第百五十五話 正解
次回は6月10日に投稿する予定です。
速人は小瓶をダールに返した後、明日にでも尋ねると言い残してダールの家を去った。
ダールたちは速人が空の瓶から何かを掴んだ事を察してそのまま背中を見送ることになる。
(問題は時間だ。アレを作るのは最低でも一日は寝かせておく必要がある)
速人は得心しながら速度を上昇させて歩き続けた。
そんな速人をダグザが大慌てで追いかけてきた。
ダールの住んでいる場所は都市の上層部であり原則として上流階級の人間もしくは眷属種族しか存在することを許されていない。
事情を知らぬ衛兵(上層区画が独自に雇っている市議会直属の組織から派遣されている)にでも見つかれれば捕縛されてしまうことになるだろう。
しかし、この場合ダグザが心配していたのは衛兵の身の安全である。
速人はダグザに配慮して一度、立ち止まっるが周囲の人間は誰も気に止めることはない。
屋敷を出た最初から気配を遮断していたのだ。
「速人、待て。一応、言っておくが下町以外の場所を出入りする時は私の同伴が必要になることを忘れるな。いいな?」
速人は頭を振るとダグザに合わせて歩き出した。
どうやらダグザは第十六都市の各階層を移動するエレベータまで送って行ってくれるらしい。
その時になって町の人々はようやく速人の存在に気がついた様子だった。
周囲の人々は異様な物を見る目つきで速人を見たが、隣にダグザがいるという事に気づくとすぐに去って行った。
ルギオン家の威光もあるのだろうが単に息を切らせたダグザの顔が恐かったということもあるのだろう。
速人の生暖かい視線に気がついたダグザは飛蚊を追い払うような仕草をする。
「ダグザさん、俺の事は心配しなくていいよ。今日は家に帰るだけだし」
速人はいとも気楽に語ってみせる。
再び気配を遮断しているので速人の事を気に止める人々はいなくなっていた。
ダグザは逆に能動的に目の前から消え失せる技術を持っている速人に危険性を感じている。
おそらく魔術では感知できない類のものなのだろう。
魔術の感知能力とは五感の延長上に存在するものではなく、魔力を付与された物質”エーテル体”の発する波を補足するものである。
「ハッ、どの口がそう言っているのだ?お前のような危険生物を放っておくわけにいかん。ところで先ほどお祖母さまの遺品から隠し味の情報について何かを掴んだようだが、実際の所はどうなんだ?」
速人は少し考えてからダグザにメリッサの使っていた調味料に見当がついたことを告げる。
それを聞いたダグザはひどく驚いた形相になっていた。
ダグザも速人の次に小瓶の中の匂いを確かめたのだが何も残されてはいなかった。
またエリー、レクサ、ダールも同じく無臭だったと言っていたのである。
(果たして鼻の大きさは身体的な機能に比例するのか…?)
ダグザは不気味なほどに大きい速人のブタ鼻を凝視してしまう。
早くもダグザの意図するところに気がついた速人の目つきが険しいものに変わっている。
「さっきので大体わかったよ。明日には隠し味を使った料理を持って来るから”高原の羊たち”の事務所で待っていてくれ」
「アレでわかるとは伊達や酔狂で大きな鼻をつけているわけではなさそうだな…。いや特に深い意味はないから睨むな」
二人は世間話などをしながらエレベーターまで歩いて行った。
ダグザは家族と共にダールの家で一泊するという話をしていた。
エイリークの家に置いてあるダグザたちの私物は後日、取りに来るらしい。
一方、速人はダグザの話に相槌を打ちながら晩御飯の分量について考えていた。
家を出る前はダグザとレクサの分を用意する予定だったのである。
あまり幸先の良い話ではないが、細かい家計の調整をしなければ今月を無事に過ごすことは出来ない。
速人はベックに相談して奉仕労働の量を何とか増やせないものかと考える。
こちらの事情を説明すればダグザたちはお金を貸してくれるのだろうが、それではエイリークとマルグリットがいつまでも自堕落な生活を繰り返すだけである。
レミーとアインにも悪い影響を与えることになるだろう。
速人は既にエイリーク一家を影から支える母親の心境に達していた。
