マレットの夏休み 1
これはマレットが一年間パドアールに赴任していた時期のお話。
夏もそろそろ後半に差し掛かろうかという時期である。シュレイオーネ王国南方にあるパドアールの街は、一年の中で最も暑い。しばしば言われる冗談に"パドアールでは目玉焼きを作るのに鉄板がいらない。日なたに卵落とせばそれで済む"というものがある。実際そこまで市街の道が熱されるほどではないが、そう思わせるような陽射しのきつさが、確かにこの街にはあった。
「はあ、フレイさんへのお手紙では、海からの風があるからそこまで湿度は高くないとは書いたけれど......」
そろそろ日が傾き始めた午後、マレットは職場の椅子によりかかるようにして、パタパタと扇子で自分を扇いでいた。
パドアール地方会計府に赴任して約八ヶ月、職場にも慣れてきたマレットだが、この日中の狂暴ささえ感じる暑さには参る。確かに朝晩は潮風が強まり、また陽射しも強くないので、王都よりも涼しいかもしれない。だが日中は何故か風が弱くなる。その為、海からの湿気が残り、そこに容赦ない太陽の光が差し込む。
南方ならではの知恵か、建物の通気や日陰の作り方には工夫がされており、そうした暑さを少しでも和らげるようにはしてはいる。それでも尚、この地で始めて夏を経験するマレットには厳しいものがあった。
「王都にいる彼氏さんですか?」
「え、あ、はい。ごめんなさい、勤務時間中に」
マレットのぼやきを鋭く聞きつけたのか、部下の一人が笑いかけてくる。慌てて居住まいを正すマレットだが実のところ、この時間サボっていても問題はない。
パドアールの夏の特徴として、正午から三時までは町はその機能を停止する事が挙げられる。ごく一部の公共機関(警備兵や急病を治癒する治療院などだ)以外は、基本的にお休みだ。暑い時に無理に働いても効率は上がらず、頭に血が上った者同士での喧嘩が勃発しかねないという理由により、この日中お休みタイムが制定された。それが凡そ二十年前のことだ。
従ってこの時間、休むのはむしろ法に則っており、なんら問題は無い。実際マレットが職場を見ても誰も働いていない。
細い木で組んだ日よけ、建物の各所に縦に置かれた筒型の水槽、風の通りを重視した部屋の設計、夏を感じさせる葉の大きい南方の植物......それらに囲まれていると、ここが仮にも地方会計府の職場ということを忘れそうであった。
「むしろ寝ていた方がいいですよ。地味に効いてますから、この暑さ」
ハハ、と笑いながら、その男の部下は手にしていた書物に目を落とした。彼は彼で自分なりに休んでいるようだ。読みたい書物を好きなだけ仕事の合間に読むのも、心の休息になるだろう。
だが、マレットは何もする気が起きなかった。注意力が散漫になっているので、とりあえず仕事は置いておくことにはした。けれども、この休み時間に何をするかも決めていない。庭の日時計を見る、あと一時間以上は休憩時間のようだ。ボーッとするには長い。
(少し夏風邪気味かしら)
額に手を当てる。汗は出ているが、熱は無い。だが妙に鼻がぐずつき、体が重い。休むほどではないものの、少々しんどかった。
「ちょっと薬もらってきます」
「風邪ですか? 無理されないほうがいいですよ」
ふらりと立ち上がったマレットは、部下の声を既に聞いていなかった。一度自覚しただるさと悪寒に侵食された意識は、とにかく薬をもらうことだけに向いていた。
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結局薬をもらい即座に飲んだ後、マレットは仕事に戻った。微妙にしんどい程度の症状では休む気にもなれず、またそこまででもない。(繁忙期でもないし、しっかり休むべき?)と迷わなかった訳では無い。だが、今は三人だけとはいえ部下を持つ身である。自分の承認無しでは仕事が進まないことがあるため、休むのは気が引けた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
夕刻になり、今日の業務が終わる。互いに声をかけ帰り支度をしながら、マレットは自分の体調が気になった。良くも悪くも昼間薬を飲む前と同じだ、やや低調。頭が重いので初期の夏風邪と多分、夏バテかと考えながら、マレットは帰ろうとしていた女性の部下の一人に声をかけた。
