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彼女が婚約者様を嫌う理由  作者: まめちょろ
第一章 夜会にて
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(5)

 

 夜会では、多種多様な軽食が提供されるのが普通だ。

 踊り疲れ、飲み物で喉を潤すだけでは足りなくなると、出席者は別室に用意された軽食会場に向かう。最初からこちらがお目当ての出席者もいる。

 たくさん食べたければ椅子を確保してじっくりと。小腹を満たしたければ立食で。

 椅子の数は限られているので立食が主だ。


 今夜は、私もまた、醜態と引き換えに軽食会場へ足を運んだ一人となっていた。


 私のお腹が情けなくも空腹を訴えた後、きょとんとした顔をした婚約者様は、くすりと笑い、こう告げた。


「ダンスより、軽食にしようと誘うべきだったようだ。いまからでもそうしようか」


 ――温かく。

 それなのに、いっそ、嘲り、馬鹿にして欲しかったと思った私は、どうしようもない。


 いま、私の傍らには、楽しそうな婚約者様が立っている。


「リヴィ。ほら、口を開けて。食べさせてあげよう」


 その左手にある装飾小皿に載った焼き菓子を一つ、長い指が持ち上げた。何のてらいもなく、私の口元へ近づける。

 さざ波のように、周囲で会話が生まれた。


「……あれは、ローゼリート公爵か? 何故あの方が、下々の真似を」


 初見の人物は、信じられないものを見たかのように、驚きでもって。


「公爵が婚約者の令嬢を大切にしているのは昔からじゃないか。いや、君は長く外国にいたから見たことがなかったのか?」


 既に見たことがある人物は、慣れた様子で。

 両者とは別に、かすかに私へ刺さるのは、嫉妬。昔は、嫉妬がもっと多かった。


 ルタード家の頂点に立つ婚約者様は、よほどのことがない限り、他者へ傅くことはない。

 彼は仕える側ではなく、仕えられる側だ。命令すれば、大半の貴族をも動かすことができる。王族――国王陛下すら強気には出られない。


 そんな婚約者様が食べ物の載った皿を持ち、手ずから私に供するのは、常識では考えられないことなのだ。


 婚約者様がこんなことを始めたのは、おそらくは、噂を払拭するため、だった。

 彼と私の婚約は、当初、悪意をもって貴族社会に受け止められた。


 我が家は、爵位を授かった後に小さな所領を得た子爵家だ。故に姓が爵位名と一緒で、お父様はシェールトン子爵と呼ばれる。貴族なのは間違いない。ただし、客観的に、テルナウムの建国初期から存続する高位貴族と肩を並べるには見劣りする。


 同じ貴族ではあれど、ローゼリート次期公爵の婚約者として、ただの子爵令嬢の私は「何故?」と首を傾げるしかない相手。私自身に、傑出した点があるでもない。貴族令嬢としては普通だ。

 よもや、ルタード家は弱味を握られているのでないか。何にせよ、シェールトン家の長女とは、きっと仮初めの婚約に違いない。一時的なものだろう――。


 噂は、夜会に出席するたびに、婚約者様が蕩けるような笑みを浮かべ、かいがいしく私の世話をしてみせることで塗り替えられていった。


 ――どうやら、あの婚約はルタード家から持ちかけたものらしい。二人の様子を見ろ。微笑ましいじゃないか。単に、愛情にもとづいた婚約だったというわけだ。


 いまではそう、大多数の人々に思われている。反転した噂のほうが主流だ。

 アレン・ルタードとリヴィエラ・シェールトンは、何とも仲睦まじい婚約者たちだと。

 婚約者様が意図した通りに。


「さあ、リヴィ。君の一番の好物だろう?」


 甘い囁きが、耳を打つ。

 彼が小皿に取って選んだお菓子は、どれも私の好きなものだ。そして、指で持ち上げこちらに勧めている、ボルヴァという長方形の焼き菓子は、一番に。


 私を愛しそうに見つめ、満足げに婚約者が口角を上げた。


「――君にこうするのは、久しぶりだ」


 目を伏せた。こうなるから、私は婚約者様と軽食会場に赴かないようにしていた。


「もう、十八なのです。餌付けされるような年ではありません」

「恥ずかしい? それなら、リヴィが私を餌付けしてくれても構わないよ」


 餌付けされるか、するか。

 ――どちらがいい?

