが、既に齢五十を超えた聖武天皇の願いを結局承認した。前世では五十代後半で崩御しており、直に民を視察する機会が失われる可能性が高いと判断されたのである。

 斯くして、聖武天皇最後の行幸が計画された。周辺は国府を、以降は各道府を行宮とするもので、その陪従は二千五百人が予定されている。留守官として東宮の基親王が指名され、太政官のうち長官(かみ)次官(すけ)の一部にその補佐を命じる手筈である。行幸は弥生一日に出発する。

 以降記述されるのは、この大行幸の概略である。


 行幸隊は先ず、治天京の近くにある大和国の国府へ向かった。聖武天皇がこの世界へ送られて、初めてその配下とした国であった。皇后壱代の生まれ故郷でもあるその地域は、今では国府の膝下としてそれなりの活気を帯びていた。

 あの頃は足元も覚束ない状況であったが、王化の成功と伴侶の獲得は忘れることの出来ないことである。

 国府に向かう途中、地元住民からは割れんばかりの拍手と歓声とで迎えられた。そのまま進めば正面には異国情緒溢れる国府が見え、尚真が大和守として聖武天皇を迎え入れた。聖武天皇配下の最古参の一人である尚真は、ともすれば真っ先に一揆等が起きそうなこの地域を上手く管理してくれている。長年の彼の功績を労い、国司館を行宮として利用した。

 卅年以上前の思い出に浸りながら、聖武天皇はその地で体を休めた。


 次の目的地は、東の山背国と西の河内国である。

本話より、最終帖であります。

どうか最後まで、お付き合い下さいませ。

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