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第1章、第3話【平穏な日常は終わりを告げる】



 「おーす、黎夜。ちゃんと死んでるかー?」

 「誠一、お前はアレか? 俺の見舞いに来たのか? それとも俺にトドメを刺しに来たのか?」

 「前者一割、後者は……ご想像にお任せするとしましょうかね」

 「………………」

 「嘘だ、身構えるな。あれだ、このままだと『きっかけは些細なことだったんです』、って落ちになりそうだから」


 俺は今日一日、病院のベッドで横になっていた。

 大学はもちろん欠席する羽目になるし、駆けつけた沙耶には大声で怒鳴られてしまうし、散々だ。

 まさか警察から事情聴取を受けることになるとは。そんな経験はもちろん、初めてだった。


 「大学のノートは写しておいた、啓介が。出席のほうも欠席届は出しておいた、啓介が」

 「啓介しか働いてないのかよ、おい」

 「面倒だもの、みたいなノリだったな、確か。まあ、今日中には退院するんだろ?」


 誠一が口元を上げて、寝たままの俺に笑いかける。

 そもそも怪我らしい怪我もしてないから、病院にいる必要もなかったはずなのだ。

 ただ、目が覚めないもんだから。今日までぐっすり、と。おかげで心配した沙耶が一時間目を休んでしまった。

 だからこそ、暢気におはよう、なんて呟いた俺が許せなかったのかも知れない。

 大声で怒鳴られて、隣りの患者さんまで飛び起きた。


 今は沙耶も学校へ行っているだろう。

 この病院は東雲の町の東部、住宅街にある。学校までは三十分もかからない距離だ。

 きっと三時間目には間に合うはず。時刻は朝の十一時だった。


 「で、誠一。お前、授業は?」

 「講義は入ってないぞ。他の三人が入ってるから、自分だけ先に見舞いに来た。……まあ、何も土産はないんだけど」

 「いや、そんな大げさにしなくていいって。少し疲れがたまってたんだろうから」


 誠一はそうか、とだけ相槌を打ってから、椅子に座った。

 このまま帰ってもいいのだが、沙耶が迎えに来るまで絶対に待機、という命令を頂戴してしまってどうしようもない。

 ていうか、あれ。昨日の俺と立場が逆な気がする。本末転倒もいいところだ。


 「さーて、さてさて。何があったか、話してもらいますかね。なあ、黎夜」

 「あぁ、警察にも同じこと聞かれたな。あの不良どもじゃなくて、誰か別の奴に襲われたか、とか」

 「つーことは、例の連続殺人犯が、って噂にも信憑性が出てきたってことだな」


 まあ、もっとも。

 あのとき、俺に襲い掛かってきた外国人の男は、誠一の期待している奴ではなかったが。


 「黎夜。ぶっちゃけ、お前が不良にやられたとは思ってない。……誰にやられた?」

 「知らん。名前も名乗らなかったからな……金髪の外国人だった、としか」

 「が、外国人?」


 誠一の瞳が困惑に揺れる。

 はて、と顎に手を当てているときの誠一は、考え事をしていますよー、というサインだ。


 「はて……はてさて、さてはて。外国人……強かったのか、黎夜?」

 「強かった。ていうか、あれは絶対に前科持ちだと思うぞ。……サーベルとか持ってたし、普通に銃刀法違反だろ」

 「………………ふむ、ふむふむ」


 ますます、眉間に皺を寄せていってしまう大柄百八十cmの悩める青年。

 まあ、確かに常軌を逸したスタイルではある。情報はすべて警察に伝えたし、もう襲ってくることはないだろうが。


 「ま、災難だったな。せめて今日一日はゆっくりするといい……うんうん、羨ましいねぇ」

 「……何度か、思うんだけど」

 「何かね?」

 「お前のキャラクター、どれが本物だよ。たまに老け込んだり、暴走したり、どれがどれだか」


 むむ、と誠一がまた考え込む。

 改めて自己分析でもしているのだろうか。

 やがて、誠一は乾いた笑みを漏らした。なんだか、自分にそんなことを自問すること自体が、苦労であるかのように。



 「それはな、自分自身が一番わからないんだよな、これが」



 まるで、答えを教えてほしいと言わんばかりの、疲れた口調。

 俺が何を尋ねても、どんなことを言っても、誠一は薄く笑うだけだった。ただ、肩を竦めるだけだった。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「聞いてくれよ、レイヤ! オレは今、人の世の中の摂理に絶望した!」

