32 屈さぬ心②
ハリソンは薄い笑い声を上げ、もう片方の手でリザの喉を掴もうとした――が、トントン、と背後のドアの方から音がしたため、いらついたように振り返った。
「くそっ、何なんだよ! おい、何かあったのか、デイブ!?」
デイブというのは誓約書の立会人の欄にも書かれていたので、おそらく御者の名前だろう。
ハリソンは大声で問うが、ドアはしばらく静かになった後に、またコンコンと音を立てた。
「……どいつもこいつも、使えない!」
ハリソンはリザを床に投げ捨てると、ドアの方に向かった。
「おい、デイブ! おまえは黙って見張りをしていろと――」
そう言ってハリソンがドアノブに手をかざした――瞬間、すさまじい爆音を立てて頑丈な木製のドアが外から内側に向けて吹っ飛び、ドアの真正面に立っていたハリソンに激突した。
「ぎゃっ!?」
「……デイブとは、おまえの連れの男か? 悪いがそいつには、寒空の下で寝てもらっている。顔は多少変形しているが、死ぬことはないだろう」
蝶番ごと外れたドアに押しつぶされたハリソンに言ったその人が、リザを見た。
冬の夕暮れの日差しが彼を背中から照らしているため、顔の造形や表情はうまく見えない。
だが、その声が、その輪郭が、リザの胸に安堵の波を起こした。
「アーティ……?」
「迎えが遅くなって、すまない。大丈夫……ではないな」
うめくハリスンには一瞥もくれずに大股でリザのもとまで来た大男――アーチボルドはしゃがみ、気遣わしげな視線を向けてきた。
彼の青色の目が、ハリソンに殴られた頬やテーブルに叩きつけられて真っ赤になっているだろう額などを痛ましげに見てくるので、リザはゆっくりと首を横に振った。
彼が来てくれたなんて、まだ信じられない気持ちだ。
体がふわふわするし、もしかするとこれは都合のいい幻なのかもしれない。テーブルにぶつけられたあのときにもう、リザは意識を飛ばしてしまったのかもしれない。
「本当に、アーティなのですね?」
「ああ、俺だ。それから……カイリーやロスなら、無事だ。二人とも、町の方で保護されている」
「……ああ」
アーチボルドのその言葉に、ますますリザの頭の中がふわふわしてきた。
ハリソンに無理矢理結婚宣誓書を書かされそうになり、カイリーとロスも無事かどうか分からなかったというのに、それら全てが一気に解決するなんて。
こんな都合のいい、リザにとって嬉しいことばかりの展開があり得るものなのだろうか。
いつの間にかリザの頬を涙が伝っていたようで、アーチボルドが太い中指の関節部分でそっと拭ってくれた。
指先ではなくて関節で拭うというのは、指先のがさついた皮膚でリザの柔い肌を傷つけないようにという、彼の気遣いゆえなのだろうか。
「……額に、傷がある。あいつにされたのか」
「……掴まれて、テーブルにぶつけられて……」
リザがしどろもどろに答えると、アーチボルドは青色の目にかっと怒りの炎を灯した。
そして労るようにリザの前髪をそっと指先で払いのけ、傷口に触れないようにしてくれた。
「……痛かっただろう。もうじき、町の者もここに到着する。すぐに温かい場所で治療をさせるから……おっと」
言葉の途中でアーチボルドが自分の腰に手をやったので何事かと思ったら、彼は手元を見ることなく腰に下げていた投擲用のナイフを鞘から引き抜くと、自分の背後に向けて肩越しに投げた。
銀の軌跡を描いて飛んだそれは、壊れたドアの下からなんとか這い出てアーチボルドの背後を取ろうとしていたハリソンの頬をかすめて壁にトンッと突き刺さり、ハリソンは間抜けな悲鳴を上げてへたり込んだ。
「今のナイフは、貴様の左目尻の横をかすめた……そうだろう? 今のは、威嚇だ。次には、貴様の左目の視力を一撃で奪ってやろうか。……なに、俺の手に掛かればさほど苦しむことなく完遂できるぞ」
そう言いながらゆっくり振り返ったアーチボルドに見据えられ、床に座り込んでいたハリソンは歯をカチカチと鳴らせながら、アーチボルドから逃げるように後退した。だが背後は壁なので、すぐに追い詰められてしまう。
アーチボルドはため息をつくとリザの方を向き、背中にそっと大きな手を添えた。
「あの阿呆は後で始末することにして、まずはここを出よう。……もし嫌でなければおまえを抱えていくが、問題ないか?」
「ない……です。あの、でも、私は重いから……わっ!?」
言うが早いか、リザの背中に触れていた手のひらが肩を掴み、もう片方の手がリザの両膝の下に通されて、一息のうちに抱えられた。
いきなり体が宙に浮いたためリザは恐怖心ゆえにとっさにアーチボルドの服にしがみついたが、それを見て彼は低く笑った。
「確かに、カイリーよりは重いな。……あと、俺の首に腕を回した方がおまえは楽だろう」
「こ、こうですか?」
「そうだ」
これでいいのだろうか、と思いながらアーチボルドの首に腕を回した。
彼の首は思いがけず太く、しっかりと掴まろうと思ったら必然的に彼の胸元に体を寄せることになり、恥ずかしさと申し訳なさでうつむいてしまう。
「……すみません。安全な場所に着いたら自分の足で――」
「リザ」
ふいに、名前を呼ばれた。
怪我をしているリザを慮ってかなるべく体を揺らさないように歩いていたアーチボルドは、腕の中のリザを見て苦笑をこぼした。
「俺に対して謝罪の言葉は必要ない」
「ですが……」
「もし申し訳ないと思うのなら……せめて、別の言葉でおまえの気持ちを伝えてくれないか」
少し言葉を濁しながらアーチボルドが言うので、どういうことか、と一瞬考えたリザはすぐに合点がいった。
(……私ったら。いつも、カイリーやロスには注意しているのに)
「……助けてくれてありがとう、アーティ」
「どういたしまして。……これで少しは、おまえへの恩返しになっただろうか」
アーチボルドは喉を震わせて楽しそうに言うと、リザを連れて夕暮れ時の広葉樹林を歩いていったのだった。




