(12)カレル・スヴァルツは上官の娘を嫌悪している【後】
上官の娘、リヴィエラ・シェールトンに出会ったとき、それまでカレルを形作っていたものに、ヒビが入った。
心臓を掴まれたような気がした。手入れされた赤味のある金髪が目を惹く。絶世の、というわけではない、しかし、充分に美しい娘だった。初対面の、嫌悪する要素はどこにもない。言葉を交わしてもいない。
彼女を目にし、相手もまた自分を見ただけだ。
だというのに、凄まじい嫌悪感に襲われた。……ああ、俺はこの女が心から嫌いだ。
脳裏を占めたのは、焼け付くような怒りだ。
細い首に両手を這わせ、絞め殺したい誘惑に駆られた。――何故。
会ったばかりの、警護対象である上官の娘という以外に、知りもしない年下の少女だ。無害な。片手で容易にねじ伏せられる。自分への脅威になどなり得ない。
なのに、彼女への嫌悪と怒りと――そして、この胸の痛みは何だ。奥底に残る、狂おしく仄暗い、消しきれなかった何か。そうなる前はきっと温かく美しかったであろうもの。
それらがすべて混ざり合って、腐臭を放っている。これは、何だ。
ひどく醜く、凶暴な感情。
――ヒビが入った。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
『――良いか、カレル。道義に反する行いはするな。決して、道は踏み外すな。お前は正道を往け』
ことある事に、養い親に言い聞かせられてきた。
そのたびに、カレルは顔をしかめたものだ。
何を当たり前のことを。一体、養い親は自分を何だと思っているのか。
理由は察していた。おそらく、カレルの生まれに問題がある。顔も覚えていない実の両親は、きっと道義に反した輩だったのだろう。よほどの。子のカレルもそうなると危ぶまれるような。
だが、養い親に育てられた自分が、道を踏み外すことなどありえない。
そう、疑ってもいなかった自分に、リヴィエラという存在が、歪なヒビを入れた。
養い親による教育の賜か、周囲に、カレルは好青年、と評されるようになっていた。カレルも、それが自分の素だと思っていた。
――なのに、濁りが生まれた。
好青年、と言われる自分は、偽りではないだろう。そのはずだ。こんな濁りは間違いだ。しかし。
己が、己に囁いている。
――俺は以前、それで誤っただろう? 養い親の言うように生きて、どうなった? 正道を征ってどうなった。濁りを受け入れろ。最期を思い出せ。
――最期、だと?
白昼夢。おかしな光景が、見えた。まるで、過去を思い返すかのように。
帰路、追われて踏み込むことになった花畑に、数体の死体が転がっていた。
味方であったはずの兵士――刺客を、残らず仕留め、だが、自分は致命傷を負っている。
腹の傷口から、血がとめどなく溢れる。息が荒い。死にかけているのに、意識は恐ろしいほど鮮明だった。
もうすぐ、自分も転がる死体に仲間入りする。
滑稽だ。騙され、利用され死ぬ。不要なものとして。
極力、目立たぬよう生きてきた。――笑い、波風を立てず、流す。その努力も無駄だった。違う。自ら、無駄にしたのだ。
……間違いの始まりは、出会ったことか?
何のために俺は。
――クソが。
罵りの言葉が胸の内で溢れる。
立っていられなくなって、倒れた。片目だけの視界に、黄色い花が見える。
風に揺れた美しいレザリアの花が、幾つも幾つも咲き誇っている。死にゆく己を、嘲笑っているかのようだった。――忌々しい。
大嫌いな花だった。いいや、大嫌いになった花だ。
彼女に差し出した、花。一輪の。
――手を伸ばす。
そして、届いたレザリアの花を引きちぎり、握りつぶした。
「……どうかなさいました?」
そのとき、カレルの意識を呼び戻したのは、出会ったばかりの、守るべき少女の気遣わしげな呼び声だった。
――生きている。あんな花畑に行ったことはない。
無意識に、自身の顔面に触れていた。左目だけで世界を見ているわけでも、ない。
自分が立っているのは、シェールトン邸だった。
少女、リヴィエラを見据える。すると、彼女は息を呑んだ。翠色の瞳が陰る。
失敗した。一体、自分はどんな形相をしているのだろう。素だと思っていた好青年の顔は、どうやって作るものだったか。
「本日より、シェールトン家の警護にあたることになりました。下士官のカレル・スヴァルツであります。以後、お見知りおきを」
「はい。私はリヴィエラです。長女になります。あまり……ご迷惑をかけないようにしますので……よろしくお願いいたします。スヴァルツ様」
平民出身の軍人に対し、蔑みを見せる貴族令嬢もいる中、リヴィエラのそれはひどく丁寧なものだった。すぎるほどに。にもかかわらず、そのことに対して妙な違和感に襲われる。
違和感? 何に対して?
