その9『光と闇の魔導書(アズラエル)』
カルヴィナが振るう二つの剣は今、生涯で最高の状態にあった。
剣圧で敵の防御を突き破るような力には恵まれず、間合いを取って次の一手を読みあう戦い方も不得手。やや中性的な外見が示すとおり、彼女はまるで少年のように、じっとしていることが苦手な性格だったのである。
力もない。読みあいもできない。
そんな彼女が最終的に選択したのが今の、力ではなく手数で敵を圧倒する戦闘スタイルだった。二刀流を選んだのも一撃の威力より手数を重視した結果だ。
このスタイルの長所は自身の間合いにおける圧倒的な制圧力である。ひとたび間合いに入れば相手に手を出すことさえ容易には許さない。中途半端に手を出しても片方の剣で防がれ、もう片方の剣が急所に襲い掛かる。まさに攻防一体だ。
ただ、もちろん弱点もある。
一つには見た目にも明らかなリーチの短さ。
そしてもう一つは防御面の弱さである。
このスタイルが攻防一体となるのは、相手の攻撃が軽いことが絶対の条件だ。軽く、短く、片手で扱う彼女の武器は、相手が万全の体勢から放つ強烈な一撃に対してはあまりにもひ弱すぎるのだ。
つまり攻防一体であることは彼女のスタイルの本質ではなく。
その真の姿は捨て身の制圧力。
ただ、だからこそ。
今、自らの身の安全を顧みることなく、ただ目の前の強敵を打ち倒すことのみに全身全霊を注いでいるカルヴィナの剣は、彼女の人生の中で最高の状態にあったのである。
受けるメイナードの表情が、それを明確に表していた。
「以前と明らかに違うな。……面白い」
荒れ狂う嵐のように次々と襲い掛かるカルヴィナの剣に、メイナードの顔からは余裕の笑みが消えていた。
メイナードはようやく、カルヴィナを一人の敵として認めたのだ。
そして、
(決して見逃すな……!)
手を緩めることなく攻撃を続けるカルヴィナのフォローに回っていたティースは、実際の何倍にも感じられる時間の中を漂いながら、“そのとき”をただひたすらに待ち続けていた。
隙ができる瞬間。
それはおそらくメイナードが能力を使った直後になるだろう。
メイナードはまだ、自分の能力がティースたちに知られているとは気付いていない。能力を使って攻撃を外せばカルヴィナは戸惑い、攻守を逆転することができるとそう考えているはずだった。
そして今はそのタイミングを計っている。
それこそがティースの狙うタイミングでもあった。
やがて、その瞬間は訪れる。
(……来たッ!)
カルヴィナの攻撃に対するメイナードの動きに現れた僅かな変化をティースは見逃さなかった。防御が遅れている、いや、遅らせたのだ。メイナードの剣は外側を向き、明らかに防御ではなく攻撃に向かおうとする構えだった。
メイナードの体はカルヴィナの剣を避けられる体勢にはない。が、それでもカルヴィナの攻撃は空を切るだろう。
(よく視ろ。一瞬たりとも見逃すな――)
ティースの目が、時を刻む。
逆袈裟に振り上げられたカルヴィナの短剣。引き気味だったメイナードの姿勢がやや前のめりになる。カルヴィナの剣閃が速度を増し、メイナードの体に伸びた。
その、瞬間――
(……これが!)
ぐにゃり、と。
カルヴィナの剣の周囲で空間が歪んだ。切っ先が体に触れるその一瞬だけ、剣身が短くなったような、あるいはメイナードの体の一部が欠けたような、そんな奇妙な現象が起きたのだ。それはほんの一瞬の出来事。刹那の時間に侵入したティース以外にはなんの違和感もなかったに違いない。
メイナードの瞳には能力の発動を示す微かな赤い輝き。
(これがこいつの能力か……ッ!)
