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執事は花の香の夢を見る 3

 手紙のやりとりはそのあとも続いた。


 ナターシャが頭を捻りながら手紙を書き、ソフィーに託す。ソフィーはそれをハイベルク家に遊びに行く時に、ロクフォートに届ける。


 受け取った後、ロクフォートは日常のささやかなスパイスとしてそれを読む。そして返信をしたため、ソフィーに預ける。この繰り返しだ。


 ナターシャも書くネタが乏しくなってくると、日常のささやかな失敗――例えばそれは手を滑らせて皿を割ったとか、客に渡す釣りを間違え謝りに行ったとかだ――を手紙に書いたりもする。


 それを読んで小さく笑いながら、ロクフォートは当たり障りの無い範囲で、屋敷で自分がどんなことをしているのかを手紙の内容にして返す。


 手紙が往復する回数が一回、二回と重なっていき、いつしかそれは循環する日常の一部として、二人の生活に組み込まれていった。




******



 チュンチュンという小鳥のさえずりが、どこからか聞こえる。


 冷たく澄んだ空気を吸いながら、黒い外套を着込んだ長身の男は石畳の道を歩いてゆく。


 けして速い歩みではない。にもかかわらず足が長いためか、気がつけば結構な距離を進んでいる。その格好も相まって、影がひそやかに移動しているような印象を与える。




 (だいぶ間隔が空いてしまったな)


 男、ロクフォートは建物の陰から日なたへ移動しながら、小さくため息をついた。なるべくまめに来ようと思ってはいるのだが、度々機会を逃していたのだ。そんな自分に一瞬苛立つも、心のさざ波はすぐに収まる。



 けして相手は逃げないのだから。


 ずっとあそこに眠っているのだから。



 だから、穏やかならざる精神であそこに向かうのは止めようと――そう思った。


 今は冬だ。雪こそ降らないが気温は日増しに下がり、朝起きれば庭の草木に霜が張り透明な輝きを放つこともある。最近会計士試験の講座に本格的に通い始めたフレイなどは「王都も結構寒いんだなあ。うちの田舎ほどじゃないけどさ」などと言っている。その度にリーズガルデに「あんた暑いのも嫌、寒いのも嫌って言ってたら、生きていけないわよ?」と飽きれられているのだが。



 (そういえば、マレット様は今頃パドアールですか。あそこは暖かいらしいですが、お一人で働くのはしんどそうだ)


 聡明そうな顔立ちをしたフレイの恋人の顔を、ロクフォートは思い出した。今年で25歳になるという。そろそろ結婚が気になる年齢だろうにといらぬ気を回すも、我が身を思って一瞬だけ目を閉じた。



 ――伴侶とは縁もゆかりもない人生と、若い内に伴侶と死別する人生とどちらが幸せだろうか――



 答えなど出るはずもない自問は硬く冷えた石畳に跳ね返り、冬の空に消えた。







 持参する花は、あの花屋で買おうと決めていた。手紙のやり取りのこともあるし、行く先の途中にあるので便利であるからだ。


 ソフィーが持参する為、手紙の表に宛先が書いてあるわけではない。だが店の広告も兼ねているからか、店の住所は手紙の端に記入してある。だから迷いはしなかった。


 (ここかな)


 はた、とロクフォートは足を止め、一軒の花屋を覗いた。大きくは無いが清潔に保たれた店だった。その店先には、冬に強い白薔薇やウィンターリリーなどが展示され、仄かな香りを放っている。


 その店の看板に"ランドローの花とハーブの店"と書いてあるのを確認して、執事はその長身を少し屈めるようにして店に入った。途端に鼻腔をくすぐる香気が強くなる。それもそのはず、花のみならず薬用のハーブも扱っている為に、独特の爽やかさと苦みが混じった香りが空中に溶けこんでいるのだ。特に風邪が流行る冬場には、このハーブの占有面積が売り場で存在感を増す。




「いらっしゃいませっ、え、え?」


「お久しぶり、というべきですかね、お嬢さん」


 そんな花とハーブの香りに包まれた店内で声をかけあったのは、一人で店番をしていたナターシャと、天井から釣り下げられている装飾用の花輪をよけるロクフォートの二人であった。




 (な、何故ここにっ!)


 いきなりの想い人の訪問に、ナターシャの目が見開かれる。ここに母親がいなくてよかったと心底思う。とにかく落ち着けと自分に言い聞かせる。


 (初対面ではない、何回か手紙のやりとりもしている、相手は人だ恐れるな!)