 「そうか、それは良かった。おめでとう、今日は祭りだな」

 「んだと、こらぁぁあっ!!」


 昼過ぎに流牙と啓介、そして祐樹が尋ねてきた。

 ちなみに俺の病院食は流牙にパクパク食われているため、祐樹からもらった土産のレトルトカレーを頂いている。

 本当に些細なことなんだが、別にカレーのほうを流牙にやっても良かったのでは……いや、何も言うまい。


 「昨日のラグナロクの文句を言おうと思って、セーイチに怒鳴り込みに行ったんだ!」

 「……祐樹、啓介……結果は?」

 「んー、何故か『あっち向いてほい』で勝負することになったんだけど……」

 「どういうわけか、誠一の勝ち、というか反則……」


 ああ、それは分かっているんだよ。

 何しろ、流牙の身体はボロボロだし。何というか、草臥れた感じになっているし。


 「それ以前に、あいつにその類の勝負を選んだ時点で終わりだな」

 「あー……本人曰く、心が読めるとか何とか?」

 「少なくとも、純粋バカな流牙の心はとても読みやすいだろうからね……」

 「…………おかしいな。どうしてか、馬鹿にされているような気がするぜ、オレ?」


 安心してくれ、流牙。

 馬鹿にしているんじゃない。ただ、単純に莫迦と認定しているだけだ。

 ていうか、啓介。純粋の裏でバカとつけているのが見えるぞ。気づいてないのはもちろん、件の流牙だけだが。


 「で、十戦やって十敗した。流牙がボロボロなのは、ペナルティで」

 「まずはチョップ、続いてローキック、さらに正拳突き、ハイキック、サマーソルトキック、シャイニングウィザード……」

 「なんだ、そりゃ。アレか、最後は悪魔将軍様さながらの地獄の断頭台か」


 流牙も普通に復讐すればいいものを。

 わざわざ誠一の口車に乗って勝負なんてするから、そんな返り討ちにあうんだ。

 まあ、流牙はこうでなければ流牙ではない。というか、ペナルティのラインナップを何処かで見たことがあるんだが。


 「そうだ、流牙。ちょっとひとっ走り自販機に買いに出てくれ。俺はアイスコーヒー」

 「あ、僕、コーラで」

 「んー、俺はジュースでいいや。宜しくな」

 「あん? てめぇら、オレをパシろうってのか?」


 憤る流牙を両手でまあまあ、と制す。

 そのついでに百二十円を流牙に握らせた。砂糖もミルクもないブラックな、と一言付け加えて。


 「バリバリ、パシらせるつもり満々だな、おい……」

 「仕方がない、ここは公平にゲームで決めようか。頭文字に指定された英文字で、英単語を迅速に答えていくゲームだ」

 「お、それ知ってるぜ、レイヤ」


 例えば指定された英数字が『E』だった場合は、English(英語)とかEast(東)とかを答えていくわけだ。

 もちろん、音楽にあわせて手拍子も追加。そうすることで相手の正常な判断を奪うらしい。

 一昨日のテレビ番組のネタだし、全員がルールを覚えているはずだ。……唯一の問題が、ここは病院だということだ。


 「じゃあ、行くぞ。……『O』から始まる英単語、はい!」


 パン、パン、パパパン!


 「Octopusオクトパス!」


 パン、パン、パパパン!


 「ogreオーガ!」


 パン、パン、パパパン!


 「Augustオーガストッ!!!」


 流牙、良くも悪くも期待を裏切らない男だった。

 数秒後、流牙は脱兎のごとく走り去った。瞳から毀れる涙が哀愁を誘う。もちろん、その手には小銭を握って。

 これが網川流牙、珍回答伝説の幕開けとなるのだった。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「……そんな、面白そうな話にどうして自分を混ぜてくれなかった」

