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彼女が婚約者様を嫌う理由  作者: まめちょろ
第一章 夜会にて
1/12

(1)


 私には素晴らしい婚約者様がいる。


 容姿、身分、頭脳、強さ、三拍子も四拍子も揃った男性。

 おまけに、彼は出会った当初から私への好意を隠そうともしない。あれからずっと、彼は他の女性には目もくれず、深く深く私だけを見つめ続けている。


 ――女冥利につきることだわ。なんて素敵。


 そう、思うべきなのよね?


 婚約者様が非の打ち所のない男性なら、対する私は贔屓目に見て、そこそこ美しい貴族令嬢、といったところ。悪くもなければ特に良くもない。

 釣り合わないのは私のほう。

 なのに、彼と接するたび、なんとも言えない不快感が胸の奥底から強くわきあがる。


 彼のために言う。婚約者様は、私へ非礼を働いたことなどない。紳士であり、私が嫌がるようなことは一切行わない方。

 本当に――そうなのだ。

 優しく、それでいて情熱的で……私が言うのもおこがましいけれど、愛されていると感じる。眼差しでも、行動でも、彼はそれを示す。


 たとえばあるときのこと。

 婚約者様に恋をしたご令嬢の手により、私は罠にかかった。明らかに私に非があるように見え、親兄妹すら私の側に立つのが困難だったとき、ただ一人私の無実を信じてくれたのは婚約者様だった。彼のおかげで、私は自身の潔白を証明できた。


 ……そのときの気持ちをなんと表現しようか。

 嬉しい? 安堵? いいえ。

 憎むべきご令嬢や、私を信じてはくれなかった人々よりも、私は唯一の味方であった婚約者様に、あまりにも理不尽な反感を抱いた。


『違う、違う、違う! ……いまさら、よりにもよってあなたが、いまさら私の味方をするというの? あなたじゃない。私の味方をしてくれたのは――!』


 私の味方をしてくれたのは? 婚約者様でしょう? 他に誰がいるというの。


 おかしなことだ。

 私はおかしいのだ。


 実は、私は少しだけ、婚約者様を疑っていた。ご令嬢を誘導し、私を罠にかけた、その裏にいるのは、彼ではないかと。……もちろん、そんなことはなかった。


 なんて愚かしい。感謝し、愛を返しこそすれ、嫌い、疑うなんて。

 ありえないわ。……ありえないのに。

 嫌う理由も、ちっともないのに。

 私は、婚約者様という人を、根本的に信じていないのだ。

 理屈ではない。ただ、常に彼へ疑心を持っている。


 わからない。


 どうして私は婚約者様にだけ、こんなにもムカムカするのかしら。

 その比類なく整った男らしく美しい外見も、私への愛という、熱情を宿す瞳にも。

 どうして、こんなにも虫酸が走るのかしら。

 愛しげに名前を呼ばれるたび、叫び出したいような衝動にかられるのかしら。


『――呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな! そんな風に私の名前を呼ぶな!』


 彼とこのまま結婚するなら、彼以外なら誰でもいいと思うほどに。でっぷりと太った中年の殿方でも、何十歳も年の離れた殿方でも、平民でも。婚約者様よりはいいと。

 私も貴族の端くれ。愛していない男性と結婚することを受け入れるのは義務だと知っている。家同士の取引のようなもの。


 それを思えば、私はとても恵まれている。ましてや、婚約者様は私を愛してくれている。第三者からすれば、不満を抱きようがない、羨ましがられるような婚約者様と私の関係。家族――特に妹は、我が事のように祝福してくれている。

 恵まれすぎた、好条件だというのに。

 幸福のために、あと一つ足りないものがあるとすれば。

 それは、私からの、婚約者様への愛だけ。


 ――私一人だけが、彼を拒絶している。


 こうして、夜会でも。

 怪しまれないように、一曲踊った後は巧妙に婚約者様を避けている。

 二階にある露台に面した細い内廊下で、私はそっと、手すりまで近寄った。

 ここからは、階下の大広間にいる人々の様子がよく見える。


 意識せずに捜さずとも、婚約者様の姿はすぐに見つけられる。

 そこにいるだけで。

 存在そのものが目立つからだ。


 婚約者様は、私よりも、よほど彼に相応しい公爵家のご令嬢と踊っていた。

 彼女の瞳は、婚約者様への恋慕に満ちている。彼は、よくそんな想いを未婚の令嬢たちから向けられている。

 ただし、彼が同じ感情を彼女たちに返すことはない。

 彼が恋慕の眼差しを注ぐのは、私にだけだった。けれど、彼のそばに女性がいると、私は期待せずにはいられない。婚約者様が、その誰かに――私以外の女性に――熱情を向けてはいないかと。もし彼が心変わりしてくれたなら、私は大義名分を得て、穏便に婚約の解消を申し入れることができる。