 一瞬でこれだけを念じ心を落ち着けられたのは、相手からの手紙に、店を訪問するかもという意志が記されていた為だ。そのお陰で、うっすらと心の下準備が出来ていたのだろう。


「いらっしゃいませ、ロクフォート様。いつもお手紙ありがとうございます」


 持ち直してニコリと微笑み、軽く礼をする。内心ヒヤヒヤはしているが、外見上はとりあえず普通に保っているあたりは進歩と言うべきだろう。


「ああ、いえこちらこそ。あの手紙のおかげで、日々の無聊がなぐさめられています。ありがとうございます」


 長身を折るようにして、執事はお辞儀をした。右手が体の前に回り、左手はぴんと指先まで足に沿った美しい仕草に、ナターシャは目を奪われる。


「そそそそんなことないですよ! 駄文散文塩分カナブン失礼しました!」



 あがった。


 ものの見事にあがった。


 所詮落ち着いたといっても付け焼き刃、憧れの対象の男性が目の前でものの見事な大人の挨拶をしたことが、彼女の言語能力を崩壊させた。



「は......カナブンは夏の昆虫ですが?」


「いえっ、うちは花屋なんで虫について、たまに冬でも店の中にいるんですよ! 南からわざわざ取り寄せた花にくっついてくるんです、嘘じゃありません!」


 怪訝な顔のロクフォートに、ナターシャは言わずもがなのことまで言ってしまう。立ち直りが早いのはいい。だが落ち着きまでは回復していないため、言っていることが怪しい。その失策に気がついたのは、発言の後だった。


 (し、しまったああ~!)


 (南方でも冬にカナブンはいないと思いますが......まあいいか)


 両者お互いの思いを知る術もなく、その視線を交差させる。先に動いたのはロクフォートだった。



「花を見繕っていただけませんか」


「え、あ、はい。どのようなことに? 贈答用ですか、それともお屋敷に飾られますか?」


 自分の得意分野の話になったので、ナターシャも落ち着いて対応する。よかった、と内心で胸を撫で下ろしながらロクフォートを見ると、相手の黒い目が一つの花を見つめていることに気がついた。




「あれを中心にしてもらえますか」


 心なしか湿り気を帯びた相手の声、それがナターシャの耳に優しく届く。

 だが同時に、ナターシャはその優しさが自分に向けられたものではないことにも、気がついていた。


 視線の先に揺れる白い凜とした花弁。キリリとした気品が特徴のウィンターリリー。シュレイオーネ王国での花言葉は......




 "死者に捧げる愛"




 執事と花屋の間に、そろりと沈黙が舞い下りた。




******



「ありがとうございました」


 結局、ナターシャはウィンターリリーに変異種の青いかすみ草を合わせた花束をアレンジした。

 それを受け取り、ロクフォートは丁寧に礼を言い、微かに笑顔を向けてはくれた。だが、それだけであった。


 それ以上の会話はなく。


 また店に来るかどうかということさえも、一言も交わさないままだった。


 ロクフォートはその黒い外套を翻して店の扉を潜り、ナターシャは一人取り残された。



 (あの花束......墓参り用か)


 職業柄、このケースにはこういう花束というパターンを、ナターシャは知っている。最初こそナターシャに任せようとしたものの、ウィンターリリーを見つけてからはそれを積極的に自分で選んだことから考えて、ロクフォートはあの白い百合の花言葉を知っている。



「ただいまー、あら、ナターシャ、どうしたの、ぼーっとして?」


「母さん、ごめんちょっと出る」


 はっとした。店の扉が開き、外出から戻った母親の顔が覗いているのに気がつくと、ナターシャはいてもたってもいられなかった。


 ロクフォートが出ていってから、まだ時間は経っていない。概算で数分というところか。それに彼の行き先は分かっている。


 パッと店員用のエプロンを脱ぎ捨て、外套を羽織る。驚く母親を尻目にナターシャは駆け出した。


「遅くはならない!」


 何か言いかけた母にそれだけ言い残し、大通りへと飛び出す。彼女の目は真剣そのものだった。






 中心に王や王族が住まう王城、その周囲に政治に直結する各府の建物が王都には配置されている。そこから外へ広がるにつれ、住まいが徐々にランクダウンする。多少のずれはあっても、この基本は変わらない。


 そして生者ではなく死者の住まいである墓地は、この同心円の最も外側、つまり城壁に接するように存在していた。昨年ナターシャが冒険者ギルドからの依頼でグールを始末した共同墓地は、この墓地の片隅にある。


 永遠の眠りについた死者の生前の地位や墓の大きさにより、大まかに墓地のどのあたりに墓が置かれるかは決まっている。その事前知識があるので、ナターシャもロクフォートが墓地のどの辺りに行くのかは推測がついていた。



 (執事であるから貴族ではない、墓参りの相手も同じ身分と仮定すれば上級平民か平民。勿論無縁仏ではないから、共同墓地ではない)



 だから墓地の中でも最も面積が広い一般的な墓が並ぶ場所だとナターシャは考え、そこを目指す。墓地の中でもさして高級感がある辺りではないが、それでも最低限の植え込みや低木が視界を邪魔する。その面積の広さもあり先行したロクフォートを探すのは、通常ならば困難だ。