予測は完全に当たっていた。空間を歪めて間合いを操作する能力。そう断定して間違いない。
カルヴィナの剣が空を切る。その瞬間、彼女の横顔がティースの視界に入ったが、表情に驚きはない。彼女も最初から外すのがわかっていたのだ。
表情が変わったのはメイナードのほうだった。
「……!」
微かな驚きの表情。攻撃を外したカルヴィナの隙を突こうとしたのだろう。メイナードの体は完全に攻撃の体勢に移ろうとしていたが、カルヴィナが僅かな隙も見せずに淡々と攻撃を続けたため、その行動は未遂に終わった。
再び防御の姿勢を取るメイナード。そのままカルヴィナの攻撃は防いだが、攻撃から防御に急に転じた影響で、両足と体のバランスが崩れていた。
(ここしかない……!)
そこまでの展開を完璧に予測していたティースの体は、メイナードの右側面、すでに攻撃が届く間合いにあった。もちろんメイナードもティースの動きには気付いている。しかし、カルヴィナの攻撃を捌くので精一杯の体勢だった。
(あとは――!)
肩がメイナードの体にぶつかりそうになるほどに右足を踏み込む。上段に振りかぶった剣はメイナードの肩口に照準を定めていた。
舌打ちの音。ティースの一撃はその体勢からは避けられない攻撃だった。
メイナードの瞳が再び赤味を帯びる。能力発動のサインだ。
(ギリギリ、根元から行く……ッ!)
問題はそれで能力を発動したメイナードの体に届くかどうか。
だが、ティースには半ば確信があった。ティースの剣はシュナークが手にしていたものとほぼ同じ長さだが、シュナークは最後の一撃を根元から当てようとは意識しなかったはずだ。メイナードは能力を使ってシュナークの攻撃を避けているが完全には避けきれず、剣先はギリギリでメイナードの服を一枚切り裂いている。
つまり、長さを最大限に意識したティースの一撃はその能力では避けきれない。
「おぉぉぉぉ――ッ!!」
ティースの口から気合の叫びが迸った。
振り下ろされる細波。その切っ先がメイナードの体を捉える。
……だが、しかし。
「これだから、人間は面白い」
「!?」
直後、ティースの両手に伝わったのは敵を切り裂いた感触ではなかった。
ごり、という鈍い痛み。
「っ……!」
両手が痺れる。
(なに……が……!)
手元に視線を向けて。
そしてティースはその感触の正体を悟った。
(肩、が……!?)
そう。メイナードの体を捉えたのは細波の剣身ではなく、その柄を握るティースの両手だったのである。
「俺の能力をどうやって知った? やはりシュナークがなにかヒントを遺していたのか?」
「!」
メイナードが動く。一瞬、ティースの反応が遅れた。
「ティースさん! 離れてください!」
失敗を悟ったカルヴィナがメイナードに再び剣を向けると、メイナードはティースへの攻撃をすぐに諦めてカルヴィナへ向かった。
「っ……」
頭の中が整理しきれないままにティースは間合いを広げる。ティースが離れたのを見て、カルヴィナもいったん間合いを広げて仕切りなおそうとした。
ティースが結論に至ったのは約一秒後。
(今のは、そういうことか……!)
そして。
(……だとしたら、まさか!)
