30 勘違い男の執着
リザとハリスンが別れ、彼が酒場の看板娘を連れてファウルズを離れたのが、二年以上前の話。
思ってもいなかった男との再会に、リザは動きを止めていた。
頭の中はせわしく動いて様々なシミュレーションをしているものの、この男になんと言えばいいのかの最適解はなかなか出てこなかった。
「ん? どうして僕がここにいるのか、疑問に思っているって顔だな」
ハリスンは黙るリザを見て、勝手に解釈した。
昔から彼は、リザの思っていることを勝手に予想してそれについてぺらぺらしゃべる癖があったものだ。
「それはもちろん、僕の運命の人を迎えに来たからに決まっているだろう! 君がまだこのおんぼろ教会にいてくれて、本当によかったよ」
「……アイネは? あなたと一緒じゃないの?」
シミュレーションの末に出てきたのは、そんな問いだった。
(ハリスンは私に愛想を尽かして、酒場のアイネを連れて出て行ったんじゃ……?)
だがハリスンはその名を聞くなり相好を歪め、「聞いてくれよ!」とリザの両肩をがしっと掴んで顔を寄せてきた。
おかげで顔が近くなって、彼の顔立ちがよく見えたが……同じ髭面でも、アーチボルドのときは渋みのある三十代くらいのワイルドな男性に思われたのに、ハリスンはただのみすぼらしい中年にしか見えなかった。
「あの尻軽女、浮気をしていたんだ! 一年前に子どもが生まれたんだけど、そいつは僕にちっとも似ていなかった。問い詰めると、間男の子だろうって言うんだ! それも、どの間男か分からないだなんて!」
「……はぁ」
「失望した……いや、幻滅したよ! あんな顔が少しいいだけの女に惑わされるなんて、若い頃の僕は本当に愚かだった。冷静に考えれば、君のように家庭的で従順な女性こそ妻にふさわしいって分かったはずなのに」
「……」
「長い間待たせてごめんね、リザ。さあ、僕と一緒に行こう!」
「行こうって……どこへ?」
いろいろ聞いたり突っ込んだりしたいところはあるが、まず口を衝いて出てきたのはそんな問いだった。
ファウルズに住んでいた彼の両親は既に引っ越した後で、定職に就いているわけでもなさそうな彼と一緒に、どこに行けというのだろうか。
ハリスンはその問いにやや機嫌を損ねたようだが、すぐに笑顔になった。
「僕は今、起業を考えているんだ。今はまだ地方の下請けだけど、すぐにがっぽり儲けて商会を立ち上げてみせる! もちろん、君は商家の夫人になる。いい話だろう?」
「……」
「だから、今僕が暮らしているところに君を呼びたいんだ。僕と結婚したら、仕事なんてしなくていいよ。家で僕の帰りを待って、料理をして掃除をして夜は僕と一緒に寝る。君に任せるのは、それだけだ。こんなところよりずっと幸せな生活を送らせることを、約束するよ!」
……呆れてものが言えない、とはこのような状況を言うのだろうか。
リザの気持ちを一切推し量ることなく自分だけに都合のいい未来を語るハリスンを、リザは冷めた目で見ていた。
いくら過去の彼が今よりはまともな見目だったとはいえ、自分がこの男の恋人だった時期があるということが、とてつもなく恥ずかしいことに思われてきた。
(でも、ある意味昔と変わらずね)
交際している間は色眼鏡で見ていたのかもしれないが、あの頃からハリスンはこういう男だった。
「君のことが大切だ」と嘯きながらも、自分の意見を何が何でも通そうとする。
少しでもリザが別の意見を出すと、「それはよくない」「そんなことを言うなんて、女性らしくない」と、即却下した。
それでも、とリザが食い下がると、途端に機嫌を損ねてさっさと帰ってしまった。
そのときのリザはまだ若くて、ハリソンに合わせられない自分がいけなかったのかもしれない、と思っていた。
だが今では、おかしいのは自分ではなくてハリソンの方だと分かる。
「……お言葉だけれど、私はこの教会で神官として働く日々を楽しんでいるわ。あなたと復縁するつもりはないし、あなたについていくつもりも一切ない」
リザがばっさりと切り捨てると、ハリソンは「またまた、そんなことを言って」とだらしなく顔を緩めた。
ぞっとした。
「久しぶりに僕に会えたのに驚いて、そんなつんつんしたことを言っちゃうんだろう? 本当は嬉しいくせに」
「驚いているというのは正解だけれど、嬉しいとはまったく思っていないわ」
「あ、もしかして二年前に喧嘩したときのことを、まだ引きずっているのか? いつまでも引きずるのはかわいくないぞ?」
なだめるようにリザに言うハリソンが、心底気持ち悪い。
むしろ、彼にかわいいと思われないのならそれで結構だ。
(……らちがあかないわ)