 「誠一、いなかったしね。ていうか、誠一の分の飲み物はないけど……どうする?」

 「いらん。俺は炭酸飲料もコーヒーも酒も飲めないんだ。……マスター、水」

 「あいよ……って、マスターってお前」


 マスター、相沢祐樹は清涼飲料水を誠一に手渡した。

 俺はブラックコーヒー、祐樹は果物ジュース、啓介はコーラ。流牙はいじけながらも、烏龍茶を買ってきていた。

 時刻は昼の三時過ぎ。看護士さん(女性の人)から静かにするよう、注意されっぱなしだった。


 幸いにも俺と病室が同じの老人は耳が遠いらしく、補聴器を外してベッドに寝たきりだ。

 度が過ぎなければ怒られることはない、と思う反面……俺たち五人が揃った時点で、静寂は有り得ないという公式。

 世の中はままならないものだ、とはこういうことかも知れない。


 「しかし、黎夜が病院送りにされるなんてな……相手はどんな奴だったんだ?」

 「身の丈二メートル三十センチ、鉛色の身体で巨大な斧剣を持っていて十二個の命を持っているような奴だった」

 「何処の大英雄だよ……」


 祐樹が溜息をつく。啓介も適当な説明に苦笑いだ。

 誠一も口元を歪めて笑うだけ。流牙に至ってはその話を聞いた途端、ふっと鼻で笑う仕草をした。


 「ふっ、まだまだだぜ、流牙……オレならそんな奴相手でも、勝った」

 「お前、沙耶にまで負けてたけどな」

 「アレは相手が女+目つきの反則+オレ自身の油断が招いた、不幸な出来事だよ!」


 いや、俺のときなんか刃物だぞ?

 それも最後のときなんか、サーベルとか持ち出されたし。どう考えても模範的な通り魔とは言えない。

 あそこまで明確な銃刀法違反。

 職務質問とかされたら、一発で検挙されると思うんだが……その点、あの男はどうなんだろう。


 (…………むしろ、職質した警官が襲われそうだな)


 多少、時代錯誤した外国人が辻斬りでもやっていたのだろうか。

 いや、ペンダントをよこせ、とか言ったり、俺の名前を調べ上げていたり、と。何だか不自然な点が多い。

 何だか良くわからない事態に巻き込まれた気分だ。


 「そうか。なら流牙、お前の実力を自分が測ってやる」


 一人、物思いに耽っている俺など関係ないね、と言わんばかりの外野席。

 いきり立つ流牙に向けてニヤリと笑うのは、野牧誠一、二十歳、独身……また、何か考え付いたらしい。


 「そうだな、自分とお前の戦闘力はざっと見てこんな感じだな」


 何処からか取り出したのは……よく分からない機械。

 人の名前と数値が表示されている。入力されているのは件の流牙と、そして誠一。


 『野牧誠一―――攻撃力700/守備力900』

 『網川流牙―――攻撃力2000/守備力0』


 「低いな、誠一のパラメータ!」

 「地味に流牙に守備力ないな!」

 「様々な意味でびっくりだ!」


 祐樹、啓介含む俺たち三人が同時に突っ込んだ。

 俺たちのパラメータも気になるところだが、まあ置いておこう。どうせ、適当だしな。


 「くくく……行ける、この能力なら誠一に勝てる! うぉぉおりゃあああああっ!!!」

 「えっ!? これってパラメータ測るだけで、戦闘はないんじゃ?」

 「あー、止めてやるな、啓介。ああなった流牙は倒す以外に止める道はないだろうから」

 「何度も突っ込んでることだけどな……お前ら、ここが病院って忘れてないか?」


 『野牧誠一(攻撃力、700)vs網川流牙(攻撃力、2000)』


 二倍以上の戦力差があっても、誠一に焦りはなかった。

 言いだしっぺである以上、流牙の暴走には誰よりも対応できる男だ。故についた渾名が『流牙使い(びーすとマスター)』

 誠一曰く、びーすとのところは平仮名でなければいけないらしい。理由は……聴いたけど、良くわからなかった。


 「ふっ、この瞬間、リバースカード、オープン! 『右手に盾を、左手に剣を』!」

 「ねえ、さっきから思ってたけど、これはいいの? 版権的な問題上」

 「ギャグだから許されるのさ、とだけコメントしておく」


 流牙の混信の右ストレートを、片手で受け止める誠一。

 驚愕に目が見開かれる流牙。そんなあいつに指であれを見ろ、と合図を送ってみた。


 『野牧誠一(攻撃力、900)vs網川流牙(攻撃力、0)』


 「ばっ……莫迦なぁぁぁぁああああああっ!!!!」


 流牙の絶叫が響き渡る中、勝敗は決した。

 直後に訪れた衝撃、誠一の回し蹴りに流牙の身体が吹っ飛ぶ。病室の外へと続く扉に向かって。

 そして、奴にとっては運悪く。

 がらがら、と音を立てて扉が開かれた。まずい、と啓介が叫ぶ中、入室してこようとした人間のパラメータが表示される。



 『無涯沙耶―――攻撃力1800/守備力1200』



 あ、と誰かが息を呑んだ、その瞬間。

 ズゴシャァァアッ!!!

