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第七話「静寂の裏で 魔狼戦の前日譚」

 脳波の安定を示すグラフを横目に、助手のエリシアは手術台に眠るティリオを見つめていた。


 穏やかな寝顔。無垢で、愚直で、他者を助けることを恐れない──その優しさは、生まれついてのものだった。麻酔により深い眠りについている彼の表情には、一切の警戒心がない。まるで母親の胸で眠る幼子のような、安らかで信頼に満ちた顔だった。


 手術台の上に横たわるティリオの姿を見ていると、エリシアの胸の奥で複雑な感情が渦巻く。彼の胸部には、手術によって埋め込まれた青晶核が微かな蒼い光を放っている。脈動に合わせて明滅するその光は、美しくもあり、そして恐ろしくもあった。


 この光こそが、ティリオの運命を完全に変えてしまったものだった。彼はもはや、自分の意志で動くことのできない存在になってしまった。ゼイド様の精神共鳴装置に完全に支配され、遠隔操作される人形となってしまったのだ。


 ──ティリオ。


 記憶の底から、あの日のことが鮮明によみがえる。エリシアの瞳に、遠い昔の光景が浮かんだ。




☆★




 それは、自分がまだ幼かった頃のこと。


 シルヴァン族というだけで狩られ、追われ、逃げ惑っていた頃。まだ十歳にもならない子供だった自分と、病弱な母が、死の恐怖に怯えながら森の中を彷徨っていた時代。


 シルヴァン族──かつては森の薬草師として敬われた一族。長い耳と翠色の瞳を持つ彼らは、自然の力を借りて病気を治し、怪我を癒す能力に長けていた。王国の各地で医師として働き、多くの人々から感謝されていた誇り高い種族だった。


 だが、三十年前の《血の夜明け》以降、すべてが変わった。時の国王が「シルヴァン族は悪魔の血を引く異端者」と宣言し、王国全土に殲滅令を下したのだ。


 その理由は今でも謎に包まれている。ある説によれば、シルヴァン族の治癒能力に嫉妬した宮廷医師たちの陰謀だったという。別の説では、隣国との戦争でシルヴァン族が中立を保ったことを「裏切り」と見なされたからだとも言われている。


 真相は闇の中だが、結果は変わらない。一夜にして、我々は「悪魔の手先」「国家の敵」とされ、見つけ次第殺害される存在となった。高額な懸賞金がかけられ、金に目が眩んだ者たちが血眼になって我々を探し回った。


 かつては「先生」「お医者様」と呼ばれていた一族が、今度は「化け物」「悪魔」と罵られ、狩られる獲物となった。人間の手のひら返しの残酷さを、幼いエリシアは目の当たりにしたのだった。


 母と私は、それから五年間も逃げ続けた。森から森へ、廃村から廃村へ。時には洞窟に隠れ、時には木の洞に身を潜めた。常に追手の足音に怯え、常に発見される恐怖と隣り合わせの生活だった。


 母は日に日に痩せ細り、咳が止まらなくなっていた。薬草の知識はあるものの、必要な材料を集めることができない。人里に近づけば見つかってしまうし、深い森には薬草が少ない。次第に母の容態は悪化していった。


 血を吐くようになった母を見て、エリシアは絶望的な気持ちになった。このままでは母は死んでしまう。でも、助けを求めることもできない。自分たちは「人間の敵」なのだから。


 雨の降る夜だった。母の身体は熱に浮かされ、まともに歩くことすらできなくなっていた。私は十歳にもならない子供で、母を支えるのがやっとだった。濡れた服は重く、足元は滑りやすい。母の体重が小さな私には重すぎて、何度も転びそうになった。


 すぐ背後には、我々を狩る追手の足音が迫っていた。松明の明かりが闇を切り裂き、猟犬の鳴き声が響いてくる。「シルヴァン族を見つけたぞ!」「金になるぞ!」という野卑な叫び声が、雨音に混じって聞こえてきた。


