第8話 ウービーイーツでーす!
ドアの向こう側で澄み切った楽器の音色が聞こえたかと思うと。
そのすぐあとで。
ドンドンドン!
ドアを叩く音が聞こえた。
「ウービーイーツでーす!」
その声を、虹子はおぼろげな意識で聞いていた。
幻聴だ、と思った。
人間は極限状態になると幻覚や幻聴でとんでもないことをしでかすという。
冬山登山で重度の低体温になったとき、神経がバグを起こして逆に暑く感じ、着ているものを脱ぎ始めてしまう『矛盾脱衣』などが有名だ。
ほかにも、雪洞の中でビバーク中に、来るはずもない救助が来たと思い込んで自ら吹雪の中に出ていってしまう、なんてことも聞いたことがある。
虹子は薄れゆく意識の中で、自分もその状態になっている、と思った。
こんなダンジョンの下層階に、ウービーイーツの配達員が来るわけがない。
頭の片隅ではそう思いながらも、虹子は自分の身体がゆっくりと立ち上がってドアに近づいていくのを止めることができなかった。
――コーラが飲みたい。ハンバーガーを食べたい……。
〈おーいニジー! 駄目だ!〉
〈モンスターの罠だぞ!〉
〈ドアを開けるな!〉
〈気をしっかりもて!〉
〈頼むニジー! ウービーがこんなとこ来るはずない!〉
〈だめだよニジー! お願い、やめて!〉
コメント欄が必死に虹子を止める。
当たり前である。
ここは国の救助隊も救助を断念するダンジョンの地下六階。
正常な判断力を持つものならば、モンスターの罠と判断するのが当然だった。
だけど――。
「コーラが飲めるなら死んでもいいよ……」
虹子はそう呟く。
〈だからコーラは飲めないんだって!〉
〈やめろ! やめろ! ドアの魔法を解除しちゃだめだ!〉
〈お願いニジー、正気に戻って!〉
コメント欄は悲痛なコメントでいっぱいだ。
ドンドンドン!
またドアがノックされる。
「あれえ? 寝てるのかなあ? こんにちはー! ウービーイーツでーす!」
ドアの向こうから女性の声が聞こえてくる。
虹子はドアのノブに手をかけ、かけていた閉鎖の魔法を解く。
そしてゆっくりとノブをまわし――。
ドアを開いた。
その光景を、虹子は一生忘れないだろう。
まず目に入ったのは、深みのある輝きを放つ、黒い瞳。
整った目鼻立ち、うっすらと日焼けした肌は健康的にピカピカ光って見えた。
シュッとした眉毛の形は凛々しくて、頼もしさまで感じさせる。
長い黒髪のポニーテール、身に着けているのは真っ白な……なんだろうこれ、和服? というか、山奥で修業する修験者の恰好だ……。
胸にはボンボンみたいな黄色い飾りがついている。足元には足袋。
なんかのゲームで見た、カラス天狗と同じ装束を着ている。
こういうの、なんというんだっけ、そうだ、山伏装束だ。
地下六階まで探索してきたとは思えないほど、その衣服には汚れひとつない。
首には法螺貝を下げ、左手には錫杖を持ち、右手には商品の入ったビニール袋。
「お持たせしましたー! ……たぶん、まだコーラの氷は解けてないと思います」
その声を聞いて虹子は震えた。
高すぎもせず、低すぎもしない清らかな声。
倍音が効いていて、深みのある声をしていた。
「あれ? どうしました? 体調、悪いんですか?」
全身をあったかく包み込んでくれるような、優しい声でもあった。
虹子はポヤーっとした顔で、目の前の人物を見る。
ああ、なんて凛々しくて美しい女性なんだろう……。
法螺貝まで持ってるなんて、もう絶対山伏じゃん。
山伏の女の人……かっこいいなあ。
「あの、お客様? ほんとに大丈夫ですか?」
山伏の言葉に、カサカサに乾いた唇を動かして虹子は答えた。
「喉……乾いて……脱水かも……」
そしてそのままその場に崩れ落ちるように倒れてしまった。
〈え待ってこいつ山伏のモンスター?〉
〈いや人間っぽいぞ〉
〈ここ地下六階だぞ、そんなことある?〉
〈ウービーがダンジョンまで来たってこと?〉
〈やらせか?〉
〈でもニジー、まじで気を失っているみたい〉
〈山伏の女がウービーイーツでハンバーガーをダンジョンの下層階に配達してきたの? 情報量多すぎてやばい〉




