03.魔女の弟子
アストリンデの言葉を、塔の魔女は身じろぎひとつせず受け止めた。彼女がこぼした小さな笑い声の意味を計りかねるアストリンデに、魔女は厳かに問いかける。
「何故、我が弟子になりたい? そなたも姉から聞いたであろう。私は罪を犯し塔に閉じ込められた、恐ろしい魔女だと」
「そうは思いません」
かつてジルヴェナは確かにそう言って、アストリンデのことを騙そうとした。
けれどアストリンデは実際に塔に足を踏み入れた上で、それが嘘であると確信している。
「この塔は、外からの侵入を防ぐ仕掛けが施されていました。ですが、内から外に出る分には完全に無防備です。もし魔女さまが真に咎人であるのなら、もっと警備を厳重にするはず」
この国にはかつて大賢人と呼ばれた魔法使いたちが残した魔道具がある。たとえ塔の魔女がどれほど強力な魔法の使い手であろうと、彼らの作った魔道具を駆使すれば、塔に閉じ込めておくことなど造作もないはず。
「魔女さまは閉じ込められているのではない。自ら閉じこもっているのだと愚察いたします」
「……ほう? ならば問おう。お前は理解しているか。私に学ぶということが、何を意味するのかを」
魔女はいつの間にか、手を伸ばせばアストリンデに触れられる距離まで近づいていた。
足音すら聞こえなかった。まるで初めからそこに立っていたかのように、魔女は静かに目の前に佇んでいた。
「魔法は――時に自分の、他人の人生をも狂わせる。大きな力には選択が伴う。時に誤った道を選ぶかもしれない。その苦しさに、そなたは耐えられるか。それでもなお、弟子になりたいと願うか?」
その声は相変わらず厳かで、淡々としている。けれどだからこそ、魔女がこれまで歩んできた人生の重み、そして感じてきた苦しみを感じさせた。
試されているのだ、と思った。
納得できない答えを出せば、きっとこの魔女はすぐさまアストリンデをここから叩き出すだろう。
「耐えられなくとも、構わないのです」
アストリンデは塔の魔女を見つめながら、はっきりと告げた。
「わたくしは一度、大切な人を喪いました。その人は他人を信じ、守るべきものを守ろうとし、その優しさゆえに陥れられた。だからこそわたくしは――奪われたものを取り戻したい」
優しかったヴェスカルドは、こんなことは望まないのかもしれない。彼はきっと、アストリンデが自分の死に囚われ続けることを悲しむだろうから。
けれど彼のいない世界なんて、アストリンデには必要ない。彼のいる場所こそが、アストリンデの唯一の帰る場所だったのだから。
「同じ事を繰り返さないために、わたくしは力が欲しい。愛する者を守るためならば、わたくしはどれほど業を背負ってもいい。神さえ敵に回しても構いません」
魔女は黙ってアストリンデの言葉に耳を傾けていた。
長い沈黙が流れる。
やがて魔女は白い髪をさらりとなびかせ、アストリンデに背を向けた。
「――明晩、またここに来るがいい」
駄目だったかと落胆し、俯いたアストリンデの耳を、魔女の声が打つ。
「私の使い魔を迎えに寄越す。まずは基礎から教えてやろう」
「あ、ありがとう――」
礼を言おうと口を開いた瞬間、室内につむじ風が巻き起こり、身体全体を包み込む。とっさに目を瞑り、再び瞼を開いた時にはもう、そこは薄暗い塔の中ではなくアストリンデの部屋の寝室だった。
§
――夢を見ていた。
あれはアストリンデが十二歳の頃。ヴェスカルドに初めて出会った時の夢だ。
その日アストリンデは、見知らぬ異国に送られた心細さと悲しさで、たったひとり庭園で泣いていた。
「お父さまとお母さまのところに帰りたい……」
ティティアの輸出と引き換えに、パルシアはゼファー帝国に庇護を求めた。その証として結ばれたのが、アストリンデとヴェスカルドの政略結婚だ。
王国の未来がかかった婚姻は、幼い王女に託されるにはあまりに重い責務であった。
「――君、どこの子? こんなところでどうしたの?」
突然に声をかけられ、驚いてぱっと背後を振り向くと、そこにはアストリンデより少し年上と思しき少年が不思議そうな顔をして立っていた。
たっぷりの絹布を使った白い外套と、揃いの白い服に、真っ青な帯。そして金色の飾り紐が印象的な、帝国様式の衣装。
後頭部でひとくくりにした髪は、夜を煮詰めたような闇色。
朝焼けを切り取ったような琥珀色の瞳には、はっきりと聡明な光が宿っている。
綺麗な色だと思った。
そして、それと同じくらいに美しい人だと。
(神さまが一番大切にしていたお星さまを落っことして、それが人の姿になったんじゃないかしら)
夢を見ているような心地になり、自然と涙が止まる。
(……だけど、どこかで見たことがあるような)
それがどこだったのか思い出そうと首を傾げるアストリンデに、彼は目元を和らげ、唇を優しい笑みに形作った。
そして腰をかがめ、視線を同じ高さにする。
木漏れ日に照らされた彼の瞳は、間近で見るとますますきらめいていて、宝玉のようだ。
「泣いていたの? 可哀想に。どこか痛いところはある?」
俯いたアストリンデの頬に残る涙の跡に気づいたらしく、少年はハンカチを取り出し、そっと肌を拭った。砂糖菓子に触れるような、優しい手つきだった。
お星さまの化身のような少年は、心も美しいようだ。