 もうだめだ。ここで終わりだ。


 母を見捨てて逃げることもできたかもしれない。でも、そんなことはできなかった。母は私の唯一の家族だった。この世で最も大切な存在だった。一緒に死ぬなら、それでもいい。


 そんな絶望に支配されそうになったとき──


 茂みの隙間から、幼い少年と目が合った。


 ティリオ──あの少年は、こちらに気づいていた。


 七つか八つほどの年頃。丸い顔に大きな瞳、好奇心に満ちた表情。上質な服を着ており、明らかに裕福な家庭の子供だった。普通の子どもなら、正体不明の怪しい人影を見つければ恐怖で逃げ出すはずだ。


 だが彼は違った。


 私たちの惨めな姿を見つめ、一瞬だけ驚いた後、理解したような表情を浮かべた。彼の澄んだ瞳には、恐怖ではなく心配の色が浮かんでいた。まるで困っている人を見つけた時のような、純粋な同情の眼差しだった。


 そして何のためらいもなく、父のもとへ駆け寄ると言った。


「とうさん、あそこに人がいる。追われてるみたい。……助けてあげて」


 その声には、迷いがなかった。シルヴァン族であることを知っているかは分からないが、困っている人を助けたいという純粋な気持ちが込められていた。


 父親──アヴェンハート氏は、一瞬だけ表情を曇らせた。


 彼もまた、シルヴァン族の特徴を理解していたはずだ。長い耳、翠色の瞳、そして何より、現在王国中で狩られている存在であることを。この国で"シルヴァン族"を助ける行為が何を意味するのか、わかっていたはずだ。


 家族もろとも処刑される可能性もある。商売上の信用も失い、財産も没収されるかもしれない。アヴェンハート商店という、一代で築き上げた事業も失うかもしれない。リスクはあまりにも大きすぎた。


 それでも、ほんの息の間の沈黙の後──彼は静かに言った。


「……よし。すぐに毛布を持っていこう」


 背後の森では、追手が灯火を手に捜索していた。「この辺りにいるはずだ!」「見つけ次第殺せ!」という声が響いている。見つかれば家ごと罰せられる。それでも、その父親は当たり前のことをするかのように、私たちを隠し部屋へ招き入れた。


 濡れた体を拭き、温かいスープを差し出してくれた。何日もまともな食事をしていなかった私たちには、まさに命の水だった。温かいスープが胃に入ると、体の芯から温まっていく。久しぶりに人間らしい扱いを受けて、涙が止まらなくなった。


 ティリオは焚き火のそばで笑っていた。母の手を握り、私の肩に手を置いて、まるで家族のように接してくれた。年下なのに、まるで兄のように頼もしく見えた。


「だいじょうぶ。ぼくたちが隠してあげる。……こわい人たちは、お父さんが追い返すよ」


 その時、まさに追手が屋敷の門を叩いた。


 エリシアは母にしがみついて震えていた。ついに見つかってしまった。今度こそ終わりだ。でも、アヴェンハート氏の表情は冷静だった。


 だが、アヴェンハート氏の巧妙な対応と、商人として築いた信頼のおかげで、私たちは難を逃れた。


「雨の夜に怪しい人影? そんなものは見ていませんね。私どもは夕食の時間でしたから」


 嘘をついてくれたのだ。しかも、とても自然に。追手たちも、信頼できる商人の言葉を疑うことはできなかった。


 三日間匿われた後、安全な隠れ家への案内を手配してくれた。それも、ただ追い出すのではなく、確実に安全な場所まで送り届けてくれた。見送る際、アヴェンハート氏はこう言った。


「また困ったことがあったら、いつでも頼ってください。この世界に住む人間として、当然のことをしただけですから」


 その言葉に、エリシアは深く感動した。「当然のこと」──彼にとって、困っている人を助けるのは当然のことだったのだ。見返りを求めず、リスクを恐れず、ただ純粋に人を助ける。そんな人格者だった。


