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執事は花の香の夢を見る 4

 (半ば予想はしていたが、直に見てしまうとショックだな)


 ロクフォートが去った墓地に、一人佇む少女の姿。女にしては長身のその姿を立ち木の一本にもたれさせ、コツン、と足元の小石を蹴飛ばす。


 ナターシャ・ランドローである。外套の襟を寄せ、墓地に漂うもやの冷たさを振り払う。好奇心に負けて後をつけてみたが、今はじんわりと後悔が胸を支配する。




 黒衣の執事が墓に向かって語りかけていた言葉の一つ一つ、それらを脳内に甦らせる。そこにあるのは、墓の主たる亡妻への誠実な思い。


 ナターシャにはそれが色褪せない感情なのか、それとも時間の経過によって変質したものなのかが分からない。


 だが少なくとも、声の響きに含まれている優しさは紛れもなく本物だ。恋愛経験に乏しい彼女でも、それくらいは分かる。






 ロクフォートが立ち去った後、ナターシャは墓に近づき手を合わせた。そして、何か数字が墓に刻まれているのを発見した。恐らくキャシーと呼ばれていた故人の享年だろう。素早く読み取る。


 (今から五年前、か)


 胸が痛んだ。


 何が死因なのかは分からないが、恐らく若くしてこの世を去らざるを得なかったキャシーにか。


 亡くなった妻を未だ忘れられず、一人語りかけるロクフォートにか。


 それとも、そんな相手に仄かに想いを寄せる自分にか。


 そのどれもが正しく、どれも正しいことでは無いように思える。





 (......私に出来ることはなんだ?)


 頭を悩ませながら、ナターシャは墓地を後にした。

 

 ロクフォートの心の最も繊細で私情の絡む部分に触れたのだ。流石にこのまま知らぬ顔をするのはいかがなものかと――そう思わなくもない。


 失礼なことをした自覚はある。墓の中で眠る亡妻に申し訳ないという気持ちもあった。


 だがそれを踏まえて尚、ナターシャは考えざるを得ない。それは、墓石に向かったロクフォートの硬い石のような顔をどうにか和らげられないか、ということだった。





 (お節介でもいい。だが死者に一人で向き合う時間が長いと......取り込まれる)


 その懸念があった。これは比喩ではない、墓地には亡くなった人の魂が漂うのだ。勿論生者に害を及ぼそうという悪意のある魂は少数だが、そういう魂に出会わなくても、ふとした瞬間に墓地は霊的波長が強まる場所である。心が弱い時に踏み込むと、生者には悪い影響が出やすい。


 それが致命的なものになることは滅多にないにせよ、長期間魂の干渉を受けた場合、体のどこかに不調が出たり寿命が削られることがある。


 (死者の魂というのは寂しがりだからな。同じように一人で来る生者につきまといたがる)


 ナターシャのように気力、魔力が高く、しかも死者の魂の干渉を妨げる精神的な防護壁を張っている者は問題ない。だが、一般人のロクフォートが墓参りの頻度にもよるが、いつも一人で来ているとしたら、しかもあの周囲を拒絶するような目をしているならば、悪影響は免れないのではないか。





 冬なのだ。


 恐らくロクフォートがキャシーを亡くしてから――死因は分からないが――彼の心の片隅は、ずっと冬の寒さを抱えたまま、その季節を変えてはいない。




 (亡くなった奥様への思いを抱き続けるのは大切なことではあるが、それだけではいけないというところか)


 彼の邪魔にならない範囲で出来る手は、幸いにも幾つか思いつく。灰色のもやを抜けて石畳を行くナターシャの目には、哀悼の意と共に理知の光が浮かんでいた。




******




 季節はゆっくりとその顔を変える。


 まだそこまで寒気が厳しくなかった年明けの時期を冬の入口というならば、一ヶ月経過した今はちょうど冬の真っ只中だ。数日毎に雪が降り、王都を縦横に巡る水路も凍結する季節である。この季節は、除雪に従事する臨時の労働者が地方から出稼ぎに来る為に意外と賑わう。


 そしてその賑わいはハイベルク伯爵家の執事であるロクフォートにとっても例外ではない。彼は庭及び屋敷近辺の除雪並びに凍結箇所の清掃の指揮をとっており、臨時に雇った出稼ぎ労働者達に指示を与えていた。