 そんな、どんな攻撃をされればそんな擬音になるのか、分からない音と共に流牙が病室に戻ってきた。

 顔面には足跡。もちろん、顔面をクリティカルで蹴られた結果だ。


 「病院では、静かに」

 「「「いえっさー」」」


 俺たち三人が、突如現れた侵略者インベーダーに敬礼を取っている間。

 誠一は流牙にトドメを刺そうと、拳を振り上げようとしていた。


 「ちょ、誠一、やめてやろうよ!」

 「おお、勇者よ。死んでしまうとは情けない。今、引導を渡して進ぜよう」

 「えー、生き返らせろよ。トドメ刺す神父なんて聞いたことねえよ」

 「それが野牧クオリティー……ぐばはっ!!?」


 『野牧誠一(攻撃力、700)vs無涯沙耶(攻撃力、1800)』


 未だに何だかよく分からない機械が、何があったのかを如実に示していた。

 良かった、病院で静かにしなければならない、と俺の他に言ってくれる奴が来て、さすが我が妹……とかは思わない。

 お前のおかげで、さらにドメスティック・バイオレンスな被害が増えたしな。

 俺は溜息をつきながら、この事態を収拾してもらうべく、ナースコールを押すのだった。



     ◇     ◇     ◇     ◇



 結局、事態の収拾には二時間もかかった。

 まずは誠一、流牙、啓介、祐樹の四人を病室から強制撤去させることにした。

 普通なら『そろそろお時間ですわ』と言われるところを、彼らは『煩いから出ていきな小僧ども』と追い出されたのだ。


 その上で急遽、無涯黎夜の退院が決まった。

 もともと今日中に退院するはずだったので個人的に問題はないが、なんか追放されたようで気分は下降中。

 この病院、百人二百人なんて簡単に面倒見てくれるくらいの大病院なのだが、この学園都市にひとつしかない病院でもある。


 (……ははは、もうあの病院、使えないかもな、俺)