ティースの背筋を悪寒が駆け上った。
そしてほぼ反射的に口を開く。
「カルヴィナ、気をつけろ! そいつの力は!」
ティースが叫ぶとほぼ同時に、メイナードが攻勢に出た。ただ、カルヴィナはその時点ですでにメイナードの間合いから出ている。
そのはずだった。
が、しかし。
メイナードの口元に笑みが浮かぶ。瞳は赤いまま。
能力が発動している。
「カルヴィナ!」
ティースの頭は真っ白になった。
「防げッ! そいつの剣は“伸びて”くるぞッ!!」
ティースの叫び声と、メイナードの剣が空を切ったのはほぼ同時だった。
いや。
「……え?」
カルヴィナが不思議そうな呟きを漏らす。
宙に飛び散る鮮血。
ゆっくりと地面に落ちたのは短剣と――彼女の右手首だった。
「ぁぁぁぁぁ――ッ!!」
肺の奥から空気を搾り出したような悲鳴をあげ、カルヴィナは地面に膝をつく。
「……カルヴィナ!」
「時間をあげよう」
カルヴィナに向かって駆け出そうとしたティースを剣の切っ先で制し、メイナードは言った。
「俺は女を殺せないんだ。宗教上の理由でね。だから死なない程度に手当する時間を君に与える。……くれぐれも手当を怠って“事故死”しないように気をつけてくれ」
「……!」
カルヴィナが苦痛の声を上げながら地面にうずくまる。切断面から流れる血がみるみるうちに地面を赤茶色に染めていった。
すぐに止血をしなければ命にかかわる。
「わかった」
躊躇せず、ティースはメイナードに向けていた剣を下ろした。するとそれを見たメイナードも剣を下ろし、カルヴィナから距離を取っていく。
「……カルヴィナ!」
ティースはすぐにカルヴィナに駆け寄り止血の準備を始めた。メイナードの存在はもちろん気になったが、シュナークのときと同様に、隙を突いて襲い掛かってくるようなことはなかった。
「ティース……さん……ッ!」
カルヴィナは額に大量の脂汗を浮かべながら何か言おうとしたが、ティースはそれを制して彼女の右腕を取った。
完全切断だ。傷口での止血はできない。
ティースは懐から布切れを取り出し、上腕部を縛っての止血処置を行う。
「しかしまさか死者のメッセージで気付くとはね。俺は人間のそういうところが好きなんだ」
メイナードは近くの大きな石の上に腰を下ろし、血のついた剣の手入れを始めながら言った。
「俺は昔、人の集団に紛れ込んでいたことがあってね。当時はなんとも思わなかったが、今になって思うことがある。人と人との繋がり。特に言葉にしない意思の疎通。絆、とでもいうのかな。その絆の強さこそ、人間が唯一、俺たち魔より優れているところなんじゃないかとね」
「……」
ティースは言葉を返すことなく、時折カルヴィナに励ましの声をかけながら淡々と処置を続けた。
それでもメイナードは独り言のように続ける。
「君が劣勢のときに危険も顧みず駆けつけたあの少女。弟子の仇を討とうと挑んできたシュナーク。そのシュナークの最期のメッセージに気付いた君たち。それが少しずつ少しずつ俺を追い詰めていったんだ。その積み重ね、絆の美しさに俺はどうしようもなく憧れている。俺たち魔が持たないものだからこそ、なおさらに」
そう言って笑みをこぼす。
「それがいつか俺の身に届くことがあるのだとしたら。それはそれで悪くない終わりなんじゃないかと思ってるんだ。割と本気でね」
「……カルヴィナ。大丈夫か?」
上腕部をきつく縛ったことで、カルヴィナの傷口から流れていた血がようやく止まった。もちろん完全な処置ではない。一刻も早くきちんとした手当が必要だ。
が、しかし。
もちろん今は、このまま背を向けることはできない。
「ティース……さん……!」
はあ、はあ、と、荒い息で、汗と涙を浮かべながらカルヴィナはティースを見上げて言った。
「逃げて……ください、お願いします……! これでもう、勝ち目は……!」
「それは無理だよ、カルヴィナ。逃げられはしない」
そう言ってティースは地面に置いていた細波を手に取りゆっくりと立ち上がる。
