(4)
今宵、三度目のダンスだった。婚約者様とは、二度目の。
婚約者様と踊っているとき、あまり話はしない。微笑みを浮かべ、格差のあるダンスをどうにかしなければ、平静を装わなければと、そのことばかりに私は集中する。
会話が生まれるとすれば、それは常に婚約者様からだ。
踊りながら、私を見つめる婚約者様が、質問を投げかけた。
「彼が、君をダンスに誘った?」
「いいえ。私が、スヴァルツ様を」
「何故彼を?」
答えに、窮した。ただの――私の、気まぐれ。
「彼が貴族ではないから、婚約者様は軽んじておられるのですか?」
結局、私は話をすり替えた。カレルはご令嬢たちからの人気はある。それでも、爵位のない平民には違いない。快く思わない貴族もいる。
「そんなことはないよ。私はスヴァルツ大尉を優秀な人間だと思っている。でなければ、若くして平民があれほどはやくは昇進できない。だから、敵にも味方にも欲しくはないかな」
「味方にも、なのですか」
「優秀すぎる部下は、扱いが難しいだろう? ――リヴィは、優秀な人間と愚かな人間、どちらが裏切りやすいと思う?」
柔らかく問われ、私は躊躇した。愚かな人間のほう、だと私は思った。
けれどこの会話の流れでは、正解は決まっているようなもの。
情けなく眉を下げた私を直視し、婚約者様は冷たく見える笑みと共に答えを放った。
「優秀な人間のほうだよ」
言い聞かせるかのように。
「彼らは概して貪欲だから、一時に留まらず上を目指す。その過程で裏切りに手を染めやすい。同時に、優秀であるが故に裏切りを悟らせない。枷なく手元に置くには、怖い人間だ」
それは、カレルが――。
「!」
ステップを、誤った。足がもつれる。立て直さなければ。
焦る私の腰に手を回し、婚約者様が引き寄せた。耳元に囁かれる。近すぎる。仄かな、上品な香り。彼の金髪が頬を撫で、身体がこわばった。
「落ち着いて。任せてくれればいい」
任せる……この人に委ねるということ。瞬間的に生まれた強すぎる拒否感を、どうにか、やり過ごす。努力して、力を抜いた。瞬く間に、婚約者様は軌道修正した。私の失敗すら予定通りだったかのように、魅せるものに変えてしまう。
糸のついた操り人形と化した私の身体が、軽やかに舞う。婚約者様から贈られた青いドレスがふわりと翻った。傾けられ回る。彼に受け止められた。
曲に耳を澄ます。ここからは――本来の動きに戻せる。
息と足の動きを整え、私は口を開いた。
「すみませんでした。ありがとうございます」
「礼などいらないよ。婚約者を助けるのは当然のことだ。それに、せっかくリヴィと踊っているのにつまらない話をしてしまった私が悪い。――もとはといえば、私の質問がきっかけだ。いくら、君がスヴァルツ大尉と踊っていたのが面白くなかったからといって」
暗に、嫉妬したのだ、と語る婚約者様に、居心地が悪くなる。
「あれは、ただのダンスです。深い意味はありません。私は、貴方の婚約者です」
「そう。君は私の婚約者だ」
「それに……婚約者様だって、他のご令嬢と踊られるでしょう?」
「そうだね。君が言うように、あれもただのダンスだ。社交上こなしているに過ぎない。でも、君が一言『踊るな』と禁じてくれれば、私は君以外の女性とは踊らないよ」
青い瞳の色が、深みを増した。望まれている。「踊らないで」と告げることを。恋をしていたなら、可愛らしく願うことができたはず。
私はかぶりを振った。
「そのような我が儘は、言えません。婚約者様には、公爵としての立場があります」
間が、生まれた。
「――婚約者様」
感情を排した、平坦な呟きが、聞こえた。
「君は私を婚約者様、と呼ぶが」
口にするならば、ローゼリート公爵という称号が、一番楽だ。けれど、私の立場でそう呼べば、他人行儀過ぎるものとなってしまう。
婚約者だということ。敬意をあらわすべき男性だということ。
だから、婚約者様、と。二つを満たすこの呼び方が、私なりの精一杯だった。
「彼のことは、スヴァルツ様と呼んでいる」
「……それ、は」
私が名前を呼ばないのは、婚約者様だけ。
「時折、君が私の名前を忘れているのではないかと不安になるよ」
「……恥ずかしいのです」
「私はアレンと君に呼んで欲しいが?」
切なさを伴う懇願に、目を伏せた。
アレン・ルタードという名前を、忘れているはずがない。けれど、アレン様、とも、ルタード様、とも私は――。
『婚約、したのですから、アレン様と呼んでも良いでしょうか?』
『もちろん。好きなように』
恋する乙女のように、私が瞳を輝かせ、お願いしている。
婚約者様は、どうでもいい人間に平等に与える微笑を面に刻み、許諾した。それを悟ることなく見惚れ、すっかり魅了された私は、頬を染めた。はにかんで、その名を口にする。
『アレン様』
嬉しそうに。幸せそうに。ささやかな優越感をもって。
――ああ、また。また、幻。
ありもしない光景が頭の奥で再生されている。
不快感がせり上がる。胸を掻きむしりたくなった。
呼べない。私は、婚約者様を、名前でなど呼べない。呼びたく、ない。
「お許し、ください」
やっとのことで、そう言った。
婚約者様は、愁い顔すら作り物のように美しい。私は悪魔なのかもしれない。名前を呼ぶ、そんな簡単なことができない。私のこの態度は、婚約者様を傷つけている。なのに、罪悪感を覚えないのだ。私は、おかしい。
踊っている時間が、異様に長く感じる。はやく、曲が終わればいい。
「……仕方がないな」
婚約者様が、苦笑し嘆息を漏らす。
「君は強情だから。ただし、結婚したらさすがに『婚約者様』は認められない」
「もちろん。そのときは、きちんとお呼びします」
結婚、したら、そのときは。頷きながら、私は未来の自分のことを少しも信用していないのだ。
――ようやく、演奏が終わりに近づいた。
三度目のダンスを何とか完走し、私は婚約者様にエスコートされて踊りの輪から外れた。
微笑みを顔に貼り付け、頭の中を占めていたのは、ここからどうやったら円滑に婚約者様と行動を別にできるか、ということだった。
何かいい口実がないか、考える。お友達と女同士で話したい、というのは婚約者様と一度目に踊った後、既に使ってしまった。二度も使うのは不自然だ。
「そういえば」
婚約者様が何気ない素振りで話を振った。
「質問の答えを、まだ訊いていなかった」
「…………?」
「リヴィ。嫉妬する哀れな私に、どうか教えてくれないだろうか」
私の手首を取り、婚約者様が屈んだ。私が無意識にきつく折り曲げかけていた指先に、唇で触れる。静かに、問いが再度、紡がれた。
「君がスヴァルツ大尉をダンスに誘った理由は?」
偽りを許さない、強さで。
私はまだ微笑みを浮かべているだろうか。婚約者様が私の一挙一動に注意を払っているのがわかる。さっきは簡単に解けたのに、力を込めても腕を胸元まで引くことができない。
あの幻がどうあれ――現実には疚しいことなどないのにもかかわらず、動揺している自分が奇妙だった。とにかく一刻も早く何か言わなければ。
けれど、出たのは言葉ではなかった。
間抜けな音が、小さく、それでいて婚約者様にも聞こえる程度の大きさで、響いた。
私のお腹が、空腹を訴えた音だった。