『まあ。あなた、平民なの?』
『はい。平民ですね。大抵の軍人はそんなものですよ。お嬢様』
浮かんだのは、似て非なる、自分たちの対面の場面。
リヴィエラは、気位の高い貴族令嬢らしい態度で、自分は――少女の機嫌をそこねぬよう、好青年の顔でもってにこやかに答えていた。見下されたところで思うところはない。友好的に流せばいい。相手は毒気を抜かれる。職務で関わる際、貴族令嬢相手に普段カレルが取るであろう顔だった。理解はできる。だが――。
これは一体、何だ?
実際とはまるで正反対だ。カレルはにこりとも笑っていなかった。リヴィエラのほうが無言の自分に対し慮るような視線をこちらに送っている。
「……あの?」
「失礼いたしました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リヴィエラに異常は見られなかった。ただ、初対面の人間に会ったという、それ相応のものだ。おかしいのは自分だ。その上、警護対象となる、出会ったばかりの少女へ抱いた過ぎる嫌悪感は、消えぬままだった。
――いまもなお。
カレルはリヴィエラ・シェールトンと出会ったその日、二つの選択をした。
幻、あるいは妄想。忘れて、無視すればいい。だというのに、脳裏に焼き付いた一面の黄色。最期の力で握りつぶしたレザリアの花。
……忘れられるものか。
自分の頭がおかしくなったのだとしても構わない。
あれは己への警告だった。
――下士官の立場では、弱すぎる。上を目指さなくては。そうしなければ――おそらく、自分の末路はあの花畑だと。
波風を立てないだけの生き方では、淘汰される。
――上を目指せ。力を持て。正道など捨てろ。潰されることのないように。
もう一つ。
リヴィエラ・シェールトン。あの少女には、必要以上に近づくべきではない。自分のため。少女のため。
それが、双方にとって最善だ。
リヴィエラには極力接触しない。
――それなら、何故、手を取った? あの懐かしさは、何だった?
何十回目となる、無心で行っていた小銃での射撃訓練。ふと浮かび上がった疑問に、カレルの引き金にかけた指がわずかにピクリと動いた。
『スヴァルツ様、一曲、私と踊っていただける?』
夜会で、社交辞令として口にした申し出に、返された言葉。
断わる、はずだった。
その邪魔をしたのは、リヴィエラと初めて出会ったときのように、浮かんだ幻だ。
『仕方ないでしょう。アレン様は急用で欠席されたんだもの。……そうだわ! カレル! 手を出して!』
『はあ……? 良いですけど、何ですか? お嬢様』
『お兄様とあんなに猛練習したのよ? 一曲も踊らないなんてありえないでしょう? この際カレルで我慢するわ』
周囲には噴水と木々がある。名案を思いついた、そんな屈託のない笑顔でリヴィエラがカレルの手を取った。聞こえてくるか細い音楽に合わせて、リヴィエラがカレルを巻き込んでステップを踏み出す。応じる自分はおぼつかない足取りだ。
『下手ね、カレル』
『そりゃ……。下っ端軍人はダンスなんて管轄外ですよ。俺にそんなものを求めないでください』
『仕方ないから私がリードしてあげる。運動神経はまあまあかしら』
『嬉しくて涙が出そうです』
好青年の顔をした自分がリヴィエラと踊るという幻が、現実でリヴィエラの手をとったとき、錯覚させた。――懐かしい、と。
カレルは的に狙いを定めた。射撃に集中する。
リヴィエラと関わると、妙な光景を自分の体験したもののように、思い出す。己が体験したにしては、時間軸や、現実との齟齬が多すぎる、それを。
「……お嬢様?」
小さく呟く。次にカレルの口元に浮かんだのは嘲笑だった。自分があんな風に親しみを込めてリヴィエラを呼ぶことは、決してない。
――引き金を引く。
数秒後、弾は、的の中央を射貫いた。
※第一章終了です。このお話は章を書き上げてから投稿していく予定です。章ごとに投稿間隔が空くと思います。それでも良いという方はお付き合いくださると嬉しいです。