それを見て、メイナードも腰を上げた。
「ただその絆の力も今回はまだ遠かった。俺に届くにはね」
「……」
ティースは正面からメイナードを見据え、そして先ほどまでの戦いを頭の中で整理していた。
――メイナードの能力。“弾性空間”。
それは最初にティースたちが考えていたような間合いを遠ざける使い道以外に、間合いを縮めることもできるようだ。細波の根元を当てるように振り下ろしたティースの手がメイナードの肩に当たってしまったのも、間合いの外にいたはずのカルヴィナの右手首がメイナードの剣によって斬り飛ばされてしまったのも。
間合いを縮める、その能力のためだ。
一つ、大きく息を吐く。
カルヴィナのいうとおり、もう万に一つも勝ち目はないだろう。剣技のみでやり合ってもメイナードは数段上の相手だ。そこに間合いを自在に操る“弾性空間”があっては、ティースにはもはや勝機を見い出すことさえできない。
ただ、それでも。
「メイナード。お前は思い違いをしている」
そう言ってティースは細波を構えた。
「思い違い?」
背後で、カルヴィナのすすり泣く声が聞こえる。仇を取れなかった悔しさか、あるいはティースを巻き込んでしまったことへの罪悪感か。
ティースは続けた。
「お前が憧れているそれは、人だけが持っているものじゃない。人であろうと魔であろうと、最初は誰もが持っているものだ」
脳裏に浮かぶ、別れた仲間の顔。
心の中でそっと、謝罪の言葉を呟く。
「お前にそれがないのは、お前が魔だからじゃない。自ら手放してしまったから。それだけだ」
「……なるほど。そうかもしれないね」
メイナードは得心がいったという顔をした。
「確かに俺も、かつて一緒の時間を過ごしたあの人間たちが嫌いではなかったかもしれない。皆、殺してしまったがね。俺は殺し屋だから」
ティースはチラッと後ろのカルヴィナを見る。
「……カルヴィナは自力で町に戻るのは難しい。このままだと助からないかもしれない」
心配いらないよ、と、メイナードは無造作に一歩、前に踏み出した。
「彼女が素直に従うなら、君を殺した後で町のそばまで送ろう。自ら死を望むならその限りではないがね」
「……」
おそらく彼女は従わないだろう。だが、ティースにはもはやどうすることもできない。
さらに一歩、メイナードが近付いてくる。
「ティーサイト=アマルナ。……君は実力的にはそこそこでも、俺にとってはなかなかに印象深い人間だった。もしも今このときに出会わなかったなら、いつか俺の命を絶つのは君の役割だったかもしれないね」
そんなメイナードの言葉を最後まで聞くことなく、ティースは自ら地面を蹴った。
勝ち目がないとしても何もせずに終わるつもりはない。
精一杯抵抗して、叶うならばせめて一太刀。
――しかし現実は非情だ。
肩口が裂け、脇腹を深く斬り裂かれて、血が飛び散る。
極限の集中力と、最大限に高まった精神。能力のすべてを引き出し、時を刻む瞳の力を使い、全身全霊を込めてもなお、ティースには致命傷に繋がるメイナードの攻撃を紙一重で避け続けるのが精一杯だった。
大人と子供。
すべてを出し切っても、二人の間にはまだそれほどの力の差があるのだ。
それでもティースは剣を振るい続けた。
もはや生きて帰る道は閉ざされていると、そうわかっていながら。最後の最後まで剣を振るうことが、最後の矜持だとでもいうように。
「おぉぉォォ――ッ!」
雄たけびをあげて、剣を振るう。振るう。振るう――。
それでも、彼の剣は一太刀も届かない。
それが現実だった。
腕の皮膚が裂け、脇腹に鋭い痛みが走る。もはやどこをどの程度負傷しているのかもわからない。
ただ体が動き続ける限り、剣を振るうのみだった。
「……」
メイナードの口元が緩む。
余裕ではない。ただ、楽しそうに。
そして、
「これで終わりだ」
メイナードの瞳が赤く輝く。
直後、ティースの両方の太ももがメイナードの剣によって切り裂かれた。
「……っぁッ!」
