第十話「F級訓練部屋の現実」
食堂での屈辱から逃げるように、僕は自分の部屋へと戻った。
足取りは重く、頭の中はまだボルカたちの嘲笑が響いている。空っぽの胃袋が痛み、力が入らない。廊下を歩きながら、他の闘士たちとすれ違うたびに肩をぶつけられた。
「おっと、すまねぇな魔狼殺し」
「足元気をつけろよ、雑魚」
わざとらしい謝罪と、明らかな嘲りの込められた言葉。僕はただ黙って歩き続けるしかなかった。反論する気力も、抵抗する勇気もない。
廊下の石壁には、いたるところに血の染みがついている。古いものもあれば、まだ新しいものもある。この場所では、日常的に暴力が行われているのだ。弱い者が強い者に蹂躙される、それがここの掟なのだろう。
訓練所の宿舎。F級闘士のための六人部屋。
だが、ここは"住まい"などとは呼べない。
重い木の扉を開けると、むせかえるような悪臭が鼻を突いた。湿った空気、壁の染みとひび、床に転がる食べかけのパン。鉄格子のはめられた窓からは、ほとんど光が入ってこない。
天井は低く、梁には蜘蛛の巣が張っている。床は石造りで、常に湿っぽく冷たい。隅の方には排泄物の臭いも混じっており、まともに換気もされていないようだった。
うぅ、汚い。ここ、本当に"人が住む場所"なのか。
つい数ヶ月前まで、僕は裕福な商家の息子だった。立派な屋敷、絹の服、豪華な食事。毎日お風呂に入り、清潔なシーツのベッドで眠っていた。あの当たり前だった日常が、今では夢のように遠い。
暖炉のある居間で家族と過ごした夜、母が作ってくれた温かい料理、妹のセリアと本を読んだ午後──全てが別世界の出来事のように感じられる。
部屋の中には、すでに何人かがいた。ベッドに寝転がっている者、壁にもたれながらナイフの刃を磨いている者。どいつもこいつも、鋭い目つきで僕を睨み、目が合った瞬間、無言で鼻で笑った。
「また戻ってきたのか、坊ちゃん」
声をかけてきたのは、エリックという名の男だった。三十代前半で、元は盗賊をしていたという。顔には大きな刀傷があり、左手の小指がない。その目つきは常に何かを企んでいるような、狡猾な光を宿している。
「お金持ちのガキが泣かされたか?」
嘲りの言葉が飛んでくる。エリックの隣にいるのは、ブルースという大柄な男だ。元軍人だったらしく、規律正しい動作をするが、その眼光は冷酷そのものだった。
この部屋では、僕は"新人"であり"最下層"なのだ。しかも、商家の息子という出自が、さらに彼らの反感を買っている。貧困の中で育った彼らにとって、裕福な家庭出身の僕は憎悪の対象でしかない。
もういいや。今日は、何も考えたくない。
自分のベッドに向かう。到着した初日、部屋長が案内してくれた隅の場所。薄汚れたマットレスと、穴だらけの毛布。それでも、寝る場所があるだけマシだと思っていた。
あれ、ない?
僕の"ベッド"には何もなかった。マットレスも毛布も、枕代わりに使っていた古い布も、全て消えている。
代わりに部屋の隅、汚れた壁のすぐそばに、見覚えのある毛布が転がっていた。薄くて穴の開いた、みすぼらしい毛布。それでも、寒い夜には命綱のような存在だった。
よたよたと歩み寄り、それを取ろうとした瞬間──
「おい。待て」
低い声が響いた。
顔を上げると、初日に僕を案内してくれたあの男──"部屋長"が、腕を組んで立っていた。三十代前半ぐらいの男で、体格はそれほど大きくないが、目つきが異常に鋭い。左手の小指がなく、右腕には刺青が彫られている。
その刺青は蛇のデザインで、まるで生きているかのように見える。部屋長の筋肉の動きに合わせて、蛇がうねっているように見えた。
いつものように薄く笑っていたけれど、その笑みは氷のようだった。
その横から、傷跡のある中年男性──ヴァルクが口を開いた。彼は元傭兵だったらしく、その体には無数の戦傷が刻まれている。特に顔の右半分は大きく損傷しており、右目は義眼だった。
「それ、部屋長の毛布だ」
ヴァルクの声は低く、威圧的だった。
「えっ……でも、僕が使ってたよね? ずっと……」
僕の声は震えていた。確かに、この数日間使っていた毛布のはずだ。
「へっ、今までは大目に見てやったんだよ。今日からは違う」
部屋長が冷たく言い放つ。
どうして急に?
