第62話 公爵家への道中にて
本日更新の62話が追筆により長文となりましたので、2話に分けました。
63話の後半部を一部加筆修正しています。
それから一ヶ月が経った。
今日は、クレアがボアラ公爵と正式に婚約の手続きを交わす日である。なお、婚約期間は相手が再婚ということもあり一ヶ月と短かった。
(今回は、仮初めの婚約ではないけれど……)
頭ではこの婚姻は王家のために必要だと理解してはいた。だが、侍女や下女らから公爵の噂を聞けば聞くほど心中に暗雲が立ち込めるようだった。
というのも、ボアラ公爵は亡くなった正妻以外に妾を館の別邸に住まわせていたという。
妾との仲は大変睦まじく、二人の子供のうち一人は彼女との子供らしい。
ただ、妾は平民以下の出自であるが彼女との結婚当時は正妻もいたので、特に彼女を貴族の養子にすることはしなかったそうだ。
だが、今となっては妾の地位を確立することは難しいので、その代わりにれっきとした血筋の正妻を欲したらしい。
普段の公爵の素行に問題はないらしいが、なにぶん亡くなった元男爵令嬢の正妻への公爵の対応が冷徹なものだったらしく、クレアもそういう対応をされるのではと皆が心配しているのだ。
(あくまでも、血筋が確かな妻が欲しいのよね。それなら、いっそ私は妻ではなくて表面的には公爵夫人でも実際には侍女、もしくは下女のような扱いにしてもらえないかしら。そうだわ、相思相愛の第二夫人がいらっしゃるのならそれがいいわ)
クレアは自ら率先してお飾り妻になることを提案しようと決心しながら、父親の代理である兄のクリスと共に馬車に乗り込んだ。
「クレア、本当にすまない。当初、お前の嫁ぎ相手はもう少し年が近い者をと調整したらしいのだが……」
「いいえ、これもご縁ですから」
そう、縁なのだ。
クレアが帰国した時点で、クレアと歳近い令息がみな既婚者か婚約者がいるのも。丁度、初老の公爵が血筋の確かな正妻を望んでいることも。
──アーサーと婚約できたことも。
涙が滲んできた。
(アーサー様。お会いしたいです……)
クレアは咄嗟に涙をハンカチで拭った。
丁度クリスは窓の外を眺めており、クレアの異変に気づいていないようなのでひとまず胸を撫で下ろした。
本音を言えば、彼以外の男性と婚約、ましては結婚などしたくはなかった。
だが、先日にアーサーは婚約を交わしたと新聞で報じられていたと聞いた。もうクレアと結ばれることはないだろう。
「それにしても、このような場にその髪飾りは相応しくないのではないか?」
クレアが現在身につけている髪飾りは、以前にアーサーが贈ってくれたものだった。
確かに市場で買った安価な髪飾りであるし、クレアは両親から贈られた上質な髪飾りも持っているのだが、今日は、今日だけはアーサーの髪飾りを身につけたいのだ。
「これは、私の意志で身につけているのです」
「そんなに大切なものなのか?」
「はい。私にとっては、どんな高価な宝石よりも価値のあるものです」
「そうか。ならば仕方ないな」
夫となる公爵にも、このような反応をされるのだろうか。
許してくれればよいのだが、もし安物を身につけるとはけしからんと取りあげられてしまうことがあればどうしようかと思う。
ただ、今日はあくまでも書類を交わすのであってまだ公爵邸で暮らすわけではないのだが、結婚してから取り上げられる可能性もあるので対策を立てておかなければならないだろう。
そう思案をしていると、クリスが突然声を荒げた。
「おい。行き先を間違えているぞ」
クリスは何かの異変に気がついたのか御者に声を掛けたが、馬車は停まることなく進んでいく。
それから、馬車は王都の外れの建物の前で停まった。クレアは兄と顔を見合わせるが、間髪入れずに御者が降りてきて扉を開いた。
「おい、ここはどこだ!」
クリスが怒鳴る中、御者はスッとクレアの前に出てきて跪いた。
「クレア様。遅くなりまして申し訳ありません」
何故、クレアは自分の名前を呼ばれたのだろうと思った。
だが、その声には聞き覚えがあった。その低く抑揚のない声は確か……。
だが、彼はここにはいないはずだ。
そう思い御者の顔を再度確認すると、彼はアーサーの隠密の「クロ」であった。
「……どうして、あなたがここにいるのですか?」
「主がお待ちです」
クレアの鼓動が高鳴り始める。
「お兄様はこちらでお待ちください」
「それは何故だ」
鋭い視線をクレアに向けるクリスを御するように、クロは立ち上がり二人の間に立った。
「中は安全が確保されている。なんの心配も必要ない」
クレアは強い予感を覚えた。おそらくあの建物内には……。
「お兄様。行って参ります」
「いや、しかし……」
「大丈夫です。心配ありません」
そう言ったクレアの表情は落ち着いており、先ほどまでとは打って変わり爽やかさを含んでいる。
「分かった。だが、何かあればすぐに戻るように」
本来ならば、ここで一人で行かせるのは好ましい判断とはいえないが、クリスは何かを感じとったのかもしれない。
そうして、クレアは建物の中に入った。
建物内はこじんまりとしていて、調度品もほとんど飾ってなかった。
まるで普段は主人のいない屋敷であるが、急遽誂えられたようにどこか不自然さを感じる。
そして、直進した先の大きな扉を開けると、リビングルームと思しき部屋へと辿り着いた。