力の入らなくなった両足が体重を支えきれなくなり、ティースは地面に両膝をつく。前のめりになった体を左手で支え、なおも右手の細波を振るった。
が、しかし。
「その強靭な意思を讃えよう。ティーサイト=アマルナ」
メイナードの瞳が赤い輝きを放ち、ティースの最後の攻撃も空を切った。
頭上にメイナードの剣がきらめく。
見上げる。
カルヴィナの叫びが聞こえた。
そして。
そして――それが最後の景色になるのか、と、ティースが死を覚悟したその直後。
風が吹いた。
「!」
メイナードが飛びのくのと、ティースの眼前に一陣の風が舞い降りたのはほぼ同時のタイミングだった。
風。
ひらひらと踊るワンピースのスカート。
風をまとう少女。
「……エル!?」
馬鹿な、何故――と、ティースが疑問の言葉を口にする前に、エルレーンとメイナードの戦いは始まっていた。
「風魔……? 上位魔か、いいや……」
全身に緑色の輝きをまとうエルレーンに、メイナードは慎重に間合いを広げながら品定めするような視線を送る。
「神気をまとっているということは、王魔か……」
エルレーンの両手から風の刃が飛ぶ。メイナードはその飛び道具を手にした剣でたやすく打ち落とすと、今度はエルレーンとの間合いを急速に詰めていった。
「エルッ!」
「っ……」
エルレーンは眉をひそめながらさらに風の刃を放ち、メイナードをティースから引き離そうとするかのように横に移動した。メイナードはそんなエルレーンの意図をすぐに察したようだったが、そのままティースを放ってエルレーンを追っていく。
ティースがそう簡単に立ち上がれる状態でないことを見て、新たな敵の制圧を優先したのだ。
「王魔にしてはずいぶんと貧弱な……」
メイナードはすでにエルレーンの力量を見抜いているようだった。
ティースが叫ぶ。
「やめろ、エルッ! 無理だ、やめてくれッ!!」
どうあがいても太刀打ちできるはずがないのだ。メイナードが女性を殺さないというのが本当だとしても。少なくともカルヴィナのように重傷を負わされ、結果死に至る可能性は決して低くはない。
だとすれば、それは無駄死にだ。
「エルッ!」
ティースの叫びは届くことなく、メイナードの剣がエルレーンに襲い掛かる。
だが、しかし。
「無駄だよ」
エルレーンの体を覆う緑色の光が強さを増す。と同時に、彼女の体はまるで風に舞う木の葉のように軽やかにメイナードの剣をかわしていた。
メイナードが驚きに目を見開く。
「“風妖精の舞”とは……ずいぶんと希少な技を」
そんな呟きを漏らしたメイナードを、エルレーンは真っ直ぐに見据えた。
「キミの攻撃はボクには当たらない。……もう少し、付き合ってもらうよ」
そうしてさらに、エルレーンの両手から風の刃が放たれた。
――そんな二人の様子を呆然と眺めながら。
「……エル。どうして……」
ティースの口から漏れたそんな呟き。
それに答える声があった。
「どうして? そんなの決まってるじゃない」
「!?」
すぐ背後にまで近付いていたその気配に気付けなかったのは、あまりに唐突な出来事に集中力が途切れてしまっていたせいだろうか。
「お前に死なれると困るのよ。エルも、私もね」
振り返った視線の先にいたのは、そこにいてはならないはずの少女だった。……ティースにとっては自分が死ぬことよりも避けなければならなかった、この状況。
瞬間、怒りが込み上げた。
「どうして……どうして戻ってきたんだッ! シーラ!!」
その言葉には答えず。風に流れる金糸のポニーテイルを片手で抑えながら、シーラはいつもと変わらない表情でティースの足もとに膝をつき、太ももの傷を覗き込む。
そして数秒眺めた後、言った。
「少し深いけど、処置すれば動けるようにはなるわ。じっとしてなさい」
そう言いつつ、腰にぶら下げたポーチから軟膏が入った丸い容器を取り出す。
「シーラ――ッ!」
さらに問い詰めようとするティースに、シーラは顔を上げて彼を見た。
その瞬間、ティースは言葉を失う。
「え……」
ほんの一瞬。いつも強気な色を浮かべているシーラの瞳が、まるで泣き出す直前のように大きく揺らいだのだ。