今まで何も言わなかったのに。もしかして、食堂での出来事が伝わっているのだろうか。弱い者は徹底的に追い詰める──それが、ここのやり方なのかもしれない。
「じゃあ……毛布は譲るよ。せめて、ベッドだけでも」
そう言って空いたベッドに手を伸ばそうとしたが──
部屋長が軽く顎をしゃくると、ヴァルクが立ち上がった。その動きは素早く、元傭兵としての身のこなしを感じさせた。
「そこも部屋長の場所だ」
ヴァルクの声には、問答無用の威圧感があった。
「えっ……。じゃ、じゃあ、僕のベッドは?」
困惑する僕に、部屋長は薄く笑った。
「知るか。床にでも寝てろ」
言い捨てるようにして、彼はナイフの背で自分の爪をこすり始めた。ガリガリという音が、静寂の中に響く。その音は、まるで僕の神経を削るかのように不快だった。
他の住人たちも、この光景を楽しんでいるようだった。誰も僕を助けようとはしない。それどころか、面白がっているような表情すら浮かべている。
弱い者をいじめることが、彼らの娯楽なのだ。日々の鬱憤を、さらに弱い者にぶつけることで発散している。
「……なら、床でいいよ」
ため息混じりに腰を下ろそうとした。その時、ヴァルクが再び口を開いた。
「おい、その床は部屋長の床だ」
今度は、さすがに理解が追いつかなかった。
「……は?」
思わず声が漏れた。床まで部屋長のものだというのか。
「じゃあ、僕はどこで寝たらいいのさ……」
もはや哀願するような口調になっていた。この部屋の中で、僕が使える場所は一体どこにあるというのか。
「知るかよ」
部屋長の声は冷たく、一片の同情もなかった。まるで虫けらを見るような目つきで、僕を見下ろしている。
あまりな理不尽さに、つい、彼を睨んでしまった。
それが、まずかった。
部屋長の目が鋭く細まり、口角がゆっくりと吊り上がった。空気が一変する。それまでの軽い嫌がらせとは、明らかに質が違う空気になった。
他の住人たちも、急に真剣な表情になる。まるで獲物を前にした肉食獣のような、危険な雰囲気が部屋に満ちた。
「ほう? その目つき……教育が必要なようだな」
その声には、明確な殺意が込められていた。今まで遊び半分だった空気が、一瞬で殺伐としたものに変わった。
部屋長はゆっくりと立ち上がり、壁の隅に歩いていく。そして、汚れたシーツの一枚を掴み、勢いよく剥ぎ取った。
バサッという音と共に、埃が舞い上がる。
その瞬間、僕の世界が止まった。
シーツの向こう。壁一面に、血の痕がこびりついていた。
乾いて茶色く変色したその血は、七つ、八つもの無数の手形となって広がっていた。大きな手形、小さな手形、指の跡まで鮮明に残っているもの。中には子供らしき小さな手形もあった。
血だまりが流れた跡、爪で引っかいた跡、絶望的な文字──「たすけて」「いたい」「ころさないで」「かえりたい」。文字は震えており、極度の恐怖の中で書かれたことが分かる。
まるで、何人もの人間が助けを求めて壁を叩き続けたかのように──。
その中には、明らかに子供の手によるものと思われる文字もあった。「おかあさん」「いえにかえりたい」といった、幼い字体で書かれた言葉。
僕の体は一瞬で氷のように冷たくなった。手足の先から血の気が引いていく。膝はがくがくと震え、立っていることすらできなくなりそうだった。
吐き気がこみ上げてくる。目を逸らしたいのに、逸らすことができない。あまりにも衝撃的な光景に、思考が停止してしまった。