 こうなると意地でも怪我や病気はできない。

 さすがに背水の陣を敷いて『もう病気に負けるような弱い心じゃなくなったぜ、ひゃっほう♪』なんて叫べるほど

 黎夜はおめでたくない。

 おめでたくないのだが、何か叫ばないとやっていけないような倦怠感に支配されていた。


 間違いなく、とばっちりである。

 もしかして不幸フラグでも立っているのだろうか、と黎夜は半分以上本気で悩んで見た。

 不良の諍いに巻き込まれ、外国人の通り魔には狙われ、さらには病院から放逐された。

 これで幸運だと言える人間はただのマゾだ。


 「まったく、もう……どうして静かに眠ることもできないの?」

 「いや、誠一と流牙が勝手に暴れていただけ、って印象が強いんだけどな……間違ってるか、間違ってるのか、俺は?」

 「……何だか、壊れ気味だね、お兄ちゃん」


 夕暮れの帰り道、妹の沙耶と一緒の帰り道。

 学園の授業が終わると同時に、部活まで休んで病院に迎えに来てくれた妹には感謝していた。

 ただ、構図としてはダメ兄貴としっかり妹みたいで、何だか納得いかない黎夜ではあった。


 「しかしまぁ、どういうわけか誰も心配するような要素の台詞を言ってくれなかったな……」

 「お兄ちゃんの場合、自業自得」

 「…………自業、自得か? ん? 俺の何処に落ち度があったんだ?」


 気分、さらに下降中な黎夜。そんな兄に沙耶がクスリ、と笑いかけた。

 馬鹿にするでもなく、呆れるでもなく。

 ただ、慈愛のような微笑みで。沙耶は落ち込んでいる黎夜の背中を見続けた。


 「ホント、いっつも莫迦ばっかり」


 この背中が、ずっと自分を守ってくれた。

 あの日、地獄に突き落とされたような衝撃を受けた、あの煉獄の日も。

 絶望で倒れそうになっていた体を支えてくれた。護るから、と強い意志で告げられたあの言葉は、宝物だった。


 あの日、両親を理不尽に奪われた、あの日。

 泣き叫ぶだけだった沙耶を助けたのは兄だった。壊れかけた沙耶の心を救ったのは、幼い日の黎夜だった。

 涙が零れる一歩手前で、限界まで耐えて耐えて耐え抜いて……ただ、妹の沙耶を悲しみから護り抜いた。

 その代わりに、兄は自分を傷つけたことを沙耶は知っていた。大人になっていくと同時に、そのことを知っていった。


 「ふふ……これを機に、反省しなさいよね」


 それからも、ずっと。

 ずっとずっと護り続けてくれた。自分だけじゃなく、護れる限り別の他人まで。

 そんな兄に、沙耶は畏敬の念を抱いていた。それと同時に不安を覚えていた。


 いつか、無涯黎夜は壊れてしまうんじゃないか―――そんな、何の根拠もない不安を。


 「あ……」

 「ん……?」


 だから、目の前に現れた存在に強烈な違和感を覚えた。

 まるで日常にピリオドを打つ人物が目の前に現れたんじゃないか、そんな不安が一瞬で沙耶を包み込んだ。

 現れたのは少女。

 目を奪われるほど綺麗な長い赤髪と、聖歌隊が被っていそうな白い帽子が印象的な少女だった。


 「……こんにちは。それとも、こんばんは……でしょうか?」


 笑いかけられる。その事実に黎夜と沙耶は正直に驚いた。

 普通、道ですれ違う人に声をかけられることなんてない。精々が道を聞くときに『すいません』と前置きされるだけだ。

 だが、目の前の少女は違う。二人を明確に認識して、そして挨拶をしている。

 それが意味することは……彼女は、自分たち兄妹に用事があるということ。そして、沙耶には思い当たる節がない。


 「あ、っ……と、アンタ確か」

 「……お兄ちゃん、知り合い?」


 要するにこの赤髪の少女は、黎夜に用事があるということだ。

 黎夜は漠然と思い出す。確か昨日、学園へ登校する途中で肩をぶつけてしまった女の子。

 顔も思い出せない。だけど、その鮮やかな赤髪は珍しかった。思いのほか、印象が強かったらしい。

 黎夜は彼女を覚えていた。もちろん、名前すらも知らない赤の他人ではあるのだが。


 「……無涯黎夜さん、貴方にお話があります。一緒に……来てもらえますか?」

 「はい……? 何だよ、それ。どういう意味か分からな―――」

 「いえ、簡単なお話ですよ。そう、あのペンダントのお話なのですが……お時間、いただけないでしょうか?」


 瞬間、黎夜の目が驚きと警戒に見開かれた。

 もちろん、沙耶には何のことだか分からない。目の前の少女は黎夜にしか分からないように、意図的に話しかけてきた。

 少女の瞳を真っ直ぐに黎夜は睨み付けた。そして。少女もまた黎夜に真っ直ぐな視線を向け続けた。


 「…………ああ、アレね。すまん、すっかり忘れてた……」

 「いえ、思い出していただけたなら。すいませんが、無涯黎夜さんをお借りしてもよろしいでしょうか?」

 「えっ……あ、はい! どうぞどうぞ! 不肖の兄ですが、煮るなり焼くなりお好きに!」


 突然、話を振られた沙耶は半分混乱したまま、少女に返事をする。

 くすくす、とそんな様子に微笑む赤髪の少女だが、黎夜にしてみれば苦い顔をするしかない。


 (沙耶……洒落にならんのだが、それ)


 そのまま、黎夜は突然現れた少女に連れられ、住宅街ではなく商店街方面へと逆戻りしていった。

 沙耶は二人の後姿を見送りながら、首をかしげていた。

 あの二人はどんな関係にあるんだろう、と。そんなことに思考を巡らせながら、帰宅の選択肢を選ぶ。


 (うーん……お兄ちゃんの様子と、あの人の他人行儀な言葉使いから恋人じゃないのは分かるんだけど……)


 恋人ができたら連れて来い、と何度も念を押している。

 今は亡き母親の代わりに見定めるために。もし変な女に引っかかったらどうしてやろう、とか思っていた。

 だけど、そんな様子ではない。自分の兄が一瞬見せた『敵意』を、沙耶は明確に感じ取った。


 「……ま、どうせ私が何か言っても、聴いてくれないんだけどね」


 だから、いつか兄の心は壊れるんだ、と。

 分かっていても、何もしない。決して口に出そうとはしない。

 ただ護られるばかりの自分に、そんなことを言う資格なんてない。そんな、諦観にも近い溜息をついた。


 そのまま沙耶は帰り道を急ぐ。

 今晩の夕飯はハンバーグだ、下ごしらえのためにも早く帰宅して用意してしまおう。

 沙耶は道端に転がっていた石コロをひとつ、ポーンと蹴る。そして我が家へと続く道のりを、ゆっくりと闊歩していった。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「わざわざ、ご足労ありがとうございます。無涯黎夜さん」

