(2)
「カレル!」
叫んだ直後に、私は喉を押さえた。心臓の鼓動が忙しない。声は、出る。当然だ。私は自分の喉を掻ききってはいない。あんな短剣、持ってもいない。
いまのは、何? いまの、光景は。
私と、婚約者様? まさか。
あんなことは、起こっていない。ただの、幻。
ひどい、妄想だ。
ゆっくりと呼吸することで、落ち着いた。頭が冷静に回り出す。
――本当に、何をしているの?
羞恥に、頬が染まる。淑女らしからぬ、とんだ醜態だ。幻の私が、叫べなかった名前を、夜会の最中に叫んでどうなるというの。
二階の内廊下にいたのが、せめてもの救い。キョロキョロと周囲に目を配る。
そして――私は硬直した。
私との距離は、十数歩ほど。
眉をひそめ、訝しげにこちらを観察している黒髪の男性と、目が合ったからだ。
それは、そうだろう。
彼は、親しくもない――それどころか嫌っているであろう私から、突然自分の名前を呼ばれたのだから。それも姓ではないほうを、呼び捨てで。決して小さくはない声で。
きゅっと唇を引き結ぶ。
迷った挙げ句、私は彼へ近づいた。ことさら慎重に、非礼を詫びる。
「失礼いたしました。スヴァルツ様」
「……私に、御用でしたか?」
おそらく、儀礼的なものにしろ、問い返され、戸惑ってしまう。
「いえ……」
けれど、彼の名前を叫んだのは私だ。その後に、声を掛けたのも。ただ、用などない。
顔見知りで、申し訳程度の接点は、ある。彼は、貴族ではないが軍人だ。私の父は軍部に所属している。その関係で、時折彼が我が家を訪れることがある。
カレル・スヴァルツ。
彼と出会ったのは――三年ほど前だろうか。父が命を狙われた事件があった。終結するまで、屋敷に軍部から送られた幾人かの下士官が警備にあたることになった。その中の一人であり、見事事件を解決させ、功績をあげたのがカレルだった。彼は勲章を賜った。
順調に昇進しているようで、こうして貴族に招かれ夜会に出席していることも多い。
正装用の軍服姿は凜々しく、彼が自然と醸し出している空気は、厳しい鍛錬を重ねた人間ならではのものだった。
貴族でないというだけで夜会では不利になりやすい中、カレルは女性からの人気がある。ご令嬢たちの噂話でよく名前があがるのだ。……軍人にしては話しやすい、気さくな好青年、なのだそうだ。端正な顔立ちをしているし、踊ると貴族男性にはない力強さが感じられる、とも。
平民ではあれど、狙ってみるのも悪くない。そんな評価を受けている。年齢も、婚約者様と同じ二十二歳で、独身だ。
ただ、私自身は、彼の気さくさも、好青年ぶりも感じたことはない。
――いまも。
先ほど、婚約者様が公爵家のご令嬢に向けていたものに、似ているかもしれない。
カレルが私へ向ける視線は、常に冷めきっている。彼の灰褐色の瞳が、私への負の感情以外を宿すのを、見たことがなかった。
私はカレル・スヴァルツに嫌われている。
彼は、私にとって、婚約者様とは正反対の存在だった。
婚約者様が好意なら、彼は嫌悪を。
初対面で、カレルは塵でも目にしたかのように、私に対し顔をしかめた。
勘違いなどではない。暗く染まった、強すぎる眼差し。一目で、私を嫌ったのだとわかった。
おそらく、理由はない。私は彼に何もしていないはずだから。過去での接点もなかった。属する社会が違う。
私たちは、確かにその日初めて会い、互いの存在を知った。
言うなれば、彼にとって、私は、私にとっての婚約者様だったのだろう。それだけの話だ。
違いもある。私は婚約者様には、私の気持ちを隠さなければならない。
カレルは、私への嫌悪を、失礼にならないよう、最低限覆うだけでいい。特別好かれる必要はないのだ。だから、彼の気さくさや好青年ぶりは、私へは発揮されない。
ふと、おかしくなった。
あの幻は、まったくもっておかしい、と改めて思わずにはいられなかった。
カレル。
たとえ幻であれ、死に際に親しくもない、私を嫌っているカレルの名前を呼ぶなんて。
まるで、愛しているみたいに。その上、あれでは、何の救いもない。
「ごめんなさい。スヴァルツ様。特に用はないの」
「では、何故私の名を呼ばれたのですか?」
――幻の自分に感化されて。
「困り事がおありになるのでは? 父君に、貴方のことをお助けするように頼まれています」
「お父様が命令を?」
「命令、というわけではありません」
「断れるものでもないでしょう?」
カレルは父が目をかけている部下なのだから。私が将官の娘でなければ、彼からの、こんな申し出はなかった。それを面白くなく思う私は、やっぱり幻の影響を受けている。
影響のままに、私はカレルの予想を覆したくなった。
「でも、せっかくだわ。厚意に甘えていいのなら」
「……ええ」
相づちとは裏腹に、カレルの顔が僅かに歪む。案の定、私が彼に頼るとは、カレルは思っていなかったのだ。断わられることを前提としての、申し出。あの幻を見ていなければ、私自身、そうしていたはず。……そもそも、カレルとこんな風に話すことにはなっていない。
「スヴァルツ様、一曲、私と踊っていただける?」
「貴女には、婚約者がいらっしゃるはずですが」
「そうよ。でも、婚約者様としか踊れないものだから。他の方は誘って下さらないのよ」
「……それで、貴女が俺を誘うのですか」
「ええ!」
にっこりと笑う。
別に、夜会でのダンスは誰と踊っても構わないのだ。他国はもしかしたら違うかもしれない。少なくとも、このテルナウムでは男女のどちらから誘ってもいい。
さすがに婚約者様を無視して他の殿方と踊るのは問題になるものの、それはもう済んだ。だからこそ、婚約者様は引く手あまただ。ただ、私にはあまり誘いがかからない。かといって、私から殿方を誘うこともなかった。
理解しがたい、という顔をカレルはしていた。何故自分が、と思っているのも何となく伝わってくる。
軽く息が吐かれた。手が、差し伸べられる。
「――下へ参りましょう」
つかの間、不思議な面持ちでカレルの掌を見つめていた。
自分から言い出したこととはいえ、私が、カレルと踊るなんて。
「リヴィエラ様?」
カレルは、私をシェールトンという姓ではなく、名前で呼ぶ。ただ単に、姓では区別がつかなくなるからだ。父も母も、兄も妹もシェールトンだ。カレルだけでなく、父が狙われた事件で屋敷の警備に当たっていた軍人は、全員がそうした。その名残が続いているだけなのに、鼓動が、はねた気がした。
瞬きして、差し伸べられた手に、自分のそれを重ねる。
そうしてみて、カレルに触れたのは、これが初めてだと気づいた。
なのに、一瞬わからなくなった。
――初めて、のはずよね?
これもあの幻のせい? 懐かしい、ような。妙な感覚に襲われる。
顔をあげると、カレルは眉間に皺を寄せていた。心持ち下がった彼の視線は、私たちの触れ合った手にある。
その視線が、動いた。ゆっくりと私の顔に定まろうとする。
視線が合ってしまう前に、私は巧妙に逸らした。カレルが着用する漆黒の軍服、その左胸を飾る複数の略綬と勲章を視界の中心に据える。
灰褐色の瞳に浮かんでいるだろう私への嫌悪を、見たくはなかった。