「じゃ、俺は市場に寄ってから帰るから。ダグザさんも帰り道には気をつけて」
速人はダグザに別れの挨拶を告げるとエレベーターの隅の方に移動した。
エレベーターの外観はどちらかといえば貨物用のリフトやゴンドラに近いものであり、滑車を使ってワイヤーを巻き上げるという点では速人が暮らしていた世界のエレベーターと同じだった。
古代ドワーフことドヴェルク族が早い段階から水銀を採掘、精製する技術を持っていた為にかなり頑丈なワイヤーロープが現在の近代ヨーロッパくらいの世界にも存在している。
さらに金属の強度を魔術で調整、強化することも可能なので分野においては速人が来た2012年代の日本よりも技術的に進んでいる側面もある。
さらに高いレベルの技術を保有するダナン帝国に行けばアスファルトの道路なども存在しているのかもしれない。
この巻き上げ式のエレベーターも原動力が人造世界樹の魔力という点を除けば、旧式のエレベーターと同レベルの機械ということになる。
速人は同じエレベーターに乗り込んだ人々の視界に入らないように注意しながら奥の支柱に寄りかかる。
これほどの金属加工の技術があれば、一か月まえに退治した化け物”大喰い”の骨をヌンチャクの材料にすることも強ち夢ではないかもしれない。
ハンスとベックの知り合いのところに材料の一部を持って行ったのだが結局ハンマーで砕くことも、斧で断つことも出来なかったのだ。
その際に職人たちは「こんな厄介な素材は角小人か、ドワーフの職人でもなければどうすることも出来ない」と口にする。そういうわけで速人がヌンチャクで天下を取る為にはスウェンスとのコネクションは必要不可欠となっていた。
速人はエイリークの家がある中層に到着すると木製の半券を駅員(※都市の各階層は駅ということになっている)に渡しそのまま夕食の材料を手に入れる為に大市場に向かった。
速人は大市場の入り口近くにある出店で卵と牛乳と野菜を買うと、エイリークの家に向かった。
出店の売り子の話によれば、アルフォンスたちは商館でよその都市から来た隊商の代表と取引をしているらしい。
彼らとの話でも自治都市の流通が何らかの理由で妨害に遭っているという話で持ち切りだった。
(なるほど。手広く問題を起こしてエイリークさんやレナードさんを疲れさせるつもりか。実に利口なやり口だ)
速人は代金にチップを加算して売り子に渡した。
売り子はすぐに返そうとしたが速人は先に手を出してそれを断る。
情報収集の代金のつもりだった。
速人は身の丈ほどの食材を持って何の苦もなくエイリークの家の門を通る。
速人の様子を見ていた付近の住民たちは開いた口が塞がらないほど驚いていた。
「あ、速人。お帰り」
「やること無くなったから待っててやったぜ。へへっ」
エイリークの家の門の前では雪近(二十歳)とディー(十六歳)が速人(十歳)の帰りを待っていた。
二人は昨日まで働き尽くめだったので休暇を与えておいたのだ。
速人は二人の足元に広がる下手くそなマルやバツを見て、今まで”けんけんぱ”や”○×ゲーム”をしながら遊んでいたことを察する。
(こいつら本当に終わってるな…。俺より年上のくせに何をやっているんだよ…)
速人は仕事の合間に雪近とディーにこの手の遊びを伝授したことを後悔していた。
速人はお気楽青年たちに向かってため息を吐くと家の裏口に指をさす。
二人は子供のようにはしゃぎながら速人の手荷物を持って裏口から家に入った。
速人はキッチンに到着すると夕食の準備の傍らで、おやつを作り始める。
そろそろレミーとアインが家に帰って来る頃合いであり、エイリークとマルグリットが帰宅する時間帯が近づいていたからである。
おやつが用意されていなければエイリークとマルグリットは凶暴化して果てには床に転がって駄々をこねることだろう。
速人は木のボウルに複数の材料を入れてパンケーキ液を作る。
本来ならば段階を経てボウルに材料を投入するのだが、夕食の時間が差し迫っているので混合液を作っておく必要があった。
さらにパンケーキ液を寝かせている間に夕食の準備を始める。
速人は煮物とシチュー、サラダの準備が終わったのを見計らってパンケーキを焼き始めた。