 「どういたしまして。……喫茶店か。路地裏じゃなくて良かった、と思ってる」


 俺は軽口を使って相手を牽制しつつ、向かい側の席に陣取った。

 商店街の喫茶店は時間上、それなりの人が集まっている。ここで事を起こす、などという愚考はない、と思う。


 確かにこの女の子が、あの金髪通り魔と関係があるとは断言しない。

 ただ、比較的クロに近いグレーではある、と。そんな考えを捨てきれないほど疑心暗鬼に囚われていた。

 一度死に掛けただけに、当然のことだと自己弁護はしておく。

 まあ、ペンダントを巡る問題で神経質にはなっているのは自覚しているのだが。


 「自己紹介が遅れました。私、月ヶ瀬舞夏(つきがせ、まいか)と申します」

 「……こっちの名前は知ってるんだよな。黎夜って呼んでくれ、俺も舞夏って呼ぶから」

 「はい、黎夜さん」


 そう、こっちは名前を知らないのに。向こうは一方的に名前を知っているという違和感。

 これがこの赤髪の少女、月ヶ瀬舞夏を警戒する要因になってしまう。

 あの通り魔と同じ条件。俺の名前を知っていて、そしてペンダントの件について俺に接触してくるという共通点。


 喫茶店の店員さんが紅茶を運んできた、二人分。

 あれ、いつの間に……いつもなら、そんなことを思うのだけど。今は生憎とそんな余裕もない。


 「紅茶は、お嫌いでしたか?」

 「いや、普通に飲める。ありがとう……それで?」


 悪いが、暢気にお茶をしにきたわけじゃない。

 単刀直入、無粋とは知りつつも本題を促した。対して舞夏も、分かっていますと頷きをひとつ返してきた。


 「黎夜さん。貴方は昨日、金色の髪の外国人に襲われた……その理由はお分かりですか?」

 「……ああ。ペンダントがどうこう、って言ってたな。これ、のことか?」


 初めて舞夏に出逢ったときから、ペンダントの存在は知られている。

 別に今更、隠せるとは思っていない。首からサファイアのペンダントを取り出し、舞夏にも見えるように引っ掴んだ。


 「はい、そうです……少し、見せてもらってもよろしいでしょうか?」

 「悪いけど却下だな、信用できない。できるはずがない。

  これをアンタに見られたときから、どうにも付け狙われるようになった……ってのは、疑い過ぎか?」

 「……そうですか。ええ、そうでしょうね」


 舞夏の顔が少し暗くなる。

 その様子を見ると罪悪感が湧き上がってきた。が、申し訳ないがそれもまた事実なのだ。

 ペンダントの存在を知っているのは、俺の知っている限りでは三人だけ。

 じっちゃんと沙耶、そして目の前にいる舞夏だけだったはずだから。


 「まずは、潔癖を晴らさせてください。私にはあの男のように黎夜さんを襲う意思は、ありません」

 「あの男……ってことは、知ってるんだよな? あの、通り魔のこと」

 「ええ。すいませんが、これ以上の情報は与えられません。ただ、私は黎夜さんをどうこうしようなど、思ってはいません」


 それについては、ある程度信用し始めていた。

 喫茶店を会談の場所に選んだことからも、それは理解できる。だから、俺もそれは分かっている、と頷いた。

 舞夏は安堵の溜息をひとつすると、目を細めた。誠一がやるように、これからが本題だ、という合図。


 「では、本題に入らせていただきます。単刀直入に言うと、私もあの男も……そのペンダントを欲しています」

 「……ズバリ、来たな。しかも自分が欲しがってることまで、隠さねえのかよ」

 「無駄に隠しては、不信感を持たれますからね……それで、いかがでしょうか?」


 何が、とは聴かなかった。

 この話の流れで理解できない、なんてことはない。

 要するに舞夏は、このペンダントを譲ってはもらえないだろうか、と頼み込んでいるのだ。


 答えは決まっていた。

 ふざけるな、だ。これは俺の大切な宝物だ、譲るなんてことができるはずがない。


 「無理だ。アンタにも、あの男にも渡せない。……たとえ百万出されても、な」

 「……では」

 「ん?」

 「五百万、ではどうでしょうか?」


 ………………………………………………………………………………

 ………………………………………………………………………………

 ………………………………………………………………………………は?


