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マレットの夏休み 2

 目の前に広がる光景がまるで絵画のようだ、というのは陳腐な感想だろうか。


 午前中の夏の海は、どこまでも透き通ったブルーである。その透明度の高さは、磨き抜かれたクリスタルを思わせる。時折名も知らぬ小さな魚の群れが海中に見える。波打際を掠めるように泳ぎ、揺らめき、また離れていく。


 浅い海水の底に沈む白い砂が、マレットの足底をくすぐった。僅かに熱を帯びたそれと水の冷たさのコントラストが、不思議と心地好い。


「王都では海なんか見ないから新鮮だね、リーズ」


「そうね、こればかりは自然の恩恵よね。波の音って何だか優しいわ」


 ブライアンとリーズガルデの声が聞こえる。マレットの前方の波打ち際を、二人は裸足でゆっくり歩いていた。服の裾が濡れないように捲くっており、リーズガルデのスカートは膝上までの短かさである。その裾から覗く白いふくらはぎが健康美を醸し出しており、同性のマレットから見ても美しい。


 (でも私も似たような服ですよね)


 マレットは自分の足元をちらりと見た。白と緑のチェックのワンピースはやはり膝上くらいの丈だ。海の波がかろうじて届いても、足首の上程度。濡れる心配は無かった。


 今年で25歳になるのに、こんな娘みたいな服でいいのかと多少躊躇う気持ちが無いでもなかったが、それより開放感の方が大きい。


「海ってこんなに穏やかなんですね。綺麗......」


 マレットの呟きに、前の二人が振り向く。どちらも示し合わせたようなタイミングだ。


「フレイと来たかったですか?」


「ごめんねー、私達でー」


 とんでもない棒読みで言いつつ、ブライアンとリーズガルデが面白がるような笑いを浮かべていた。自分が思っていたことを当てられたマレットは少し赤くなりながら「あ、いえ。そうですね、ほんの少し」と言葉を濁す。そのままごまかすように、視線を水平線の方へ向けた。


 薄い水色の空は、ある一線でもっと濃い青の海と溶け合っている。そのブルーのグラデーションの上方では白い雲がぷかりと浮かび、"自分もいるよ"と存在感を主張しているようだった。海からの風が髪を撫でて、遊ぶように去ってゆく。


「楽しいですね、こういうの。しばらく忘れていました」


「普段忙しいんでしょ? 短い期間だけどゆっくりしていってね」


 マレットが少し歩調を速めて追いつくと、リーズガルデが答えた。その溌剌とした美しさは、夏の陽射しの下で一層輝いて見える。横を歩くブライアンはそんな妻を見て、少し眩しそうに目を細めた。



 マレットの休日二日目の午前中、朝食後の散歩の一時であった。




******




 昨晩は予定通り夕方にパドアールを出て小一時間ほどで、何軒かのコテージが並ぶ海沿いに着いた。リーズガルデが言った通り、先に着いていたハイベルク家の召し使い二人が掃除を終え、準備よく海の幸を使った夕食を準備していた。


 旬の魚や海老を使ったブイヤベースに、白ワインで蒸した貝。海藻を使ったサラダ。それらが並んだ食卓は見た目も賑やかだし、それ以上にブライアンとリーズガルデの二人と囲む事自体が、マレットには新鮮で楽しかった。


「でね、フレイったら、たまに早くマレットさんに会いたいとかこぼしてるのよ。まだ甘ったれなんだからあの子」


 口に手を当てながら、リーズガルデがほろ酔い気分で話せば。


「でもあいつ、会計士試験には本気で取り組んでますからね。見ていて感心しますよ」


 ブライアンは穏やかに、自分の義理の従兄弟をフォローする。


 海に沈む夕陽を背景にして、そんな気楽な会話を交わす。その時間は何物にも代えがたく、マレットは本当に来てよかったなと思えたのだった。



 その日は病み上がりということもあり、マレットは早々に自分の寝室に下がった。しかし、ハイベルク伯爵夫妻は元気であった。どうやら、近くのコテージに泊まるどこかの貴族と軽いパーティーをしていたらしい。これはマレットが今朝起きてから聞いたことだ。