 ちなみに一定以上の家格がある貴族は自分達の屋敷だけではなくその近辺の街並みや道路の除雪も行うべし、という不文律がある。これは"持てる者がその持てる力の一部を民衆に返すべし"という原則が、シュレイオーネ王国に根付いている為だ。


 要は一種の奉仕活動なのだが、平民達の中には普段身近で会う機会が無い貴族と接する機会として、密かに心待ちにしている者もいるらしい。




 そんな背景はどうでもいいとばかりに、ロクフォートは目の前の雪と氷が作り出した風景を片付けるべく、頭を忙しく働かせていた。三人雇った労働者と屋敷の使用人だけで、昼までに作業が終わるかどうかというのが思案のしどころである。


「ロクフォートさん、あっちの壁の辺り終わりました!」


「お疲れ様、一休みしたら裏手の日陰の辺りを頼みます。あそこは雪が固いので、私も手伝いましょう」


 報告する馬番の少年に声をかけながら、ロクフォートは外套を脱いだ。作業全体を見通さなくてはならない立場にあるので自ら体を動かすのはあまりしないが、どうしてもという場合もある。執事というのは頭と体両方必要だということだ。それは見習いの頃、先輩執事に最初に教えられたことだった。


 プレッシャーと思うこともある。


 やりがいと思うこともある。


 だが一つ確実なのは、キャシーが死んでからの日々にもし自分が仕事をしていなければ、間違いなく腐り果てていただろうということだった。

 心身喪失状態になりかけていた。そんな自分に叱咤激励してくれたブライアンの父、つまり先代のハイベルク伯爵の厳しくも優しい対応により救われた。


 だからロクフォートは、今もハイベルク家で働いている。時折引き抜きの声がかかるが、それらは全てお断りして。


 ずっとブライアンとリーズガルデに仕えているかどうかは分からないが、少なくとも納得いくまでハイベルク家の執事として従事していたいというのが、ロクフォート・リザラズの本心であった。




 除雪作業が終わったその日の夜、メイドの一人から手紙を渡された。


「ソフィー様が日中立ち寄られて預けていかれました」という言葉に、ロクフォートは少し驚いた。遊びに来るのではなく、ただ屋敷に寄ってこの手紙を渡したというだけというのは珍しい。


 (まあソフィー様も忙しいようだし)


 確か年明けから、アンクレス商会と提携のある商会で見習いとして働き始めたと聞いている。ずっと責任のない少女のままではないのだな、とつい子供を見守る親の視線で、ロクフォートは考えた。


 その内、ソフィーにきちんと礼を言わなくてはならないだろう。

そう考えながらも、まずは眼前の手紙からだ。


 いつもと同じ薄紫の封筒だ。そういえば年明けにキャシーの墓参りをした時に直接会ってから初めての手紙だな、と気づく。


 ちょっと間があいたのは何故か。やはり墓参りの為に文通相手の店で花を購入するという行為に引いたのかもしれない。


 あの時、墓参りの為とは言わなかった。けれどもウィンターリリーを抜きとった時のナターシャの表情から判断すると、恐らく何の為かというのは分かっているだろう。


 自惚れと言われればそれまでだが、多少ナターシャが自分に気があるのかもしれないという想定はしている。ああいう年齢の少女というのは年上の男性に憧れることがある、というのは結婚していた時にキャシーが教えてくれたこともある。同じ事を仲のいいメイドが茶飲み話の際に笑って話してくれたこともある。故に知識としては知っていた。


 (女の子の考えることなど、分からないですけどね)


 二度しか会っていないナターシャの顔を思い出す。大人っぽい顔立ちではあるが、多分20歳にはなっていない。


 一回りほど違うのではないか、とロクフォートは考えた。


 むげに断るのもと思って文通には応じながら、そのうち相手が飽きて止めるだろう、とたかをくくっていた部分も確かにある。


 それを考えると、墓参りというどうにもテンションの下がる行動を見た後に、少々間が空いたとはいえまた手紙をくれたのは少し意外であった。





 左手に封筒、右手にペーパーナイフ。机にはオイルで点灯するランプ。揺らめく炎が封筒を照らし出す。封を一気に切り裂き、中身を取り出す。


 (変わらず端正な文字ですね、あの子は)


 一か月半ぶりくらいかな、と思いながら、ロクフォートはナターシャからの手紙を読み始めた。


 真冬である、きちんと雨戸を閉じてでさえ、外気が忍び込んでくる。油断すれば肌寒く、毛布を肩からひっかぶってそれを防ぐ。寝酒として持ち込んだホットワインのグラスの赤を炎に透かしながらちびちびとやると、喉の奥がほのかに温まった。


