第60話 牛王宝印
六畳一間の部屋の中。
白い着物を着せられた虹子が横になっている。
胸元は少しはだけさせられて、アザが見えていた。
それは、円形の中に歪んだ十字架のような模様が描かれたアザ。
虹子の傍らに座っている零那が、印を結ぶ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
そして、両手に持った数珠をジャリジャリとこすり合わせて鳴らした。
この数珠は一般的な数珠とは違うかたちをしている。
粒の一つ一つは球ではなく、ソロバンの珠のような角を持った形状をしている。
それが108個。
煩悩の数だけ連なっているのだ。
伊良太加念珠と呼ばれる、山伏が魔を打ち破るために使う、特別製の数珠である。
それが奏でる音は、人に害なすものの力を砕くことができるのだ。
零那の隣で、羽衣も座って伊良太加念珠を鳴らしている。
「オン マユラ キランデイ ソワカ!」
丹田に力をため、零那は仏母孔雀明王の真言を唱えた。
虹子は怖いのか、ぎゅっと目をつぶって唇を引き締めていた。
零那は傍らに置いていた、金属製の法具を手に取る。
長さ20センチくらいで、手に握れるほどの太さ。
両端は槍の穂先のように尖っている。
独鈷杵と呼ばれる、密教で使われる武器である。
零那はそれを持って、横たわる虹子の上で大きく振りかぶる。
片目をそっと開けた虹子はそれを見て、「ひっ」と声をあげた。
「あの、お姉さま、それ、痛い?」
「たぶん、少し、痛い。我慢してね」
「ひっ! が、我慢する……」
眉間にしわをよせながら、また強く目をつむる虹子。
「オン マユラ キランデイ ソワカ!」
零那は再び大声で真言を叫び、独鈷杵を虹子のアザにつきたてようと――。
その瞬間。
ギィィィンッ!
アパートの部屋に大きな金属音が響き渡った。
零那の独鈷杵は、アザに届く前に弾き返される。
「……え? なにこれ?」
零那は驚きの声を上げた。
独鈷杵に込めたはずの霊力が四散している。
「お姉ちゃん、これ……」
羽衣も青ざめた表情だ。
「うん……かなり強い結界が張られてある……。そんじょそこらの妖怪の仕業じゃないわね、これ……」
「え? え? お姉さま、羽衣ちゃん、今なにがどうなってるの?」
「もう一度やってみるわ! 今度は全力全開! オン マユラ キランデイ ソワカ!」
「え、ちょっと待って怖い、うう~~!」
虹子の言葉を無視して零那は独鈷杵を思い切り振り下ろす。
そんじょそこらの呪いなら、これで雲散霧消するはずだった。
だが。
ギイイイイイン!
またもや大きな金属音とともに、零那が渾身の力を込めた独鈷杵はアザに届くことなく、跳ね返された。
「…………これ、やばいやつかも…………」
と、次の瞬間。
虹子の身体がドクンッ! と弾むように跳ねた。
同時に、
「ううううああああああああああああ!!」
虹子が喉の奥からしゃがれた悲鳴のようなものをあげる。
「やばい! 羽衣、お札! 牛王宝印!」
「うん!」
羽衣が念のために用意していたお札を零那に渡す。
八咫烏をモチーフにしたカラス文字というもので文字が書かれている。
素戔嗚尊と同一視される、インドの守護神牛頭天王の力が宿っているとされるお札である。
零那はそれを虹子のアザに押し付け、
「羽衣!」
と叫んだ。
羽衣は呼びかけに応じて、そのお札を二本指で指さし、
「急々如律令!」
と叫んだ。
とたんにお札は虹子のアザに貼り付く。
虹子はそれで落ち着きを取り戻し、ふーふーと大きく息を吐き始める。
「おねえちゃん……」
眉をひそめて零那を見てくる羽衣。
零那はうなずいてみせて、
「これは、かなり強力だわ……まずいかもしれない。羽衣、今すぐ支度をして! 洞窟の中で護摩をたかないと無理かも!」
「でもそんな護摩壇なんて持ってきてないよ、さすがに」
「うーん、どうしようかしら……。…………私と羽衣はなんともないわね……。どこで受けた呪いなのかしら」
「ちょっと待ってお姉ちゃん。私、ちょっと気になるんだけど……トメさんは大丈夫かな?」