「元気なんですね、お二人とも」


 コーヒーをいれてくれた召し使いにマレットが話しかけると、中年の穏やかそうな召し使いは「いつものことですから」とにこやかに答えた。

 もう一人、若い娘の召し使いはまだ寝ているブライアンとリーズガルデの様子を見た後、二人の朝食の準備をしていた。今回、執事のロクフォートは留守を預かり、伯爵家で留守番である。




******




「マレットさん、パドアールに赴任してから海に来たことないの?」


 砂浜を歩きながら、リーズガルデが聞いてきた。マレットは苦笑しながら答える。


「ありますよ。会計府の人達が、せっかくですからと連れてきてくれました。でも、休日にお仕事と関係ない人とこんな風に過ごすのは、初めてですね」


 別に今の同僚が嫌な人達というのではないが、やはり友人というわけでもない。中央からの一年間限定赴任という微妙な立場でもあり、個人的にマレットを歓迎していたとしても、どう扱っていいか分からないところがあるに違いない。


 そしてマレットもそういう空気は察していたので、あえて踏み込まずにいた。この辺りはどちらが悪いわけでもなく、仕方ないところだ。



 仕事上は信用して一緒に働ける。


 けれども、プライベートでお互い気を許せるかというと、それはまた別の話だろう。



「まあ、そんな感じですね」


「無理もないかもだけど、結構寂しいね」


 マレットの説明を聞き、ブライアンが微妙に困ったような顔をした。同情するのも失礼だが、笑うのはもっと失礼、そんな状況だ。


「ですけれど、そんなものだと思いますよ。地方会計府にはそこ独自のやり方があり、ずっとそれを続けてきたんですよね。そこに業務改革を名目にいきなり中央から私が派遣されてきたのですから、協力関係までが精々限度かなと思います」


 あまり感情を感じさせない淡々とした声で、マレットは二人に話す。仕方ないなと納得する気持ちと努力はしているのにそれが届かないもどかしさ。そんな気持ちのまま、もう八ヶ月が経過していた。

 一応改善すべき点を洗いだし、そのうちいくつかは実際に修正しつつある。それ自体は自分でもよくやったと言えるものだったが、慣れない土地で知り合いもいない中、改善案を言い出すのは思いの外神経を使ったのだ。


「何か言いたそうね、マレットさん」


 リーズガルデがその緑色の瞳でマレットを覗き込む。綺麗だなと、素直にマレットは思った。彼女の目には、自分がどう映っているのだろうか。それを考えると少し怖い。


「ブライアンさんやマレットさんがおっしゃる通り、少し疲れていたのかもしれませんね。パドアールの人も土地柄も好きですけど、旅行で訪れるなら、言い方を変えれば、楽しむ為だけならという条件付きでしょうか」


 ここまで言って、マレットは言葉を止めた。海の方へ向き直る。そのまま二、三歩進むと、ちょうどやってきた波が彼女の膝下あたりにパシャリとかかる。



 (海っていいな。なんだか、ただ広々として。悩み事なんかないですよって顔でどこまでも続いていて)



 自分の後ろにいる二人が黙っている事に、マレットは気がついていた。それが多分彼女を気遣かってのことだろうな、ということにも。

 同じ役所勤めのブライアンは多少は思うところはあるだろうが、伯爵夫人の立場のリーズガルデにこんな気持ちを理解してもらおうなんて、それは無理な話だ。そこまでわがままは言えない。


 二人とも優しい。それが自分の身内と付き合っている女性だからという理由であっても、マレットには身に余る。思い出すのは実の無い恋に時間を費やし、傷心で涙を流したあの時だ。本当に疲れて寂しくて一人ぼっちだったあの時に比べれば、今は何と恵まれていることだろう。