「すいません、体調があまり良くないので、明日お休みするかもしれません。急ぎの仕事はないですよね」
部下が相手でも言葉遣いが丁寧なマレットは受けがいい。会計府から出向してきた当初は、怖い人に違いないと敬遠されていたこともあったが、今は適度に打ち解けていた。
「わかりました、お休みされても大丈夫ですよ。明日休まれたら丁度三連休になるし、そうされては? 所長、まだ夏休みとられてませんよね」
「実のところ、もう半分以上休む方に傾いてるのよ」
女同士の気安さもあり、少し砕けた口調でマレットは答えた。仕事はめりはりが大事だという考えと妙なだるさが休め休めと自分を誘惑してくるのを感じ、しかもそれに屈しそうだった。
一夜が明けた。夜中になると日中の暴力的な陽射しが去り、むしろ海からの風が暑さを払ってくれる。おかげで寝苦しいということもなかった。体調がイマイチのマレットには、何より有り難い。
「ん......朝?」
いつもと同じ時間に目覚めた。パドアールで借りている部屋は王都で借りている部屋より広い。おまけに公費で家賃が払われており、実質無料といいことずくめだが、やはり自分好みとはいかず未だにしっくりこない。
(多分、慣れた頃に帰ることになるのよね)
赴任が終わるまで残り約四ヶ月、多分そうなるだろう。
起きてすぐはボーッとして動けないことに驚く。体調は悪くはない、寝たのが効いたのか寝る前に飲んだ薬が効いたのか分からないが、ほんの少しだるい程度である。働くには支障がなさそうではあった。
だが、どうにも倦怠感がある。夏バテもあるのかなと考え、マレットは数秒だけ躊躇ったが、すぐに今日は休むと決めた。慣れないパドアールでの生活で、心に垢が積もったのであろう、少し休息が必要と判断したのだ。
(決めた、今日は休みます)
仕事に熱心ではあるが、仕事人間ではないマレットだ、休むと決めたら行動は早かった。水だけ飲み、事前に近くの井戸から貯め起きしておいた水で顔を洗い、手早く麻の短衣に着替えた。今日も酷暑と予想されるので、短衣には袖はなく、下も膝丈のハーフパンツという軽快な服装である。
"すいません、今日お休みします"と簡単に書いたメモを、パドアールの街を巡回する手紙の配達員に渡す。街内ならどこでも2グランの手軽な連絡手段である。
(こんな簡単にお休み出来てしまうのも、今のうちだけだし)
休むと覚悟を決めると、マレットの行動は早かった。まずは体調を戻そうと薬を飲むと、さっさとベッドに戻り、シーツを被る。(ごめんね、フレイさん。今日だけは自分を甘やかします)と心の中で呟く。徐々に強くなる夏の光をカーテンの向こうに感じながら、ささやかな朝寝の贅沢を堪能することにした。
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コンコン
コンコン
(......ん)
コンコン
「すいません、マレットさんいらっしゃる?」
重い瞼をマレットは押し上げた。耳に届くのは、ドアの向こうから聞こえてくる控えめな女性の声だ。
何だか聞き覚えがあるのは――気のせいだろうか?
「なあ、リーズ、出直そうよ。多分、夏風邪で体調を崩してるんだ。寝てるかもしれないし」
今度は男の声がする。カーテンを通しても、すっかり明るくなっている事に気がつく。部屋の温度もじわりと上がっており、寝汗をかいた肌に服が張り付いていた。着替えたいなと思うが、今はそれは二の次だ。
(この声、もしかして)
マレットは、男の声にも聞き覚えがある気がした。記憶の底を無意識に探る。
「でも、いつ会えるか分からないじゃない。もう少し粘ってみましょうよ」
「仕方ないな。言い出したら聞かないんだから」
女の言い分を、男はため息と共に聞いたようだ。また軽くコンコンと自分の部屋のドアがノックされる。そのノックの音に、これは幻聴では無いらしいと考えた。息を呑んだ。まさか、という思いといや、ありえなくはないという思いが交錯する。
手早く手もとにあったタオルで汗を拭う、ほんとは見苦しくない服に着替えたいが、今は突然の訪問者に自分が部屋にいることを伝えるのが先だ。
「すいません、今開けます!」