リザは鳥肌の浮かぶ二の腕を服の上からそっとさすり、ドアノブを引いた。
「礼拝客でないのなら、お帰りください」
「ああ、待てってば!」
すかさずドアの隙間にブーツの先をねじ込まれ、リザは怒りで自分の小鼻の端がぴくっと引きつったのが分かった。
こんな押し売りをする悪徳商人みたいな真似をするなんて、この男はどこまで落ちぶれたのだろうか。
「ちょっと、しつこいわ!」
「そんなことを言わないで、話を聞いてくれよ。せっかくだから、お茶でも飲みながら中で話そう? リザは甘酸っぱい紅茶が好きだったよね?」
残念ながら、リザが好きなのは甘いフルーツ入りの紅茶だ。
誰と間違えたのかは知らないし、そもそもリザに淹れさせる気満々のようなのが余計に腹が立つ。
「私はあなたと話すことなんて……」
「……リザ?」
ドアを引っ張るリザと開けようとするハリスンが攻防を繰り広げていると、背後から無邪気な声が聞こえてきたためリザはぎくっとした。
首だけひねって振り返るとそこには、お菓子入りの籠を抱えたロスの姿が。
「ロス……」
「おきゃくさんなの?」
「いえ、この人は――」
無頼者よ、と言おうとしたが、いきなりとんでもない力でドアを引き開けられたため、ドアノブから手を滑らせたリザはその場に尻餅をついてしまった。
「いっ……」
「……見損なったよ、リザ」
尾てい骨を強かに打ったリザが痛みにうめいていると、その上にぬっと黒い影が差し込んだ。
そうして見上げた先にあるハリスンの目は暗くよどんでいるようで、リザの喉から声にならない悲鳴が漏れる。
「君はっ……! 僕という恋人がいながら、よその男との間に子どもを作っていたのか!?」
「は……?」
「ひどい裏切りだ、リザ! 都会出身の神官ならうぶな生娘に決まっているだろうと信じていたのに……!」
「え、ちょっと待って。ロスは私の子じゃ……」
「……ああ、分かったぞ。君が僕との結婚に首を縦に振らなかったのは、お腹に子どもがいたからだな? だからアイネをけしかけて僕を追い出して、のうのうと子どもを育てていたと……」
ぶつぶつとしゃべっていたハリスンを前にリザは凍りついていたが、彼のぎょろっとした目が動いてロスを捉えた瞬間、リザの本能が警鐘を鳴らした。
「……あのガキがいなければぁっ!」
「やめて!」
ロスに向かって駆け出そうとしたハリスンの両脚に、リザはとっさにしがみついた。
おかげで二人して倒れることになり、ばたつく彼の右膝がリザのみぞおちに入り、ぐっと息が詰まりそうになった。
(痛いっ! でも……)
「……ロス、今のうちに逃げて!」
リザから離れようともがくハリスンに体のあちこちを蹴られながらも、リザは必死に声を張り上げた。
今リザが痛みに負けて手を離せば、ハリスンがロスに何をするか分かったものではない。
彼が逃げたり隠れたりできる間だけでも、リザは時間を稼がなければならない。
それが、ロスを教会に迎え入れた神官として、彼の保護者として、リザがするべきことだ。
自分でも驚くほどの力でハリスンの脚にしがみつきつつロスに呼びかけると、最初は呆然としていた彼ははっとしてお菓子の籠を取り落とし、そして一目散に逃げていった。
ハリスンは「あっ、くそっ!」と毒づくが、すぐに小さな足音は聞こえなくなったのでほっとした。
ロスはよくカイリーと一緒に、教会でかくれんぼをしている。その隠れ場所には、この教会で働くようになって四年経つリザでさえ「こんなところが!?」と驚かされるものもある。
ロスは賢いから、きっと安全な場所に隠れてくれるだろう。
(ああ、そうだ。カイリーにも隠れるように言わないと……)
だがリザが安堵で力を抜いた隙に、ハリスンは自分の両脚を引っこ抜いた。そして床にうつ伏せに倒れるリザの手首を掴んで、ぐいと引き上げる。
「余計なことを……! ふん、だがまあいい。ガキの始末は後でするとして、君にはしてもらうことがある。僕と一緒に来い!」
抵抗しようにも、先ほどロスを逃がすために力を使いすぎたようで、萎えた四肢には力が行き届かない。
そのままリザはハリスンに引きずられて教会から連れ出され、表に停まっていた馬車に放り込まれた。
「リザは見つけた。例の空き家に行くぞ!」
ハリスンはリザを荷台に放り込んでその上に適当に幌を掛け、馬車に乗り込んでから御者らしき者にそう命じた。
すぐに馬車の車輪が動き出し、荷台に寝かされたリザは馬車が丘陵を下る際に傾いてごろごろ転がらないように両手で踏ん張るので精一杯だった。
(カイリー、ロス……)
教会に残してきた子どもたちのことを思い、リザは唇を噛んだ。