 "拝啓 ロクフォート 様


 厳寒のこの時期、お風邪などひいていらっしゃらないでしょうか。少し間が空いてしまいました、すみません。


 この間はうちの店を利用していただき、ありがとうございました。突然のご訪問でしたので、おかしなことを口走ってしまったのではないか、と戦々恐々三々五々弱肉強食しております。

 あれ、なんか間違っているような気がしますね......焦って書いているので多分どこか間違っているのだと思いますが、どこか分からないのでこのまま送ります。お見苦しいところがあれば申し訳ありません。


 えぇと、あの時ご購入していただいたウィンターリリーですが、恐らくロクフォート様が大事な方にプレゼントされる為に買われたのだろうなと思います。一応花屋の端くれなので、それくらいは承知しております。


 ただ口はばったいことを申し上げるようなのですが、白ばかりだと冬の季節には特に彩りが欠けてしまいます。お節介は承知の上で、私の方から少しそれを補う花を選ばせていただきました。


 うちの店からのプレゼントとお考えいただければ、大変ありがたいです。お代は結構ですので、どうかご自身の目でお確かめください。


 この季節はお墓も雪と氷に包まれて大変です。その為、私の方でお手伝いさせていただきました。それでは。


 敬具


 ナターシャ・ランドロー"


 読み終わってから、ロクフォートは髪をかきあげながら低く呻いた。その顔に浮かぶのは若干の羞恥心と戸惑い。


 あの時選んだウィンターリリー、その"死者に捧げる愛"の花言葉から、墓参りの為に購入したというのが分かるのは、想定の範囲内だった。

 だが手紙の文面からはそれだけではなく、向こうがこちらを気遣っている点、そして最後の一文からは、どうもキャシーの墓を知っているらしいということが分かる。


 それをどう捉えるべきか。マナー違反だと怒ることも出来る。いらぬお世話だと言うことも出来る。


 だが、自分がそう考えるのを承知で、あの栗色のポニーテールの少女はこの件にわざわざ手紙で触れている。そして彼女が何かお手伝いをしてくれたらしいと思うと、数秒で心の中に沸いた反感は消えた。


 寒い季節だ。特に人気のない墓地は王都の中心から離れた城壁周辺ということもあり、雪も積もりやすい。


 そんなところにわざわざ足を運んでくれたのかも、と思うと、戸惑う気持ちを超えるだけの不思議な気持ちが胸のうちに満ちてくる。しみじみとロクフォートはそれを噛み締めた。


 ――キャシーが亡くなってから、そろそろ5年になる。両親もすでに亡くなっていた彼女の墓を見舞うのは、自分一人しかいなかった。


 一時のきまぐれかもしれないが、この厳冬の時期にまるで縁もゆかりもない人間の墓に関心を寄せてくれたというならば、それを確認するのは義務だろう。


「何をお手伝いしてくれたのか、楽しみにしています」


 便箋を封筒に押し込みながら、執事は一言呟いた。明りを消した部屋で毛布をかぶる。そっと目を閉じると、白い雪の中に埋もれた黒い墓石が幻影のように浮かび、そして消えた。




******




 石畳から主な雪や氷が除去され、それなりに快適に歩けるようになったのを喜ばしく思う。それは王都の住人ならば、誰もが同じだろう。馬車の御者でさえそれは例外では無い。馬によっては蹄が濡れるのを嫌う神経質な馬もいる為だ。


 コトコトと軽い音を立てながら、とある一台の乗り合い馬車が遅めの速度で走る。この馬車の御者は、長年王都で馬車業を営んできた。数日前のような積雪があると商売あがったりなので、迅速に道が綺麗になるとありがたい。


 (しかしそいでも、この冬の時期に墓地にねえ......)