思わず声が大きくなった。二人を驚かさないように、ゆっくりと鍵を外し、ドアを開けた。
マレットは、すっとドアの隙間から顔を出した。自分の長い鳶色の髪が、部屋に吹き込もうとする夏の風に揺らされる。頬にかかる髪を抑えながら、髪と同色の目は訪問者に釘付けになった。
「ごめんなさい、起こしちゃった?」
訪問者の一人が、フワリと笑みを浮かべマレットに向き合う。見事な赤毛が夏の陽射しに輝く。強気そうなやや釣り目がった緑の瞳が、マレットの顔を捉えた。
「お前別に悪いと思ってないだろ......お久しぶりです、マレットさん。突然の訪問すみません」
その背後に立つ長身の男が、済まなそうに頭を下げた。蜂蜜色の柔らかそうな髪が下を向く。
「すいません、こんな格好で。あの、お久しぶりです、ブライアン・ハイベルク伯爵、リーズガルデ夫人」
恐縮しながら挨拶をするマレット。しかし、それも無理はない。目の前に立つのは、遠く王都にいるはずの二人であり、自分が交際している男の後見人なのだから。
そんなマレットの様子に、ブライアンとリーズガルデの二人は、お互い顔を合わせてにっこりした。マレットがその様子に首を傾げると「お体、そんなに悪くなさそうですね」とブライアンに言われ、反射的に「はい。たいしたことなくなんとか」と答え、その後で、本当に体が軽くなっていることに気がつく。
(汗をかいたのがよかったのかしら)と思ったが、それはそれで目の前の二人に失礼だと思い直し、恥ずかしくなる。
「えーと、寝てたのよね? とりあえず私達そこで待っているので」
そんなマレットの様子に気づいたのか、リーズガルデはこの建物の廊下(この部屋は二階にある)の外、表通りを挟んだ一軒の茶店を指差した。
「適当に準備出来たら来てね。じゃまた後で」
そう言い残し、リーズガルデは颯爽と背を向けた。マレットが反対するわけないと確信している自信溢れる足取りで。
「我が妻ながら強引だな、まあいつものことだけど。後付けで申し訳ないですが、お体に差し障りがなければいかがですか? こちらに伺った理由はその時お話します」
呆れたように苦笑するブライアンだが、彼は彼で(マレットが茶店に来なければ話せませんよ)と暗に言っているのだ。紳士的だが、本質的な強引さはあまり変わらない。
ただ、マレットは最初から断るつもりは毛頭なかった。久しぶりの知人、それも彼女からすると、かなり重要な立場にある知人が訪ねてきたのだ。重病ならともかくほぼ回復している今、会わない理由はない。
「ありがとうございます。15分後に伺いますから」
そうブライアンに言って、マレットは静かにドアを閉めた。
汗を拭き、こざっぱりとした夏服に着替えた後、マレットがブライアンとリーズガルデが待つ茶店に入ったのは、それからきっかり15分後だった。化粧は軽く唇に紅をさしたのみだ。
「お待たせしました」
「ごめんなさいね、急に訪ねてきたから驚いたでしょ?」
向かいに座るマレットにリーズガルデが済まなそうに、しかし、それ以上に面白そうに話しかけた。給仕が差し出したメニューを受け取りながら、マレットは曖昧に笑う。
そんな彼女と妻を等分に見ながら、ブライアンが話し始める。今年の夏の休暇を利用してどこかへ訪ねようとしたが、適当な場所が思いつかなかったのである。その時、ふとマレットが赴任しているパドアールはどうかという考えが浮かんだ。連絡無しにいきなり訪ねて驚かそうと思い、パドアール地方会計府を午前中に訪ねたら体調がもう一つらしく、今日は休みらしいと聞いた次第である。
「僕達も病人の部屋をいきなり訪ねるのはどうかと迷ったんだが、まあ、パドアールまで来て貴女の顔も見ないのも、ちょっと面白くないし」
そこまで言ってから、ブライアンはわざと深刻な顔をした。演技と分かる大袈裟な態度で。偶然だろうがグラスの中の氷がカリンと音を立て、僅かな沈黙を引き立てる。
「フレイにどやされるからね。あいつ、"俺が会いに行けない代わりに、マレットさんが元気かどうか見てきて"って言ってましたから」
「フレイさんらしいですね」
運ばれてきた飲み物に手をつけながら、マレットは微笑んだ。今は、彼は私塾で会計士試験目指して勉強中である。休暇くらい取りたいだろうが、試験合格の為にそれを諦めている。普通なら多少腐っても仕方ないところだが、遠方で働く恋人を気遣うあたりが優しい。
