05.二度目の初対面
記憶にあるものより少し若いが、それは間違いなく愛しいヴェスカルドの声だった。
(まさか、どうして。彼がここにいるはずはないのに)
前の人生では、彼と言葉を交わすのはもっと先のはずだった。花嫁教育のため、ゼファー帝国へ赴いたその日――初めて、ヴェスカルドと出会うまで。
もしや自分は彼を恋しく思うあまり、都合のいい幻聴を耳にしたのではないか。
そんな疑いを抱きつつも、アストリンデの胸は期待に高鳴り、痛いほど強く脈打っていた。
深呼吸を繰り返し、声のしたほうへ顔を向ける。
果たしてそこには、目の覚めるような白と青の対比が美しい衣装を身に着けたヴェスカルドがたたずんでいた。
「ヴェスカルド――」
気づけば囁くように、彼の名を口にしていた。
アストリンデの最愛。
魂の片割れ。
何より大切な宝物。
感極まって思わず手を伸ばしかけたアストリンデは、けれど彼が発した言葉に、瞬く間に正気に返る。
「初めまして」
「――っ」
「私はゼファー帝国の皇子、ヴェスカルド。見事な庭園だったから、しばらく散策していたんだ。君はもしかして、アストリンデ王女かな?」
優しい笑顔。しかしそこには、かつてアストリンデだけに見せてくれていた親しみや愛情はどこにもない。
(ヴェスカルドには、前の人生の記憶がない――)
覚悟はしていたものの、いざその事実を突きつけられると、言葉にできない空白が胸の中に広がった。
彼が生きていたことに対する喜びも、彼が自分を知らないことに対する悲しみも追いつかない。
ただ自分だけが今も取り残され、世界にひとり佇んでいるような心地になる。
(でも、それでよかったのかもしれない)
彼が弟に裏切られ死んでいった記憶に苦しめられるくらいなら、自分のことなど忘れてくれたほうが幸せだ。
「はじめまして。おっしゃるとおり、わたくしがアストリンデ・パルシエラです」
今すぐ彼の胸へ飛び込みたい気持ちを抑えながら、アストリンデはドレスをつまみ、軽く足を引いて腰を落とす。
完璧に身についた王女の微笑は、内心の揺れを欠片も表に出さない。
そんなアストリンデを見て、ヴェスカルドは何度かまばたきを繰り返した。年齢に似合わぬ大人びた態度に、軽く驚きを覚えているようだった。
「ああ、やっぱり君が。でも、噂以上に聡明な姫君だったようだね」
「……噂?」
「〝パルシア王族に、伝説の魔女に師事する聡明な魔女見習いがいる〟と。君のことは、各国でちょっとした噂だよ」
「師が優秀なのです」
謙遜ではなく、それは事実だった。
師の魔法に関する知識は底知れず、アストリンデがどんな問いを投げかけても、的確な答えが返ってくる。
その知識に裏打ちされた魔法の腕前は、宮廷魔法使いが束になってかかっても及ばないだろう。
師が何歳なのか、アストリンデは未だに知らない。
けれど、彼女の内に積み重ねられた叡智と技術を前にすると、普通の人間が歩める時間をゆうに超えていることが、はっきりと感じられた。
「ヴェスカルド――殿下は、なぜパルシアに?」
呼び慣れた名をよそよそしい敬称で包む。
平静を保つために少し声が固くなってしまったが、そのせいでヴェスカルドは、アストリンデが緊張していると勘違いしたようだ。
「どうか私のことは呼び捨てに。君のような小さな女の子が、そんな風にかしこまらなくていいんだよ」
優しい声音に、アストリンデは一瞬言葉に詰まった。
記憶はなくとも、穏やかな眼差しと相手を気遣う思いやりは、アストリンデの知る彼と何ひとつ変わらない。
「呼び捨てがはばかられるなら、そうだな。私は親しい人々からはヴェスと呼ばれているんだ。そう呼んでくれるかな」
「では、では――ヴェス兄さま……とお呼びしてもよろしいですか?」
許されなければ、それでもいい――それは本心だ。
けれど拒絶された時のことを考え、懐かしい呼び名を口にする声が少しだけ震える。
「もちろん。兄さま……か。妹ができたみたいで嬉しいな」
少し気恥ずかしそうな、けれど言葉通り嬉しそうな声音。
それを耳にするなり、胸の奥で張りつめていた何かがかすかにほどけた。
今のアストリンデにとっては、十分だった。
この呼び名を拒まれなかった――ただそれだけで、今は。
「君の噂は、もちろん我が国にも届いていてね。どうしてもこの目で小さな魔女殿を見てみたいと思っていた。そんな折に、もうすぐ君が誕生日だと知って、それで訪問の約束を取り付けたんだ」
「そうだったのですか? でもわたくし、何も……」
そこまで言いかけて、アストリンデは言葉を詰まらせた。
三ヶ月程前に、女官長から誕生日の招待客名簿を渡されながら、面倒だからと深く目を通していなかったことを思い出したのだ。
「君には、伝わっていなかったようだね」
そう言って、ヴェスカルドは軽く苦笑する。その気遣うような態度が、かえって胸に刺さった。
(……知っていたなら、もっときちんと準備をしたのに)
修行を優先するあまり、重要なことをおろそかにしてしまったことを今更ながら後悔する。
その直後、慌ただしい足音が遠くから近づいてくるのが聞こえた。見れば女官や侍女が、慌てた様子でやってくる。
「アストリンデさま、まだこちらにいらっしゃったのですね。そちらの方は――」
早足で近づいてきた女官だったが、その視線はアストリンデを通り過ぎ、背後にいるヴェスカルドに向けられる。
正確には、彼の胸にあるゼファー帝国皇族の証である徽章に。
「っ……、大変失礼いたしました。ゼファー帝国のヴェスカルド皇子殿下でいらっしゃいましたか」
顔色を変えた女官一同が、慌てて最上級の礼を取ろうとする。
ヴェスカルドは困ったように手を上げ、彼女たちの行動を制した。
「急いでいるんだろう? 私のことは気にせず、王女をお連れしてくれ」
その一言で、女官たちはほっとしたように顔を上げ、慌てて体勢を整える。
「お心遣い、ありがたく存じます。殿下」
「さあ、参りましょう。アストリンデさま」
「ええ……」
後ろ髪を引かれる思いで、アストリンデは一度だけ振り返る。
ヴェスカルドはその場に佇み、優しい笑みでアストリンデを見送ってくれていた。
「また後で。アストリンデ王女」
穏やかな声に小さく頷き返してから、アストリンデは女官たちを従え歩き出す。
「まさかヴェスカルド殿下とご一緒でいらっしゃったとは……」
「そろそろ他の招待客の方々も到着し始める頃です。お早くご準備を」
女官たちは口々に何か言っていたが、アストリンデはほとんど聞いていなかった。
ただ、ヴェスカルドのあの穏やかな声だけが、耳の奥に残っていた。