直後、シーラはそれを隠すかのように視線を落とした。
「同じことは言わないわ。……それとごめんなさい」
「え……」
「死んでも自業自得だなんて、言うべきじゃなかった。いろいろ気付いても、素直になるというのは難しいことね。だから……ごめんなさい」
「シーラ、お前……」
突然の変化に戸惑うティース。ゆっくりとシーラが顔を上げた。そこにあったのはいつもの彼女らしい気の強い瞳。
「諦めないで、生きて。ティース。私たちはそのために戻ってきたのよ」
薬を乗せたシーラの指先が太ももの傷口に触れ、ティースは微かに痛みの声を上げる。どうやらエレオノーラたちとの戦いの後に使ったのと同じ薬のようだった。ひんやりした感触が染み込んで痛みが和らいでいく。止血の効果もあるのか、流れる血の量も減っているようだった。
「二、三分はじっとして。すぐに力を入れたら傷が開くわ。次は……」
と、シーラは近くでうずくまっているカルヴィナに視線を送った。右手首がなくなっているのを見て眉をひそめ、上腕部できっちり止血されているのを確認すると小さく頷く。
「エルが時間を稼いでくれてるうちに――」
シーラが早口でそう呟いた直後のことだった。
「……エルッ!」
ティースが叫ぶ。その視線の先。エルレーンの体がまるで投擲されたジャベリンのように綺麗な放物線を描き、ティースたちの頭上を越えて後方に落下していった。
「エル!?」
シーラも叫んだ。
背中から地面に落下したエルレーンはかろうじて受身のような姿勢を取ったが、苦痛の声を漏らしてそのまま動かなくなる。
ティースとシーラは同時に、正面へ視線を戻した。
「……あらゆる攻撃を紙一重で避ける“風妖精の舞”も、俺の能力の前ではなんの意味もない。まして攻撃能力が無きに等しい状態ではね」
メイナードの瞳は強い赤色を放っていた。エルレーンを吹き飛ばしたのはどうやら空魔得意の衝撃波だったようだ。
「さて、援軍はこれで終わりか」
事も無げにそう言って、メイナードはティースたちに向かって歩いてくる。
(……強すぎる……)
エルレーンに勝ち目がないことはティースにもわかってはいたが、それにしても。シュナーク、カルヴィナ、ティース、エルレーン。これだけの人数を、メイナードはかすり傷の一つも負うことなく退けてしまったのだ。
あまりにも差がありすぎる。
しかし……いや。
そのときティースの脳裏に即座に浮かんだのは、目の前にいるシーラをいかにして説得するかということだった。
メイナードは女性を殺さない。少なくとも自ら進んで殺そうとすることはない。つまり抵抗さえしなければシーラはもちろんのこと、エルレーンもカルヴィナも命を落とさず済む可能性が高いのだ。
抵抗さえしなければ。
ともかく、ティースはそのことをシーラに伝えようとした。
女性を殺さないというメイナードの特性を。
しかし。
「手当は……どうやら後回しね」
「シーラ? ……おい、シーラ、なにを!?」
ティースは軽いパニックに陥っていた。それもそのはず。カルヴィナの治療に向かおうとしていたシーラが踵を返し、メイナードの正面に立ちふさがったのである。
無謀などというレベルの話ではない。
当然、メイナードも不審そうな顔をした。
「武器もないし、身のこなしも戦う人間のものではない。それともまた煙幕でも張るつもりか? その行動は勇気でも思いやりでもない。ただの愚か者だ」
メイナードの言うとおりだった。
ティースは立ち上がろうとして力が入らずにバランスを崩し、片膝をついた状態で叫ぶ。
「シーラ! 馬鹿な真似はよせ!」
そんなティースの叫びに、
「……不思議ね」
ポツリ、と、シーラは背中を向けたままで呟いた。
「初めて手にしたときから七年半。今の今まで気付かなかったのに、今はこんなにも聞こえてくる。この子の声が」
「……シーラ? お前、なにを……」
彼女が何を言っているのかティースには理解できなかった。
が、すぐに気付く。
(……黒い、本?)