 青空の色をした瞳が、柔らかく問いかけてくる。この場において、第三の選択肢など存在しない、とも。


「…………」


 婚約者様の持つボルヴァに顔を近づけた。口を開ける。サクッとした感触が口内に広がった。塩気のある味付けの、表面が硬く香ばしいお菓子だ。……私の、大好きな。


 素朴な見かけもあいまって、夜会にはあまり似つかわしくないかもしれない。

 庶民の焼き菓子として知られているものだからだ。どういうわけか、私はボルヴァが子どもの頃からお気に入りだった。


 ……子どもの、頃から? 微かな違和感が生まれる。


 昔、お父様が屋敷にボルヴァをたくさん持ち帰り、お兄様や幼かった妹と試しに食べてみたのが、始まり。それで間違いないのに、何かが、心を引っ掻く。


 ――ありもしない光景が、頭の中で、鮮やかに広がった。







『ボルヴァ? 見たことなら……。庶民のお菓子でしょう?』


 往来のざわめき。隣を歩く誰かに向かって、帽子を被った私が澄まし顔で答えている。

 誰か、は――。


『まあ、そうなんですが……。お嬢様、ボルヴァを食べたことがないなんてもったいない。美味いのに』

『庶民のお菓子を好んで食べるのは、変わり者の貴族だけよ。アレン様に恥をかかせてしまうわ』


 顎をそらし、私はなおも否定の言葉を繰り出した。けれど、視線はある場所へと吸い寄せられている。歩いているのは、露店の集まる通りだった。その中の店の一つから、食欲をそそる、とても良い匂いが漂っていたのだ。――ボルヴァの。


 店先には、黄金色に焼かれた長方形のボルヴァが並べられている。

 内心では、惹かれていた。少しばかり、お腹もすいている。でも、庶民の焼き菓子を買い求めるなんてちっぽけな矜恃が許さない。


『……ふむ。なるほど? ちょっと待っていてください』


 言い置いた黒髪のその人は、ほどなくして、購入したばかりのボルヴァを二つ携えて戻ってきた。荒い安物の紙に包まれた片方のボルヴァを私へと差し出す。


『騙されたと思ってどうぞ。ちなみに庶民は、このまま歩きながら食べます』


 その人は、私の葛藤を見透かしたようになおも言葉を紡いだ。


『ご安心を。周囲にはお嬢様以外の貴族はいませんよ。変わり者だとは俺が言い触らさなければバレません』


 それなら……庶民のお菓子を食べたって。

 まだ温かいボルヴァを、私は受け取った。形や見た目は同じでも、夜会で見たことのあるものより随分大きめだ。隣を上目遣いでこっそりと窺うと、さっそくボルヴァにかぶりついている。何て不作法な。さすが庶民だわ。でも、その様は自然だった。


 お手本にして、私も両手で持ったボルヴァへと口を開けた。恐る恐る食べてみる。……甘いのかと思えば、違う。ほっとするような味だった。好きな――とても好きな味だ。


『美味しい』


 気づけば、にっこりと満面の笑みを浮かべて、呟いていた。


『でしょう?』


 我が意を得たり、と隣から応えがくる。はっとして私は笑みを消した。もう既に呟いてしまったものの、美味しいと、素直に認めるのは癪だった。


『……わ、悪くは、ないわ』

『光栄です。お嬢様』


 往生際の悪い私に、下士官用の制服を着たその人は、灰褐色の目を細め快活に笑った。





 ――嘘。嘘よ。

 だってカレルは、私を見てあんな風には、笑わない。そう。だからこれは、幻なのだ。



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