 真冬の午後である。厚い灰色の雲を通した弱い日差しに照らし出され、墓地はどこか薄暗い。自分の家や道は雪かきしても、わざわざ墓地まで綺麗にしようというお人よしは流石にいない。


 そして彼が今乗せている客のように、この時期に墓参りに訪れようという者も滅多にいない。


「そろそろ着きますよ、旦那」


「ああ。ありがとう」


 深い緑の長髪を括った男は、御者の声に答えながら懐から取り出した5グランを御者に渡した。馬がゆっくりと止まるのに合わせて馬車を降り、午後の弱い日差しの中を墓地の方へと歩いてゆく。その男の姿を、御者はふむ、と唸りながら見送る。


「よっぽど大事な人が眠っておるんじゃろうかの。若いのに感心じゃわい」


 まだ日は高い。客を捕まえるのはこれからが本番だと気合いを入れて、御者は馬に軽く鞭をくれた。








 寒いな、とロクフォートは肩をすぼめた。午後が休みなので、それを利用してのキャシーの墓参りだ。数日前のナターシャからの手紙が気になったので来てみたのだが、普段はこの季節は寒いしうら寂しいで、ほとんど来たことが無かった。


 一年の中でも、最も雪が積もり寒気が厳しい時期である。まれに墓地の管理人がお湯を撒いたりしているが、散発的なためあまり効果もなく、ここだけは小規模な雪原と化していた。完全な雪原と違うのは、かろうじて残る一本の細い道のみ。


 (うーん、やはり時期が悪かったでしょうか。手紙にはああ書いてありましたが、この寒い時期にわざわざ来る人など限られるし)


 白くなった枝をくぐり足元に気をつけながら、ロクフォートは進む。義務感とある種の好奇心に動かされて来てはみたが、流石にこれだけ足元が悪いとウンザリだ。もう少し日が経過してからでもと思ったがその反面、時間が経過したらしたでナターシャの手紙の印象が薄くなり、結局行かないかもしれないと考える。


 だらだらするのは良くない。


 決めたら進まなくてはならない。


 ......こんなことすら放棄したなら、本当に自分はキャシーの死からますます進めなくなるだろうと自嘲しつつ、執事は白く染まった地面を踏み締めた。




 薄明かりのような日差し。


 雪の白、氷の透明度の高い薄いブルー、ところどころ覗く地面の茶色。


 あちこちに見える墓石のアイボリーや黒やグレー。


 色彩鮮やかとはとても言えない景色の中を、これまた黒い外套を着込んだ長身の男が一人進む。


 (キャシーは亡くなってから、ずっとこんな冬を過ごしてきたのか)


 ロクフォートの胸にズキンと走る感情。死者だから仕方ないと言うのは簡単だが、それでもあまりにこの単調な寒々しい景色の中にいるのはかわいそうだな、と思った。


 滑りそうになる。慌ててバランスを取り戻しながら、今度は目の前の雪壁を蹴り崩し道を作る。


 進むだけでも一苦労であった。



 曲がり角を一つ曲がる。もうすぐキャシーの墓石だ。きっと雪に埋もれているだろうな、と予想しながら、ロクフォートは軽く息を切らしながら前を向く。



「あれは? キャシーの墓石か?」


 目を見張った。雪とその中に含まれている土埃にまみれているだろうと思っていた。しかし黒大理石の墓石はその予想を裏切り、キラキラと輝いている。誰かが入念に手入れしてくれたのは明白だ。


 しかも墓までの小路と墓石の周辺の雪は除雪され、歩きやすくなっていた。溶けた雪が黒く水溜まりを作っていたが、ブーツに跳ねるだけで何ほどのこともない。


 そして何より、墓石の前に置かれた花束がモノトーンの風景の中で一際目立つ。ウィンターリリーの白は勿論だが、むしろそれを背景にクリスタルダリアのサファイアブルーやダリアの赤が、鮮やかに存在感を放っていた。


 白、青、赤のトリコロール。それは清潔さと華やかさを両立させて、雪景色に負けない生命力を感じさせる。この寒気がいい方に作用したのか、花束には痛みは殆ど無い。


 誰がこんな粋な演出をしてくれたのか。考えられる人物はただ一人。


「ナターシャさん――貴女、わざわざこんなところまで来て......私の代わりに?」



 ロクフォートの脳裏に、ナターシャの顔が甦る。あの子がわざわざしてくれたのかと驚きながら、彼は引き寄せられるように亡き妻の墓石の前に立った。ちょうどその時雲が割れ、そこから伸びた陽の光が辺りをふわりと照らし出す。


 黒大理石の墓石がキラキラと輝く。白い雪景色と前に置かれた三色の花束を、従者のように誇り高く従えて。


 ロクフォートの心の中で、何かがすっと溶けたような感覚があった。その長い手を伸ばし、キャシー・リザラズの文字を撫でる。光の中、何度も。何度も。


 言葉は無かった。ただ無言の動作と静かな感慨だけが、冬の墓地を訪れた男の全てだった。

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