シーラの手の中には黒い背表紙の本があった。
「私が私であることを取り戻そうとしたから? それとも……ううん。そんなことはどうでもいいわね」
ゆっくりと、肩越しに振り返るシーラ。
ティースは息を呑んだ。
「シーラ、お前……」
いつもの彼女ではない。
右の目だけが、黄金色に輝いていた。
「わかるのよ、ティース。この本は、私に戦う力をくれる。不思議な本だとは思っていたけど、でもこれは」
「それは、まさか――」
そしてティースは思い当たった。その本と似たようなアイテムの存在に。
「アメーリアの……“地と風の首飾り”と同じ……」
「“光と闇の魔導書”。……ありがとう、ティース。今の今まで、お前には礼の一つも満足に言えてなかったわね」
その直後。
大気が悲鳴を上げた。
迸る、巨大な魔力。
「シーラ……ッ!」
「今回だけは私がお前を守るわ。……感謝なさい。こんなサービス、滅多にないのよ」
キラキラと白と黒の粒――魔力の結晶がシーラの周囲を舞う。やがてその粒子は彼女の全身を覆い、白と黒の翼の形を成した。
「魔導器、それもあの……」
ヴァルキュリスの巫女、アメーリアが所有していたものと同じ類の魔導器であれば、それは持ち主に王魔にも匹敵する魔力を与えるとんでもない代物だ。
「……なるほど、それが」
メイナードは足を止めていた。目を細め、膨大な魔力の渦の中心を見つめて呟く。
「シアのやつめ。口は達者なくせに肝心なことを言わない」
油断なくシーラの挙動を注視しながら、メイナードはゆっくりと戦いの姿勢を取った。その視線がチラッと、シーラの背後にいるティースへ一瞬だけ向けられる。
「君の持つ絆の強さには本当に感心させられる。この土壇場にあってなおもこんな切り札を残しているとは。しかし……いや」
言葉を途中で止め、メイナードは再びシーラへと視線を戻した。
「相手になろう。魔導書の主よ」
地鳴りが轟く。
シーラの背中にある翼が眩い光を発した。
そこから迸る、幾筋もの光線。
「……」
メイナードは表情を引き締め、後ろに飛んだ。光の矢が地面に突き刺さる。さらに無数の光が、距離を取ったメイナードに襲い掛かっていった。
……呆然と、ティースはその光景を見つめる。
まるで悪い夢を見ているかのような、そんな気持ちだった。
「シーラ……」
肩を落とし、力なく呟く。
「お前は戦ったりしちゃダメだ。お前は――」
地面に拳を打ち付ける。
シーラが操る魔導書の力は確実にメイナードを圧倒していた。当然だ。いくら強いといってもメイナードは将魔である。王魔級の力を秘める魔導書との魔力の差は明らかだ。
だが、しかし。
ティースは知っていた。人の手に余るその魔導器が人体に及ぼす影響を。
顔を上げて、叫ぶ。
「シーラ、やめてくれ! それ以上やったらお前の体が壊れてしまうッ!」
「……」
「シーラ!!」
振り向かない。聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。
シーラの攻撃は確かにメイナードを圧倒していた。だが、そもそもメイナードは距離を取ったまま、彼女の攻撃を捌いているだけだ。まともに相手をしようともしていない。
メイナードもわかっているのだ。その魔導器が人の手に余るものであり、攻撃はそう長く続くものではないということを。
やがて――
「っ……!」
シーラが片膝をつく。彼女の周囲を覆う魔力の渦に綻びが生まれた。スカートから覗いたふくらはぎの皮膚が小さく裂け、そこから血が流れ出す。
限界が近い。
「シーラ、やめてくれ……」
それ以上はもう無意味だった。攻撃を続けたところで状況が好転することはなく。その先には被害を増やすばかりの結末しかない。
「っ……」
細波を杖代わりにして立ち上がる。
薬の効果か、両足の動きはいくらかマシになっていた。
力ずくでも、止めるしかない。
そして。気絶させてでもやめさせなければならない。彼女の捨て身の愚行を。
だが。
「……ティース……ダメ……」
「!」
突如すぐそばで聞こえた声に、ティースは視線を足もとに落とした。
「……エル」
「ゴメンね……」
地面を這ってきたのか、エルレーンの顔と服は土でドロドロに汚れていた。口元には血が滲み、右足はすねの辺りが異常に腫れ上がっている。骨折しているのかもしれない。