「こいつらのようにな」
部屋長が言う。何人かがククッと笑った。だが、その笑いには楽しさではなく、狂気が混じっていた。
エリックが付け加える。
「みんな、最初はお前と同じようなことを言ってたよ。『僕はまともな家の出身だ』『こんな扱いを受ける理由はない』ってな」
ブルースも冷たく笑った。
「でも、最後はみんな同じ。這いつくばって命乞いをして、それでも殺された」
「ひっ……!」
何人もが、ここで殺されたんだ。
しかも、全て僕と同じような"弱い者"たちだったのだろう。皆、知ってる。誰も、止めなかった。それどころか、愉しんでいた。
僕を見ているその目は、"虫"を見るような視線だった。同じ人間として見ていない。ただの玩具、ただの獲物として認識している。
数日間、無事だったのは偶然じゃない。こいつらの"気まぐれ"だったんだ。
今度は僕が、あの壁に手形を残す番だというのか。僕の血で、あの恐ろしい壁画に新しい色が加わるのか。
心臓の鼓動が異常に早くなる。手のひらに汗がにじみ、足が震えている。体の奥底から這い上がってくる原始的な恐怖。
逃げよう。
その思考が頭の中を支配した。理性も何もない。ただ、ここから逃げ出したい。この地獄のような部屋から、一刻も早く。
振り返って扉に向かおうとした瞬間──
「おっと、どこ行くんだい」
食事を奪った男が入口をふさいでいた。
ボルカだった。
あの巨体が扉を完全に塞いでいる。その後ろには、ネズとガーロの姿も見える。まるで、この展開を予想していたかのようだった。
ボルカの体は、扉の幅をほとんど覆い隠すほど大きい。脂肪と筋肉の塊のような巨体が、僕の唯一の逃げ道を完全に遮断していた。
「魔狼殺しの坊やじゃないか。どうした、顔が青いぞ?」
ボルカの声には嘲りが込められていた。その口元には、獲物を前にした肉食獣のような笑みが浮かんでいる。
完全に囲まれた。
部屋長とその仲間たちが後ろから迫り、ボルカたちが前を塞いでいる。左右の壁には血痕が広がり、逃げ場は完全にない。
怖い。怖い。逃げたい。
しかし、体が動かない。足がすくんで、一歩も動けない。まるで金縛りにあったように、体が石のように重い。
この状況の異常さが、ようやく理解できた。食堂での嫌がらせ、部屋での理不尽な要求、そして血痕の壁。全てが計画的だったのだ。
僕は完全に罠にはまっていた。獲物を追い詰める狩人のように、彼らは僕を段階的に絶望の淵へと追いやっていたのだ。
弱い獲物をじわじわと追い詰め、最後に仕留める。それが彼らの手法なのだろう。抵抗する気力を奪い、希望を断ち、そして最後に――。
僕の中の"生存本能"が、全力で警鐘を鳴らしていた。
だが、もう遅い。
狼たちに囲まれた羊のように、僕は完全に包囲されていた。
部屋長が一歩、また一歩と近づいてくる。その手には、いつの間にか小さなナイフが握られていた。刃は錆び付いているが、十分に鋭い。
「さあ、教育の時間だ」
部屋長の声が、まるで死神の宣告のように響いた。
壁の血痕が、僕の未来を物語っているようだった。あと数分後、僕の手形もあの壁に加わるのだろうか。
絶望が、僕を完全に飲み込もうとしていた。
でも、その時──なぜか、頭の奥で小さな声が響いた。
『生きろ』
それは誰の声だったのか、分からない。でも、確かに聞こえた。頭の奥で、何かが蠢いているような感覚があった。まるで、別の誰かが僕の中にいるかのような――。
その瞬間、僕の視界が一瞬、暗くなった。