 そう、通常ならば。




 墓地に入ったナターシャは、うっすらと漂うもやに目を細めた。季節に限らずここはもやが発生しがちで、それもまた視界を悪くする。まして冬の今は溶けた霜が蒸発する際に元々発生していたもやと結合し、さらに視界の灰色を増していた。


捜索(サーチ)


 目で探すのは面倒だと考えて、ナターシャは初歩の補助呪文を唱える。探したい相手がだいたいどのあたりにいるか把握していること、相手の気配を明瞭に記憶しており姿をイメージ出来ることがこの呪文の成否を分けるが、どちらの要素も問題なかった。


 感覚的にロクフォートがここからあまり離れていない場所にいることが判明した。前方やや右、直線距離にして250メートルといったところか。



 そちらに足を踏み出す。


 墓地の通路には砂利が敷かれており、ナターシャが踏むとチャリッと軽い音を立てた。


 (......いいのか、こんな真似をして)


 外套のポケットに手をつっこみながら、ナターシャは自問した。


 何にか? 言うまでもない、ロクフォートの後をつけたことだ。




 墓参りというデリケートな行動の後を辿り、相手の動向を探る。マナー違反と謗られてしかるべき行動だった。



 だが、そう分かっていながら、ナターシャ・ランドローは己の行動を否定しなかった。自分の感情に蓋をしなかった。


 なぜなら知ってしまったからだ。

 

 ロクフォートがウィンターリリーに向けた視線の優しさを。

 彼の心が誰に向いているのかを。


 (すみません、ロクフォートさん。私、多分嫉妬してるんです)


 心の中で姿の見えない相手に謝りながら、ナターシャは更に歩く。さして気を集中しなくても、ロクフォートの気配が掴めるようになってきた。





******





 黒い外套の裾が枯れかけた芝生に落ちる。カサリと頼りない音を立てた芝生に片膝をつき、ロクフォートは目の前の墓石に視線を合わせた。黒大理石で出来た墓石が、地面からそのずんぐりした姿を突き出している。高さは精々80センチといったところで、他の墓石と比べて特別小さくも大きくもない。



 (しばらくぶりだね)



 うっすらと霜がところどころ付いた墓石に、心の中でロクフォートは声をかけた。当然返事などない。それでも彼はいつもそうする。相手が二度と答えないのを確認する作業のように。



 黒い大理石に刻まれた名前。埋葬された人物のそれだ。


 キャシー・リザラズ。もう五年近く前、病でこの世を去った女の名前。


 ロクフォートの今は亡き妻の名は、何も語らずにただ墓石の表面に存在するのみ。まるで死者がこの世に残した未練のように、ただその名だけがこの墓地に墓石という名のベッドに眠るのだ。





「冬はいつもこのウィンターリリーの花が君は好きだったね。花言葉が不吉だから止めたら? と僕は言っていたのに」


 片膝をついたまま、ロクフォートは墓石に語りかける。そのまま、花束をそっとその前に置く。冬の風に揺れた白い花弁は、執事の手から墓石へと主を変えても、端然としたままだ。




 ここに来ても妻に会えるわけでもない。


 流す涙はもう枯れ果てて、今はただあの死を悼む心すらも風化しかけている。ただ重く静かに沈澱する井戸の底にたゆたう水のような気持ちだけが、ロクフォートを占めている。



 抜け出そうと思ったことはある。



 死者の死を無駄にせず、それを糧として生者は生きるべきだとも思う。



 だが、それでもまだ。



 黒い執事服をまるで永遠の喪服のように纏い、ロクフォート・リザラズの時は色を放つこともなく、緩やかに流れていくだけだった。



「最近、手紙のやり取りを女の子とするようになったんだ。ああ、何だか知らないけど僕に手紙をくれるんだよ。少し生活に彩りをくれる、そんな手紙だよ」



 呟くような小さな声で囁きながら、ロクフォートは墓石を撫でる。まるで眠る妻の頭を優しく愛撫するように。



 こんなことばかりして何になるのかと自問して。


 それでもいい、と自分に語りかける日々。



 つまらない男だと自嘲しつつ、彼は持参した布で墓石を丁寧に拭った。土埃でくすんだ部分が霜ともやの水滴で拭かれ、若干輝きを取り戻す。



 それで終わりだった。

 ごく短い時間の滞在を終えた男は立ち上がり、もう一度だけ眼差しを墓石に向けた。キャシー・リザラズの名前を優しく労るように視線がなぞる。



「キャシー、また来る」



 その一言は冬の風に吹かれて消えた。後に残されたのは、うら寂しい墓地にただ一つ白い鮮やかさを放つウィンターリリーの花束のみ。


 死者に捧げる愛は凜とした気品を湛えたまま、何も語らない。

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