気安い口調と穏やかな雰囲気に、自然とアストリンデの警戒も解ける。
静かに首を横に振ると、彼は様子を窺うように周囲に目を配った。
「お付きの人は? それともお父上か、お母上とはぐれた? 私が連れていってあげよう」
どうやら彼はアストリンデを、親と共に登城して迷子になった貴族の娘か何かと勘違いしているらしかった。
同じ年の子供と比べると明らかに小柄な身体をひょいと抱え上げると、まるでふらつく様子も見せず、軽やかな足取りで歩き始める。
急に視界が高くなり、驚いたアストリンデは慌てて彼の首根っこにしがみついた。
少年からは、まるで夏の太陽を燦々と浴びた、レモンやジャスミンのような爽やかな香りがしていた。
両親とも、侍女たちとも全然違う匂いが、すぐ間近で香っている。
子供とはいえ王女として育った身であり、家族以外の異性とこれほどまでに密着したのは初めての経験だ。
自分は今、なんだかとんでもない状況に置かれているのではないだろうか。
布に覆われていた時にはわからなかった逞しい腕の感触に、ふと頬が熱くなる。
彼の腕から逃げ出したいような、どこかに隠れてしまいたいような心地になり、アストリンデはもぞもぞと身じろぎをした。
「ほらほら、暴れると危ないよ」
「あの、あの。わたし、あの、ずっと遠い国からきたの……」
緊張して上手く説明できず、ようやく紡いだ言葉がそれだった。
おずおずと顔を上げると、再び彼と目が合う。
少年は琥珀色の瞳を大きくまたたかせた後、じっとアストリンデを見つめ、やがて噛みしめるように言った。
「君が、アストリンデ王女なんだね」
戸惑いながら頷くアストリンデに、彼は恭しく頭を下げた。
「初めまして、私はヴェスカルド・ザイン」
聞き覚えのある、ありすぎる名前に、アストリンデは改めて相手を見る。
そういえば、肖像画に描かれていた皇太子はこのような容貌ではなかったか。
――肖像画より実物のほうが、ずっとずっと端麗だけれど。
「……あなたがこの国の皇子さま? じゃあ、わたしの婚約者なの?」
ならばなぜ、先ほど皇帝夫妻と謁見した際、その場にいなかったのだろうか。
「――うん、そうだね」
それに、答えるのに少し間が空いたのはなぜだろうか。相手が一瞬だけ苦しそうな顔をしたような気がした。
けれどはっきりと確かめるより早く、彼が話題を変える。
「今日からよろしくね、アストリンデ王女……だとちょっと堅いかな。うーん、もし君さえよければ、愛称で呼んでもいい?」
「は、はい……」
アストリンデの返事に、ヴェスカルドは安堵したように目元を細めた。
「ご家族からは、なんて呼ばれていたの?」
「リンディ……」
「リンディか。素敵な愛称だね」
何度も耳にしてきたはずの愛称だというのに、この美しい皇子の形良い唇が紡いだというだけで、特別な響きを帯びるような気がした。
胸の奥が妙にむず痒くなり、口角が勝手に上がりそうになる。それを堪えようと変に力を込めたせいで、きっと、とても妙な表情になってしまったはずだ。
「改めて、ゼファー帝国へようこそ」
アストリンデを片腕で支えたまま、 ヴェスカルドがもう片方の手を差し出してくる。大きな手のひらには、麗しい外見からは想像もできないほど、たくさんの剣胼胝があった。
「婚約者だとか難しいことはあまり考えず、まずは友達として仲良くしてくれると嬉しいな」
親しげな口調からは、慣れぬ国に来て寂しい思いをしている、年下の婚約者への深い気遣いが伝わってくる。
「……うん」
小さく頷くと、アストリンデは相手の手を握りしめた。
少し硬いけれど優しく、温かな手のひらだった――。
§
幸せな夢から目覚めると、いつも隣にヴェスカルドがいないことを実感し、胸が張り裂けそうに痛む。
寝台から身体を起こしたアストリンデは、小さくため息をつきながら呼び鈴を鳴らした。
すぐにレダを始めとする侍女や女官たちがやってきて、アストリンデを取り囲む。
「おはようございます、アストリンデさま。本日はお誕生日に相応しい、よいお天気でございますよ」
「祝宴の準備も滞りなく進んでおりますからね。招待客の皆さまに、とびきりお美しい姿をごらんに入れて差し上げましょう」
「レダ、髪飾りはどこに?」
「こちらにご用意しております、女官長」
ああでもない、こうでもないと言いながら、女官や侍女たちが忙しなく室内を動き回る。
淡い珊瑚色のドレスを着せられたアストリンデは、鏡台の前で髪を美しく編み上げられ、仕上げに小さなティアラを被せられた。
「ありがとう、みんな」
かつては誕生日の宴といえば心躍ったものだが、今のアストリンデにとっては無駄な行事としか思えない。
宴に出ている暇があるならば、師のもとで魔法を学んだほうがよほど有意義というものだ。
それでも、せっかく支度を手伝ってくれた女官たちに、そんな内心を知られるわけにはいかない。子供らしく微笑んで礼を言うと、女官たちは嬉しそうに口元をほころばせる。
「大変お美しゅうございますわ、アストリンデさま」
「このまま国王陛下と王妃殿下にご挨拶に参りましょうか」
少し悩んだ末、アストリンデは小さく首を振った。
「いいえ――先に、師匠のところへ行ってくるわ」
今日はアストリンデの十歳の誕生日。
塔の魔女に弟子入りしてから、三年が経とうとしていた。