 ティリオも涙を浮かべながら手を振ってくれた。


「また会えるよね? 約束だよ」


 その時の彼の笑顔は、今でも鮮明に覚えている。純粋で、温かくて、希望に満ちた笑顔だった。


 ──命を、拾ったのだ。


 もしこの親子がいなければ、自分も母も、あの夜に殺されていた。間違いなく。追手たちの手にかかって、無惨な死を遂げていただろう。




☆★




 その後の日々は、さらに過酷だった。


 母の病状は悪化の一途を辿り、隠れ家を転々としながらも、ついに力尽きてしまった。エリシアが十二歳の時だった。


 母を看取り、一人になった私が出会ったのが、ゼイド様だった。


 当時のエリシアは、文字通り行く当てのない孤児だった。シルヴァン族の血を引く以上、どこにも受け入れてもらえない。かといって、一人で生き抜くには幼すぎた。


 飢えと寒さに耐えかね、街の片隅で行き倒れそうになっていた時、ゼイド様が声をかけてくれたのだ。


「君は……シルヴァン族だね」


 その言葉に、エリシアは身を縮こませた。また追われるのか、殺されるのか。そう思った瞬間だった。


 だが、ゼイド様は違った。


「恐れることはない。私は君の血筋に興味があるのではない。君の持つ知識と技術に価値を見出しているのだ」


 ゼイド様は、シルヴァン族の血を引く自分を、能力のみで判断してくださった。出自も過去も問わず、ただ私の持つ知識と技術を評価してくれた。シルヴァン族の医学知識、薬草の扱い、そして細かい手作業の技術。


「過去は問わない。君の力が必要だ」


 その言葉で、自分は初めて人として認められたのだ。


 ゼイド様もまた、この腐敗した世界の犠牲者だった。偉大な祖父の功績を奪われ、天才でありながら身分の低さゆえに蔑まれ続けている。私たちは同じ痛みを知る者同士だった。


 血筋で差別され、能力ではなく出身で判断される理不尽さ。真の価値を理解されない苦しみ。そんな共通点が、私たちを結びつけたのだ。


 だからこそ、私はゼイド様についていくと決めたのだ。この方ならば、きっと世界を変えられる。血筋や身分ではなく、真の能力で評価される世界を作れる。


 善人が苦しみ、悪人が栄える世界など、私は認めない。ゼイド様の技術と知性があれば、本当の正義を実現できる。そう信じて、彼の助手となったのだ。


 なのに──


 エリシアは唇を噛みしめる。手術台のティリオを見下ろしながら、胸の奥で激しい葛藤が渦巻く。


 知らなかった。


 ティリオが奴隷として売られ、闘技場に送られるほどに追い詰められていたことを。あの温かい家庭が崩壊し、家族がバラバラになってしまったことを。彼の父も、亡くなったと聞いた。


 ──あれほど尊い人が、なぜ。


 商売敵の陰謀、政治家の腐敗、民衆の無関心──すべてが重なって、善良な人々を苦しめている。アヴェンハート家のような人たちこそが報われるべきなのに、現実は逆だ。


 正直で誠実な商人が陰謀で潰され、困っている人を助ける優しい人が不幸に見舞われる。この世界は、明らかに間違っている。


 そして今、私は──


 あなたを救うために、あなたを"被検体"として、この場に寝かせている。


 脳に青晶核を埋め込み、精神共鳴装置とリンクさせ、闘技場での死闘に向かわせる。それが生き残る唯一の道だと、頭では理解している。


 ゼイド様の技術によって、ティリオは普通では考えられない力を得る。魔狼すら倒せる力を。G級の雑魚奴隷から、一躍注目の的になることができる。


 それに、ゼイド様の目的は復讐だけではない。この腐敗した世界を変革し、真の能力主義を実現する。そのためには、どうしても力が必要だった。権力者たちに対抗するための、圧倒的な力が。