雪近とディーは食器棚から皿を取り出し、運搬用のカートに乗せていた。
それから一時間後にチキンソテーの蜂蜜ソースかけ、根菜と豚肉の煮物、蕪の入ったホワイトシチュー、十枚のパンケーキが完成した。
そして、焼き上がったパンケーキは皿の上に乗せられ木苺のジャムの上に透明なシロップを回しかける。
雪近とディーは食堂で一仕事終えてキッチンに戻った後、早速パンケーキを食べていた。
速人はその間も大皿の上に茹で野菜とレタスを盛り付けている。
雪近とディーはパンケーキを食べた後、食器を洗う水を汲みに二人で中庭にある井戸に向かった。
速人に指示を受ける前に動けるようになったのは二人が成長している証だろう。
速人は満足げに二人の背中を見送ると入れ替わりにレミーとアインがキッチンにやって来た。
姉弟は既に着替えを済ませており、キッチンの中にある小さな椅子に座ってパンケーキを食べていた。
途中、アインがレミーに拳骨を食らってパンケーキを四分の一くらい強奪される場面もあったが弱肉強食の理なので速人は放っておくことにした。
それからすぐにキッチンの扉が乱暴に開けられエイリークとマルグリットが姿を現す。
二人は仲良く奪い合いをしながらパンケーキを食し、部屋から出て行った。
後には表情を引きつらせたレミーと人生のどつぼに嵌ったような顔をしたアインが残されていた。
「レミー、アイン。そろそろ晩ご飯だから食堂に行ってくれ。俺はサラダ運んだりしなきゃいけないから」
速人は二人の肩を軽く叩いたが、レミーは逆上して力いっぱいに手を振り払う。
美しいエメラルドの瞳には涙が浮かんでいたかもしれない。
速人の生暖かい視線に気がついたレミーは終始、速人を睨んでいた。
その後、レミーはアインに手を引かれながら食堂に向かった。
速人は果物と野菜のミックスジュースに調味料とオリーブ油を混ぜて即興のドレッシングを作る。
カットされた野菜をサラダボウルに盛りつけてから食堂に向かった。
そして晩ご飯は久々にエイリークの家族が水入らずで食べることになった。エイリークとマルグリットは自分たちが家を空けている間の出来事をレミーとアインに尋ねていた。
レミーは冷淡に「別に何も無かった」と答え、アインは学校での生活について嬉しそうに話していた。
会話の中、たまに速人たちの話を聞くような場面もあったが「レナードが家族全員を連れてきた」と話すと夫婦共に疲れ切った顔になって交互に慰めの言葉をかけてくれた。
その日のエイリーク一家の夕食は静かなまま終わりの時を迎える。
エイリークは速人がダールの家に行ったことを知っていたはずだが特に聞いてくる事は無かった。
意外にダグザに気を使っていたのかもしれない。
速人は風呂の用意と居間の掃除を終えると先に雪近とディーを部屋に帰した。
自分は一晩かけてメリッサの隠し味を再現するつもりだったのである。
速人は風呂上がりのエイリークにキッチンを使用する予定を伝え、その足で調味料の試作をすることになった。
速人の背後には寝巻に着替えたエイリークとマルグリットが監視をしている。
一応、エイリークの家なので文句を言うわけにも行かず速人は作業を続行した。
エイリークはオレンジとグレープのミックスジュースをジンで割った酒を飲みながら速人の背中を見続けている。
今はレミーとアインの前ではないので飲酒は許可されていた。
速人曰く”未成年の飲酒の理由の大半は親が子供の目の前で酒を飲むから”ということらしい。
「何が未成年の前で飲酒はさせない、だ。ダールみたいなこ事を言いやがって。速人、お前も大きくなったら俺みたいに毎日他人の悪口を言って酒を飲むようになるんだよ」
(無視)
速人は手製の長方形のクラッカーにアーモンドとクリームチーズを挟んだ食べ物をエイリークの目の前に置いた。
エイリークとマルグリットは酒をチビチビとやりながら無言でおつまみを食べている。
速人は妨害が入る前に作業に戻った。
すりおろしたリンゴ、細かく刻んだジンジャーを片手鍋に放り込んでその上からラム酒をかける。
鍋の中身がほどよく沸いてきた頃、バターを入れて溶けて混ぜ合わさるまで弱火で加熱し続けた。
次第にキッチンの中はリンゴとラム酒とジンジャーとバターの香りで満たされて行く。