「会計府の方に聞いたら、昨日の時点では夏風邪気味と言っていたの。お会いするくらいは大丈夫かなと思い、いきなり参上したってわけ」
軽い口調で言いながら、リーズガルデはマレットを見た。最後に会った時からさほど変わっていない。ほんの少し夏バテ気味なのか痩せたようにも見えるが、概ね元気そうだ。
(あーよかった......もしマレットさんが憔悴していたら、私どうすればいいか分からなかったわ)
正直にフレイに話せば、あの年下の従兄弟は狼狽するだろう。かといって黙っていれば、それはそれでリーズガルデが気分が悪い。そういう意味でも、ほんとにマレットが元気で安心したのである。
リーズガルデがそんなことを考えている間に、ブライアンはマレットに更に話しかけていた。内容は王都からパドアールまでの道のりの間、二人が考えていた今回の夏の旅行の計画についてだ。
「単刀直入に言いますが、もしご予定が無いなら、この週末私達とご一緒しませんか? パドアールには今日を含めて八日間いる予定なんですけれど、最初の三日間、つまり今日から明後日まではコテージを借りて過ごす予定なんです。よろしければ、そちらでのんびりされては」
「え、素敵ですね。体調も悪くないし、コテージ泊とか興味あるので伺いたい気持ちはあるんですが」
いきなりの話でもあり、マレットは戸惑った。確かに海沿いの街パドアールには観光客向けのコテージが並んでいる。岩場が複雑に組合わさった湾には強い波も打ち寄せず、その穏やかな浜辺に建つコテージを貸し別荘のように借りて休暇を楽しむのは、庶民の憧れだ。
ただいきなりの話でもあり、マレットも即答しかねた。その様子を見てとって、ブライアンは説明を補足する。
「今回の休暇には、召し使いを二人連れてきています。荷物運びから家事まで一切彼等に任せられるので、コテージではほんとにのんびりしていただいて構いません。勿論、費用は全てこちらで負担しますよ」
ブライアンの言葉に、横に座るリーズガルデも頷いた。赤毛を夏の陽射しに透かしながら、伯爵夫人は召し使い二人は先にコテージの方へ行き、清掃などをしているとマレットに話す。その目は穏やかであり、流石に更にサプライズがあるようにはマレットには思えなかった。
(どうしようかな、せっかくだし、ご好意に甘えちゃいましょうか)
マレットも機会があればコテージ泊などしてみたいが、パドアールでは一人なのでその機会も無い。本当はフレイがいれば一番良いが、それはまた今度の機会としてとっておけばいいだろう。
「その、日中何をされて過ごされるんですか?」
「人数が少ないから舟遊び、海岸沿いを馬で遠駆け、薬草によるお肌の手入れ、これは女性陣だけの楽しみになるけど、それに果実もぎなどね。夜は同じようにコテージ泊の貴族とパーティーだけど、堅苦しいと心配されるなら出なくても大丈夫」
「楽しそうですね」
リーズガルデに答えながら、マレットは乗り気になっていた。今日を含めて三連休だが、どこも出かける予定がない暇人なのだ。夫婦水いらずを邪魔することに気が引けないわけではない。しかし、暇な休日を面白いものに変えてくれそうな可能性の魅力は、それを遥かに上回る。
ただ今すぐとすると、旅行の準備も何もしていない。それだけが心配だ。それに、やはり夏風邪がぶりかえさないかが心配ではある。
マレットがそれを伝えると、ブライアンとリーズガルデは一つ提案してきた。どのみちコテージに急いで行く必要はなく、また総務府勤務のブライアンはパドアールの役人に挨拶回りを行う必要もある。夕方前にパドアールの市街地を出て海辺へ向かう予定なので、マレットにはちょうどいいだろうとのことだった。
「それではせっかくですので、ご一緒させてください。夕刻まで荷物を整えたりしています」
「じゃ、そうしましょ。風邪以上に色々お疲れみたいだから、明日と明後日は無理せず養生するくらいの気持ちでいればいいから」
「マレットさんのご期待に沿えるコテージならいいけどね」
マレットの応諾に、満足そうに頷くリーズガルデ、そして肩をすくめるブライアン。南方パドアールにて、大人の夏休みが幕を開けた瞬間だった。