 ティリオが強くなり、勝ち上がっていけば、やがてゼイド様の計画も実現に近づく。そうすれば、アヴェンハート家のような善良な人々が報われる世界が来るかもしれない。


 ……けれど、心が割れるように痛む。


 私の手には、ティリオの頭部に埋め込まれた青晶核の制御装置がある。この小さな機械一つで、彼の意識は完全にゼイド様の支配下に置かれる。


 彼はもう、自分の意志で動くことはできない。戦闘中、彼の身体は精密な機械のように動き、敵を倒していく。だが、それは彼自身の力ではない。


 彼自身は何も知らないまま、意識の奥底で眠り続けることになる。目覚めた時には血まみれになっていて、記憶もない。そんな恐ろしい状況に置かれることになるのだ。


 これは救済なのか? それとも──


 「ごめんね……ティリオ……」


 声にならない囁きが、手術室の無音に消えていく。


 彼がどれほど恐ろしい目にあい、どれほど傷ついてきたかを思えば、胸が裂けるようだった。家族を失い、財産を奪われ、奴隷として売られ、死の恐怖に怯えながら生きている。


 そんな彼を、さらに非人道的な実験の材料にしてしまった。恩人の息子を、まるで実験動物のように扱ってしまった。


 それでも、あなたには生きていてほしい。


 この地獄のような世界で、それでも、生き残ってほしい。


 あの時、あなたの家族が私を救ってくれたように、今度は私があなたを救いたい。たとえこんな方法でも、あなたが死ぬよりはマシだから。


 あなたが勝ち続けさえすれば──生きて、証明してくれさえすれば──この世界は、必ず変わると信じられるから。


 エリシアは深く息を吸い込み、再び器具を手に取った。ゼイド様から託された任務を、完璧にこなさなければならない。


 私はゼイド様の助手として、あなたを"戦える身体"に整える。


 それが、今の私にできる、唯一の祈りだ。


 手術台の上で眠るティリオの顔を見つめながら、エリシアは複雑な感情を抱いていた。罪悪感、使命感、そして微かな希望。すべてが入り混じって、胸の奥で渦を巻いている。


 恩人を利用することの罪悪感と、世界を変えるという使命感。その両方を胸に抱きながら、エリシアは静かに作業を続けた。


 手術台のティリオは、まだ何も知らない。自分がこれからどんな運命を辿ることになるのか、まったく知らない。ただ安らかに眠り、時々小さく寝息を立てている。


 その無垢な寝顔を見ていると、エリシアの胸はさらに締め付けられた。


 この人は、本当に純粋で優しい人だ。困っている人を見過ごすことができず、自分のことより他人のことを心配する。そんな善良な心を持った人を、こんな風に利用してしまっている。


 でも、他に方法がない。


 この世界で生き残るためには、強くなるしかない。そして、強くなるためには、ゼイド様の技術が必要だった。青晶核の力と精神共鳴装置の制御システム。それらがなければ、ティリオは間違いなく死んでしまう。


 ──待ってて、ティリオ。


 今度は、私があなたを救う番だから。


 あなたが教えてくれた「善」が報われる世界を、必ず作ってみせる。たとえこの手が汚れようとも──


 その決意だけが、彼女の心を支えていた。


 手術室の静寂の中で、エリシアは一人、複雑な想いを抱えながら作業を続けた。恩人への感謝と罪悪感、世界への憤りと希望。すべてが彼女の心の中で交錯していた。


 やがて夜が更け、手術室の時計が深夜を告げる。しかし、エリシアの作業は続いた。完璧を期すために、何度も何度も確認を重ねる。


 ティリオの未来は、この一夜にかかっている。そして、ゼイド様の壮大な計画も、この少年の成功にかかっている。


 世界を変える第一歩が、ここから始まるのだ。

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