(7)
「ローゼリート公爵とその婚約者であられるシェールトン子爵令嬢とお見受けします」
ただ一人、あの銀髪の男性だけは、私と婚約者様のいるほうへ歩いてきた。
「お初にお目にかかります。わたしはクティアス・エージュと申します。どうぞお見知りおきを」
男性は寸劇中の仰々しい身振りとは異なるありふれたお辞儀をし、自己紹介をした。
思わず声をあげそうになり、私は口元に手を当てた。
クティアス・エージュは、立て続けに劇の公演を成功させている芸術家だ。自分も端役として自らの舞台にあがることもある。ただし、後で教えられなければ観客は誰もエージュだと見抜けない。
現に、私が以前観た舞台では、エージュは茶髪の太った男性役で壇上にいた。エージュは現れるたび、姿も、声色も変えてしまうのだ。
日常生活においても同様で、定期的に変化するものだから、どれがエージュの本当の姿なのか、親交のある人間でさえ知らない、と言われている。
「貴公があのエージュか。噂は耳にしている。面白い趣向だった。オーリ役と追っ手役の五人は、元軍人だろう? 特徴のある戦い方が真に迫っていたよ」
鷹揚に婚約者様が応じる。
「彼らは舞台上で戦闘を演じる必要があります。元軍人ならば、適任でございましょう? 迫真の戦いを提供できたと自負しております」
「戦いが本職の軍人に演技ができるものかな?」
「演技をものにするために稽古を重ねるのです、ローゼリート公爵。演じ終わった後の賞賛が何よりの結果となります。ですから――」
エージュの視線が、婚約者様から私へと移動した。
「真っ先に拍手してくださったシェールトン嬢に、感謝申し上げます。つきましては、今宵の『王女メルダ』。その本公演への招待状を、わたしからの心ばかりの返礼としてお受け取りいただきたく」
クティアス・エージュが手がける『王女メルダ』が、王都の小劇場で開演になると、夜会でもよく話題にのぼっていた。招待の仕方が一風変わっていることもそれに拍車をかけた。メルダの恋物語にちなみ、観客は二人連れ――愛し合う男女のみに限定されていたのだ。
夫婦や恋人、婚約者同士が該当する。それ以外の組み合わせでは観客として入場できない。
「先ほどご様子を拝見しました。ローゼリート公爵が、愛しの婚約者にぞっこんだという噂は誇張ではなかったと、このクティアス、得心いたしました」
「その噂ならまごう事なき真実だ」
「はい。お二人は、招待状を贈るに相応しいと申せましょう。いかがですか? シェールトン嬢」
エージュが伺いを立ててくる。
餌を釣り下げられた気分だった。演劇は、かなり好きなほうだ。歌唱でのみ構成される歌劇はそうでもないのに、演劇には惹かれる。が、婚約者様と出かけることになる。
どちらにせよ、私の一存では決められない。
私の迷いを察した婚約者様が言葉を添えた。
「君が決めればいい。私は喜んで愛しの婚約者に付き従おう」
「ですが……」
婚約者様は、端的に言ってしまえば――本人が芸術作品のような男性なのに――演劇や音楽、絵画等、芸術に対して、まったく興味がない。『王女メルダ』を観るために、小劇場へ行きたいなどとは露ほども思っていないはずだ。人々が感動するような、渾身の芸術を目にしても、その心が震えることはない。浮き立つことはない。
オーリ役と追っ手役の演者は元軍人だろう、とエージュに指摘したように、別の角度から鑑賞している。
労い、讃え、拍手し、感想を述べはする。ただし、感性で捉えてはいない。
そう見えないのは、婚約者様は微笑み一つで、感動したかのように演出してしまえるから。それに、劇団や楽団の後援をしている。気前よく便宜をはかっている。彼の行いは、芸術に造詣の深い人物像を連想させるのだ。
貴族として、最も尊敬される姿を。