「キミらが大怪我をしていたときのために付いていくって……ホントは連れてくるべきじゃなかったんだけど……断りきれなくて……でも」
途切れ途切れの声。聞き取りやすいようにティースが腰を落とすと、エルレーンはティースの体にしがみつくようにして上体を起こした。
「シーラの気持ちは無駄にしたくないんだ……ねぇ、ティース」
エルレーンの小さな手が、そっとティースの頬に伸びる。
「最後の、賭けを……したい……」
「……!」
エルレーンの意図をティースは即座に察した。
「“風姫の鎧”か……!」
「シーラが頑張っている今なら……少しは時間がある……できるかもしれない……」
そう。今、この状況であれば、できるかもしれない最後の賭け。
シュナークが遺したメッセージ。
カルヴィナの頑張り。
助けに来たエルレーンと、そして。
「ティース……この賭けに、乗ってくれる……?」
「……もちろんだ、エル」
ティースはそう言ってエルレーンの手を取った。
繋いできたものが今、ここに一縷の希望を残していたのだ。
躊躇する必要はどこにもなかった。
「むしろ俺からお願いする。頼む。みんなが生き残るために」
強い言葉でそう言い切ったティースに、エルレーンは心配そうな目を向けた。
「あれだけの敵が相手なら、全力になる……キミの体が……粉々に吹き飛ぶかもしれない……」
「……いいさ。どうせこのままじゃ助からないんだ」
「上手くいっても……重い後遺症が残るかも……」
「そうなったら、後の面倒ぐらいは見てくれるだろ?」
少し冗談に紛らせてティースがそう答えると、エルレーンも微かに笑みを浮かべた。
「わかったよ。ティース……」
小さな手の平がゆっくりとティースの頬を包み、エルレーンの全身が緑色の光――神気に覆われた。
呪文を刻む。
「……生命を産む風。生命を守る風。生命を司る騎士の鎧を、キミに授ける――」
抱きしめるようにティースの頭を抱え、そして薄い唇がそっと額に触れた。
「こんなところで終わりにしたくないよ……だから、お願い」
エルレーンの体を覆っていた緑色の光がティースに移っていく。
それに応えるように“細波”が神々しく輝いた。
「勝って、ティース――」
細波の宝石が緑色の閃光を放ち、それがティースの全身を覆った。
「……う……くっ……ぁ、ぁッ!」
口から漏れる、苦痛のうめき。
高速で全身を駆け巡る血液。
駆け巡る魔力。
それらが体中で暴れ出し、内側から肉を突き破らんばかりに脈動した。
体が引き裂かれるほどの激痛。
頭が真っ白になるほどの熱。
熱。
激痛。
熱。痛。
熱――
「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ、ぁぁぁぁぁ――ッ!!」
そして――
「……どうやら限界のようだね」
魔導書に体中の力を吸い尽くされ、立つことすらままならなくなったシーラは、うなだれて地面を見つめていた。
そんな彼女の視界にメイナードの影が落ちる。
「……」
顔は上げなかった。全身が恐怖の感情で支配されている。気弱な顔を敵に見せたくはなかった。
「心配しなくても殺しはしない。俺は女は殺せないんだ。宗教上の理由でね」
「……」
「だけどそれだけの力があるとわかれば放っておくわけにもいかない。君にも他の二人と同じぐらいの痛みは味わってもらう」
振り上げられたメイナードの右腕。
シーラが目を閉じる。
その直後。
一陣の風が、吹き抜けた。
「……!」
鮮血を巻き上げる風。
「な……にぃ……ッ!?」
メイナードがこの場で初めての苦痛の声を上げる。
「馬鹿……な……、こんな……ッ!!」
そしておそらくそれは、彼が生涯で初めて漏らした戦慄の叫びだっただろう。
「こんな……馬鹿な――貴様、いったいなにをした……ッ!」
血を撒き散らしながら宙を舞う剣と。
突如として体から斬り離された右腕。
苦悶の形相で、吹き抜けた風の先を見つめるメイナード。
そこには――
「……“いつか”じゃなく、今だ」
淡いエメラルドグリーンの光――“風姫の鎧”にその身を包んだ青年。
「今ここでお前の命を絶つ! ……覚悟しろ、メイナード!」
ティースが光輝く細波の切っ先を、真っ直ぐにメイナードへと向けていた。