 「………………はい?」

 「ご不満でしたら、六百万。いえ、七百万。……いえ、一千万だって出す用意がこちらにはあります」

 「…………………………えーと、ん?」


 思考がショートしてしまったらしい。

 なんか、俺の日常を軽く引っくり返すような、そんな現実味のない大金。

 それを簡単に用意する、と目の前の女の子が言う。そのギャップに、俺は夢の中に放り込まれたのかと本気で思った。


 確かに俺にしてみれば、大切な宝物だ。

 だが、対外的な価値から考えれば、これぐらいの大きさのサファイアにそんな値段がつくはずがない。

 冗談キツいぜ、と笑い飛ばそうとして……舞夏の真剣な表情に、押し黙るしかなかった。


 「待てよ……これに、そんな価値があるってのか?」

 「詳しくはお答えはできませんが、それだけの価値が私たちにとってはあるんです。

  大金を積んででも、人殺しをしてでも、手に入れたいほどの価値がその宝石にはある」

 「………………」


 現実感がない。

 一千万なんて大金を用意できる舞夏は何者なのか、ペンダントにどんな価値があるか、疑問は尽きない。

 それだけの好条件を、お気に入りのアクセサリーひとつで手に入れることができる、と舞夏は言う。

 社会に出て数年働いても、手が届かないほどの金だ。交渉を応じる価値は十分に、十分にある。



 「ごめん」



 頷けなかった。頷けるはずがなかった。

 金じゃないんだ。そんなものじゃないんだ、と……ずっと、俺の良心が叫んでいた。それを無視できなかった。

 母さんの形見のペンダント……金と交換するということは、母さんを売ることに等しいんだと気づいた。


 そんな罪悪感を背負いながら、金を受け取ることができるはずない。

 それほどの価値を見出してくれる舞夏には悪いけど、これはそういうものとは次元が違うのだと、そう思ったから。


 「これは、売るなんて出来ない。……絶対に、そんな酷いことはできない」

 「…………そう、ですか」


 舞夏は立ち上がり、伝票をひょいと摘み上げる。

 残念そうな、という表情じゃなかった。むしろ、俺を哀れむような、心配するような、そんな表情だった。

 それはまるで、俺の行く先を案じた、舞夏の甘さの欠片のような。


 「ですが、どうかもう一度、考え直してください。貴方はそれを持ち続けることはできないんです、黎夜さん」

 「……どういう意味だ?」

 「気をつけてください。そのペンダントを狙って、貴方に危害を加えようとする人たちがいるのですから……」


 それは、舞夏が贈れる精一杯の警告だったように思えた。

 舞夏は紅茶二人分の勘定を済ませてしまうと、一度だけこちらに振り返って、そして喫茶店を後にした。

 赤髪が黄昏に映える、そんな後姿を俺はただ見送った。


 (……危害を加えようとする人たち、か)


 人たち、と舞夏は警告した。対象は複数形で表現されていた。

 襲ってくるのは、あの金髪外国人だけじゃない、と。恐らくはそう暗示しているんだろう。

 そう考えると、彼女は一番俺に得になる話を持ってきたのかも知れない。……このまま、奪われる可能性を考えれば。


 ただ、それでも。

 形見のペンダントを、金に目が眩んで売り払うことは出来なかった。

 この選択は間違いじゃない、と。心の底からこの選択は正しかったんだ、と胸を誇ることにした。




     ◇     ◇     ◇     ◇




 「ただいまー!」

 「お帰りー! お兄ちゃん、もうすぐ夕飯できるから、先にお仏壇に手を合わせて来てー!」


 了解ー、と返事を返す。どうやら台所は相変わらず戦場らしい。

 沙耶は料理上手だ。両親が死んでから、ずっと無涯家の食卓を護り続けている。

 だが、料理といい部活といい、全力を尽くす。

 決して楽に終わらせようとはせず、常に戦い続けていると言っても過言ない。


 我が無涯家には『沙耶法典』などという法律があるほどだ。

 胃袋を握る奴は一族を支配できる、という伝説は本当だったらしい。俺もじっちゃんも、そういう意味では逆らえない。

 で、その法律のひとつに『一日一回、仏壇で両親に今日の報告をする』というもの。


 「よっこらせ、っと」


 リビングから、じっちゃんの私室の隣にある和室に移動した。

 和室はじっちゃん好みの畳作り。ここは仏壇を安置するためだけに作られた場所だ。

 無涯の家は和洋折衷な作りになっている。

 俺や沙耶の部屋、リビングは洋風。じっちゃんの部屋とかは畳が張ってるし、道場もある。

 とある武家屋敷だったらしいのだが、じっちゃんが若い頃に買い取ったらしい。


 (父さん……母さん……昨日は来れなくてゴメンな。なかなか大変だったんだよ、これが)