 同じ道を歩ける恋人がいる。


 自分達二人を見守り、優しく接してくれる恋人の後見人がいる。


 多少なりとも経験を身につけ、強くなった自分がいる。


 少々の逆境はあるが、けして悪質なものではない。それは生きていれば必然であり、必ず乗り越えねばならない性質のものだ。



「何だか不思議ですね。お二人にこんなことを話せる日が来るなんて、王都を離れた時には思いもしませんでした」


 振り返ってマレットは笑った。それは無垢な、純粋なだけの笑いではない。痛みも悲しみも認めた上で、それを上回る優しさと強さを内包した大人の笑いだった。


 それを目にして、リーズガルデは心の中で感嘆した。甘さも苦さも含んだその優しい笑いの価値を、彼女は理解したのだ。たまらず駆け寄り、リーズガルデはマレットの手を取った。事務仕事をこなしてきたマレットの手はけして強靭ではないが、しっかりはしている。その左手を自分の柔らかい右手で握りしめた。


「え、どうしたんですか、リーズガルデさん?」


「なんとなくね、貴女の横に立って私も海を見たくなったのよ。一人で見るより二人で見るものよ、こんな素晴らしい光景は」


 リーズガルデの口から出まかせみたいな理由は、しかし、口に出してしまうと真実めいた響きがあった。何となくだが、海に向き合うマレットが無理しているような気がして、それを止めたかったのである。けれど、いざ横に並んで海を見ると、水の青に自分の心が洗われていく。



 目を閉じた。視覚が無くなった分だけ聴覚、触覚など他の感覚が鋭敏になる。


 耳が拾うのは、寄せては返す波の音。不規則な潮風がそろそろ暑くなり始めた空気を掻き回す音。自分達の頭上で、海鳥のケェーと高く鳴いた声。


 (水ってこんなに気持ちいいのね)


 くるぶし辺りを満たす海水は冷たく、リーズガルデの裸足の足の指を包むように流れてゆく。引き潮がさらった白い細かい砂がさらさらと、彼女の足の周りから去っていった。



「おーい、そんなところで突っ立ってると」


 ブライアンの声が、背後から聞こえた。はっとしてリーズガルデとマレットが繋いだ手を離しながら振り向くと、二人の頬にキンと音がしそうなくらいに冷えたボトルが当てられた。「「キャッ!?」」という華やかな悲鳴が、波打際に跳ねた。


「陽射しでやられちゃうだろ? 手繋いで海を眺めるのもいいけれど、水分補給の時間だぞ」


「何よー! なんかすっごく贅沢な時間だったのに!」


 ハハハ、と笑いながら、ブライアンが冷えたボトルを女二人に渡す。それを受け取りつつも、リーズガルデが文句を言う。しかし口で言うほどには怒っていないのは、緩んだ口許を見れば明らかだ。


「あれ? だったらそれ返すってことかな。海を見ながら昼間から飲む凍る寸前のエールって、最高だと思うけど?」


 勝利を確信したブライアンの言葉に、リーズガルデは「うぐぐっ、卑怯よ」とちょっと悔しそうである。普段は勝ち気な彼女のその様子がおかしくて、マレットもボトルを片手にくすりと笑う。


 いつの間に自分のボトルを取り出していたのだろうか、ブライアンが軽やかに栓を抜いた。プシュッという爽快な音、弾ける白い泡が夏の空を背景に舞う。その爽快感に背中を押されて、マレットも自分のボトルの栓を抜いた。勿論リーズガルデもだ。



「ま、いろいろあるけれど」


 そこまで言ってブライアンが差し出したボトルに、リーズガルデとマレットが自分達のボトルをぶつける。迷うことない乾杯の合図、カチャンという高い音が三人の耳を刺激する。


「大人の夏休みに乾杯!」


「「かんぱーい!」」


 青い空の下、ブライアンの声に一拍遅れて、二人の歓声が高らかに響いた。この雄大な風景にちっぽけな悩みなんか全部溶かしてしまえと言わんばかりの、底抜けに明るい声であった。

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