エイリークとマルグリットはほろ酔い気分で恍惚の表情となっていた。
現時点では”正解”ということだろう。速人は木へらで鍋の中をかき回しながら、大さじに砂糖、小さじに塩を入れてさらに味を調える。
本来ならば砂糖をもっと使う調味料だが、メリッサが健在だった頃は砂糖が多く出回っていなかったという情報があったので控えめに使うことにした。
「そう、これだよ。この匂い。ガキの頃、爺ちゃんの家でよく嗅いだのはこんな感じの匂いだった」
「あはは、懐かしー。よくつまみ食いをして怒られたよねー」
気がつくと速人の両隣に酔っぱらいが二人いた。
速人は一度、鍋をコンロの上から離すとエイリークたちを椅子のところまで戻した。
速人は鍋に接近を図るエイリークとマルグリットを相手に何度も攻防を繰り返す。
この二人に隙を見せれば鍋の中身を全て食べてしまうだろう。
速人はカクテルのアルコールの量を増やすことによって二人を酔い潰すことに成功した。
天使のような寝顔をしているエイリークとマルグリットをベッドの中に入れて部屋の扉を閉じる。
速人は駆け足でキッチンに戻り、鍋を火にかけた。
たまにへらで中身を混ぜ返して、ほどよく水分が抜けるまで過熱を続ける。
出来上がるものは保存食と調味料の中間、とでも言うべき代物だった。
速人が腕を組んで鍋を見守っているとキッチンの扉をノックする音が聞こえて来た。
速人は鍋から離れるわけにはいかなかったのでその場で「どうぞ」と返事をすることにした。
「速人、私だ。今猛烈にお腹が空いたから食べ物を用意してもらいたいんだけど」
来訪者の正体はレミーだった。レミーは扉を開けるとキッチンの中に入って来る。
ややウェーブのかかった金髪は風呂を上がってから時間が経過していないせいか、少しだけ濡れていた。
速人はレミーをキッチンの中央にある椅子に座らせてから、夜食に切ったパンとクリームチーズ、サラミ、ミニトマトなどを用意する。
レミーが喜色満面で食べ物にかぶりつくと暖かいミルクを用意してやった。
「レミー。説教ってわけじゃないけど、食べたら歯を磨いてから寝た方がいいぞ?」
「うっさい、それくらいわかってるよ。…うちの両親じゃあるまいし歯を磨けばいいんだろ?全くお前はいつも一言多いんだよ」
レミーは軽食を平らげた後、適温に温められたミルクを飲んだ。
そして部屋に入ってきた時から速人が温めている鍋の中身を覗いた。
鍋の中には飴色のねっとりとした液体がグツグツと煮えていた。料理に疎いレミー(※出来るけどやらないタイプ)でも鍋の中身がダグザの祖母が使っていた秘密の調味料であることを確信した。
「なあ、速人。これが父さんたちが言ってたダグのお祖母ちゃんの隠し味ってヤツか?なあ、一口食べさせてくれよ」
「うーん。これは一晩寝かせないと味が締まらないから今は食べて欲しくないんだけどな。一応、最後に聞いておくけど味は最低だけどそれでも食べたいんだよな?」
速人は今現在どんな味になっているかを知っているのであまり気が進まない。
しかし、それをどう捉えたのかレミーは食器棚からスプーンを持ち出して速人に渡した。
「美味いとか、不味いとかは私が決める事なんだよ。わかったらさっさと食べさせろよ」
速人は「仕方ないな…」と言いながら鍋の中身を掬ってレミーに渡した。
レミーはスプーンを受け取ると黄金色のドロドロとした物体を口に運ぶ。
それから数十秒間、レミーは下を向いたまま動かなくなってしまった。
速人はコップに水を入れて、顔を真っ青にしているレミーに受け渡した。
レミーはコップを乱暴に受け取るとすぐに中身を飲み干した。
不味いどころの騒ぎではない、史上最大クラスのクソ不味い調味料だった。
レミーは急いで水と謎の調味料を飲んでしまった為にむせっている。
速人はレミーから受け取ったスプーンを流し台で水洗いにしていた。
「てめえ、わざとかコレは不味いって言葉じゃすまねえぞ‼」
レミーは目に涙を浮かべながら速人の襟首を掴んだ。
よほど口に合わなかったのか、速人から手を放してからまた水を一気に飲んでしまう。
それは苦さと甘さが紡ぎ出す絶望のハーモニーだった。