似たようなことは読書にも言える。
多様な種類を嗜めど、実利のために目を通しているように見える。流行りの恋愛小説にも精通しているのに、目線と目的は違う。婚約者様は楽しむためには読んでいない。
――皮肉ね、と笑いたくなった。
心は婚約者様を拒絶している。にもかかわらず、婚約してから流れた時間は長く――付き合い続けていれば、望まずとも相手のことを知ってしまう。たとえ、本人が口に出したことがない事柄であっても。
ボルヴァに関してもそうだ。嫌いだ、と婚約者様が言ったことはない。そしてたぶん、嫌いな理由は、身分を意識してのものではない。
知りたいわけではなく、感じ取れてしまうのだ。庶民のお菓子だから、などということは、婚約者様にとってたいした意味を持たない。
幻の私のことがふっと思い浮かぶ。あの、ボルヴァを食べたことのなかった私は、『アレン様』に恥をかかせてしまうと気にしていたのに。
悪魔が囁いた。
招待に応じて、嫌がらせをするのはどう? 私に愛想を尽かすかもしれないわ。
――だって、『王女メルダ』への招待だもの。
余興の寸劇のように、障りのない一場面ならまだしも。現ルタード家当主の婚約者様からすれば、全編を鑑賞するのは不愉快極まりないことのはず。
『王女メルダ』に登場するのは、メルダ以外は架空の人物だ。けれど、重要な登場人物には、いずれも元となった実在の人がいる。その中で、メルダを陥れ、最後に粛正されてしまう悪役の造型元は、前々代のローゼリート公爵だと推察できるのだ。婚約者様の亡くなった祖父にあたる方。
ご本人は、むしろ愉しげに初公演を最後まで鑑賞したと伝えられている。「実に面白い見世物だった」と。悪役を担った人物からお墨付きを与えられ、『王女メルダ』は国の代表する演劇になった。
――婚約者様は、悪役の孫なのだ。
「エージュ様。申し出は大変有り難く思いますが……」
断りを口にする。やはり、駄目だ、と思ったのだ。寸劇にも、私の立場では真っ先に拍手してはならなかった。嫌がらせのため故意に婚約者様と観劇に出かけたら、一線を越えてしまう。観劇も、心から楽しめない。何も悪くない婚約者様にも、失礼だ。すべては、私のままならない心の問題なのだから。
「公爵の婚約者としては、演目が『王女メルダ』であることにご配慮なさいますか?」
問いに、曖昧に微笑む。
「君が隣にいるなら、何も苦ではないよ、リヴィ。……私は君が決めていい、と言ったはずだ。私の事情に気を使って欲しくはない。一つ、訊こうか」
口を挟んだのは、何故か婚約者様だった。
「君は、『王女メルダ』の公演に行きたくないのか?」
「公爵、出来れば、このクティアス・エージュの手がける、と付け加えていただきたい」
「だそうだが、リヴィ? さあ、君はどうしたい?」
沈黙が落ちた。二人とも、私の答えを待っている。
行きたいか、行きたくないか、と問われれば。
「……私は、行きたいです」
「それでいい」
婚約者様が、微笑んだ。私への愛情に満ちた――私だけに向けられる、笑い方だ。態度が、雰囲気が、柔らかくなる。
胸が、苦しくなった。わかるのだ。彼の愛がどうしようもなく本物だと。なのに、それを深く感じるたび、止めて、と叫びたくなる。不快感がこみ上げる。受け入れられない。
「はい。嬉しいです。当日を楽しみにしています」
奥の奥に、感情を沈める。けれどそうしたとき、不安になる。婚約者様の微笑みが、ほんの一瞬、揺らぐからだ。自嘲のような、寂しげでもあるような。
「では、公爵とご令嬢に招待状をお送りしましょう」
私と婚約者様のやり取りを見ていたエージュが、一礼した。寸劇は終わったというのに、仰々しい動作で。
――クティアス・エージュから屋敷へ招待状が届いたのは翌日のことだった。