 一縷の望みをもって、踊る二人を見る。


「…………」


 私は小さくかぶりを振った。

 そう。

 そして、いつも失望に襲われる。婚約者様の彼女への眼差しは、冷めていた。


 もう一つの失望にも、襲われる。

 私以外の女性といる婚約者様を見続けていれば、私は妬心を抱けるのではないか。

 それがまたしても裏切られた失望だった。自分と婚約している男性が他の女性と踊っていれば、ただそれだけで嫉妬の一つぐらいしそうなものなのに。

 ピクリとも私の心は動かないのだ。可愛らしい嫉妬も、独占欲も。

 何も、浮かばない。


 どうして、私は婚約者様に愛情を抱けないのだろう。


「……わからないわ」


 私が十一歳。婚約者様は十五歳。

 思えば、初めて会ったときから、だった。

 婚約者様が私に最初から好意を示したように、私の心には、婚約者様への――不快感や嫌悪感や、つまり、顔も見たくない、私に一切関わらないで! という感情が、わき上がったのだ。

 会ったばかりだ。態度や言葉、どれをとっても、十五歳の婚約者様に忌むべきところはなかったというのに。

 それこそ、私が一目惚れをするような要素こそ、あれど。


 一目惚れの反対のようなものだろうか。

 一目見ただけで、合わないと感じる。


 けれども、こんな理由で婚約を破棄できるわけがない。傲慢にすぎる。それも、貴族ではあれど、位の劣る私からなど。この婚約は、家にとっても最上の契約なのだ。婚約者様側から申し入れられたものでもある。私の感情でどうこうできるようなものではない。


 当初、私は楽観視していた。し過ぎていた。こんなにも素敵な方なのだ。私は、きっと婚約者様を好きになる。そのはずだわ。だって好きにならないなんて考えられない。

 結婚までの間に、きっと私は彼を愛するようになる。

 ところが――私は十八歳になり、月日を重ねれば重ねるほど、婚約者様への拒絶反応が強まるという結果になってしまった。彼にとっては、とても理不尽なことに。


 おかげで、私は微笑むことと、感情を隠すことが、とても上手くなったと思う。奥へ、奥へと沈めるのだ。婚約者様とダンスをするときは、胸にジクジクと広がる不快感を殺し、幸せそうに微笑むことを心がけ――偽りによって全身を固める。今夜の一曲でも、そうだった。

 こんなことで、私は彼と結婚できるのかしら。子を設けることはできる?


 手すりを強く、握り込む。


 義務でも、婚約者様以外の殿方となら、問題なく務めを終えられると断言できる。

 愛があれば最善。愛がなくとも普通。それなのに何故私は婚約者様が相手だと割り切れないのだろう。

 女ならば、むしろ一夜の夢でも、と望むような素敵な男性なのに。

 それが、私の婚約者様だ。


 想像してみる。

 彼に口づけされ、身体に触れられたら、私は――。


 私は?


『来ないで。嫌よ。もう二度と』


 悪寒が走る。ありもしない光景が、思い浮かんだ。






『リヴィエラ!』


 婚約者様が、見たことがないような険しい顔で怒鳴った。


 私は両手に抜き身の短剣を握っていた。ついで、それで喉を掻ききった。……躊躇うことはなかった。だって、もう、意味はない。我慢する、意味はない。このまま生きていても、()()()の良いようにされるだけだ。()は数日前、任務中に命を落とした。戦いには勝ったのに、味方に殺されたのだ。この男が仕組んで、間接的に殺した。周到に。


 私はそれを知らず、今日までのうのうと息をし、生きていた。彼が戦場で戦っていることすら知らず。私のことなど忘れて、幸せになっていると思い込んで。

 まるで道化。


 喉が熱い。灼熱を浴びているかのよう。噴き出した血が男に飛ぶ。腕を掴んできた、煩わしい手を渾身の力で振り払う。

 少しでも、離れたかった。流れ続ける血より、苦痛より、そのことのほうが重要だ。

 ()()()がいないところへ行くの。

 もう思い通りにはなってやらない。


 生きたいわけではないのに、血が溢れる喉を片手で押さえ、背後にある露台を振り返る。死ぬのはいい。けれど、この男に触れられるのは、看取られるのは嫌だ。

 私は、露台へ身を乗り出した。


『リヴィエラ!』


 男が悲痛な声をあげる。

 笑いたくなった。残念ね。捕まってなんかやらないわ。

 浮遊感が心地よい。落下した私を冷たい地面が受け止めた。

 草の感触もする。ああ、花壇の中に落ちたのね。

 まだ。生きている。瞼を上げた。


 ――求婚されたとき、()が差し出した、黄色いレザリアの花が視界に映った。


 目を見開く。


 あのとき、私はレザリアの花に、手を伸ばせなかった。

 伸ばしたかったのに、伸ばしてはならなかった。あの男が、約束を守る気などないと知っていたら、花を、心のままに受け取っていたのに。

 その先が、どんな結末でも。


 ――動いて、お願い。

 死ぬ前に、少しだけ。


 中指の先端が、黄色い花弁に触れる。泣きたいような、幸せな気持ちが胸の中に広がった。

 喉からは血が流れるばかりだった。唇を動かして、声にならない言葉を紡ぐ。

 叶うことなら、叫びたかった。最期に、彼の名を。


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