 母さんに託されたペンダントの謎は、まだ解けない。

 だけど、どんなことになろうと恨み言を言うつもりはなかった。

 このペンダントが俺に力をくれた。

 これがあったからこそ、俺はあの日に打ち勝つことが出来た。沙耶を救う手助けが出来た。


 合掌したのち、携帯電話を取り出した。

 メール一覧を開く。その一番後ろのメール受信……そこに記されている、俺へのメッセージ。

 母さんの、最期の言葉。


 2014/ 10/23 17:38

 お母さん

 『行ってきます』


 「……………………」


 あれから、八年も経った。

 俺も沙耶も、あの悲しい日々から立ち直れた、俺は少なくともそうだった。

 ふと、気づく。いつから其処にいたのかは知らない。ただ、漠然と背後に立っている存在に気づいた。


 「……あれから八年、じゃの」

 「もう、そんな時期になるんだよな……」


 俺と沙耶の親権者。唯一の肉親、無涯賢吾。

 じっちゃんのくたびれた姿が、影となって俺に覆いかぶさっていた。まるで、枯れ木を象徴するかのように。

 祖母に先立たれ、一人息子である父さんと義理の娘の母さんを失った。じっちゃんも、きっと苦悩したはずだから。


 「のう、黎夜。お前が剣術を教えてくれ、と言ったのはあの頃だったかの?」

 「そう、そうだよな。あれから足掛け八年か……病院送りにされるとは、まだまだ修行不足ってことかな」

 「ほほ……当然じゃの。わしから一本取れるまでは、免許皆伝はやれんわい」


 ほほう、それは素手でコンクリートを打ち砕く戦国時代の猛将のような爺様を倒せ、ということですか。

 無茶言うない。半分人を捨てたんじゃないか、と思うほど激烈なじっちゃんだ。

 あと百年生きるとか宣言されても、多分信じる。というか七十歳になろうとしているが、老いてなお何とやらって奴か。


 「それから、お前に触発された沙耶が武術を習い始める……」

 「一種の逃避だったのかもな。俺も沙耶も、何かに打ち込むことで悲しいことを忘れようとしたんだ」

 「うんにゃ、わしが見たところ……どちらも理由は違っていたようだったがの。のう、黎夜」


 お見通しだったか。

 確かに逃避という気持ちもなかったことはなかったが、もっと莫迦な理由があった。

 ただ、ひたむきに力を求めた。ただ、純粋に力が欲しかった。本当に強くなりたかった。そんな、莫迦な理由だ。


 いやー、あの時代から修行は大変だった。

 初めてのプレゼントは鉄板を内側に貼り付けた竹刀、というのだから恐ろしい。


 「……お前が何を考えておるか、それは分からん。だけど、ひとつだけ心に留めておいてくれの?」

 「うん……?」

 「強大な力は人を狂わす。わしらは、心を強く保たなければな……いいかの、黎夜」


 そうだろう。然り、と俺は同意する。

 核爆弾だって観賞用のオモチャじゃない。使われるために、どこぞの国が保有するんだから。

 強大な力は人を狂わせる。使いどころが分からなくなる。だからこそ、それに呑まれてはいけない。


 「じっちゃんの、口癖だろ? 分かってるって、そんなことは」

 「……なら、ええんじゃ」


 ニカリ、と乾いた笑みを向けられ、思わず苦笑いした顔で返してしまう。

 そんな折、台所から沙耶の声が聞こえる。どうやらラブコール(夕飯が始まる合図)らしい。


 「さ、行くか。……ああ、じっちゃん。和菓子届いた?」

 「ん? おお、頼んでおいたの、そういえば。……確か、沙耶から預かったが……嫌に量が多かったの?」

 「ちょっと多めに買っといたんだ。後で差額分、請求しておくぞ」


 むむむ、とじっちゃんが眉をひそめる。

 そのまま和室を後にしながら、ふと舞夏のあの寂しげな表情が頭に残っていた。

 純粋に俺の身を案じていた、そんな気がする。

 だからこそ、これから俺には災難が降りかかる、そんな予言みたいな警告を思い出した。



 「だけど、これは渡せない……渡せないんだ」



 今一度、墓前で誓うような心持ちで。

 確かな願いを独白で紡ぎながら、明日を迎えようとしていた。

 道場なら竹刀か木刀くらいあっただろう、と。そんなことを考えながら、俺はリビングへと歩いていった。



 もう、日常が壊れていることに気づかずに。





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