マレット、ハイベルク家に呼ばれる 1
平穏な月日というものは、振り返って初めてその長さを知る。
秋も深まったある日、休憩の為に、マレットは職場の机から一時離れた。飲み物を片手に、会計府と総督府をつなぐ渡り廊下に出る。この渡り廊下は壁が無く、中庭を見渡すことが出来る。
(フレイさんも簿記二級試験に受かったみたいだし、よかった)
名も知らない赤いトンボが白いコスモスに止まるのを見ながら、マレットはあのフレイを部屋に上げた日を思い出した。あれから約一ヶ月が経つ。
――不器用な人――
首筋に落ちた涙とそのあと重ねた唇の感触が甦る。それは静かな暖かさをもって、彼女の心に刻まれていた。
この先フレイとの交際が順調に行くかはわからない。だが、もし行ったとしたら、とその先を想像すると、微かに頬が熱くなる。"結婚"という二文字が浮かんだのだ。
シュレイオーネ王国においての結婚適齢期は、女性なら大体18歳から25歳の間だ。昔、それこそウォルファートが魔王軍退治に駆け回っていた時代は16歳から20歳くらいであった。しかし平和な時代になるに従い、女性の社会進出がある程度進み、それに伴い結婚適齢期も自然と引き上がった。
現在マレットは24歳だ。ぼちぼち焦りも出ておかしくない年齢なのだが、どん底状態を一度経験したせいか、結婚なんてとても無理だと決めつけていた時期もあった。その為、彼女は比較的それについては焦っていなかった。
(クロック所長はものすごく気にしてくれているけど、今のままでも十分幸せだもの)
特にフレイと交際を始めてから、自分が心身共に充実しているのを自覚する。これほどまでに恋愛というのは心に効くのかと、びっくりする程である。表情にハリが出たとは、この前会ったティリアの言葉だ。
そんなことを考えながら、マレットは飲み物を空にした。そろそろ戻るかと、会計府に引き返そうとした時だった。
(あら? ハイベルク伯爵)
渡り廊下の向こう側、総督府の方から一人の美丈夫が歩いてくる。蜂蜜色の柔らかい髪を秋風に揺らし、その男はマレットの姿を認め、灰色の瞳を僅かに緩めた。
「これはウォルタースさん、お久しぶりです」
「ハイベルク伯、ご無沙汰しておりますわ」
名ではなく姓で呼ぶのは、ここが職場だからだ。もちろん親しい者同士は名で呼ぶ。だがマレットとブライアンは府も違い、時折仕事上接点がある程度だ。当然挨拶も堅苦しい。
軽く略式の礼をして、マレットはそのままブライアンが通り過ぎるのを待った。だが、下に向けた彼女の視界に入るブライアンの靴はずっとそこに留まっている。
(......あら?)
「ウォルタースさん。いや、マレットさん、頼みがあるんだが」
いきなり名を呼ばれ、マレットはびっくりして顔を上げた。目の前のブライアンは少し困ったような顔だ。"男前は困った顔でも男前"とちらっとマレットは思ったが、もちろんそんな感想は置いておく。
「何でしょうか、わざわざ名前で呼ばれるということは、公のことではないと察します」
「まあその通りなんだよ。フレイからはまだ聞いていないですよね?」
曖昧なブライアンの答えに、マレットもまた曖昧に頷く。週末二人で会う時は、大抵の場合、週半ばに通信石で連絡をとって予定を決める。今週についていえばまだだった。
マレットの反応を見てまだ聞いてないな、と納得したブライアンは懐から一通の書状を取り出した。ハイベルク家の家紋が押されたそれは正式な招待状である。表にブライアンの筆跡でハイベルク家の家名も記されていた。
それを見て、マレットはほんの僅かだけ顔をしかめた。気づかれないほど僅かだが。
(フレイさんの後見人のハイベルク家がわざわざ私をご招待ということは――交際に反対して、それを私に通告するため?)
有り得ない話ではない。フレイにいきなり縁談が飛び込んできて、それが原因でという可能性はゼロではないのだ。
「最初に言っておきますが、別にフレイとマレットさんの交際にはハイベルク家は反対ではありません。ですので、もしその件を我々が反対する為にうちに呼びつけようとしているとお考えなら、いらぬご懸念ですから」
「はい、ど、どうもありがとうございます」
機先を制するようなブライアンの言葉に、しどろもどろになるマレットであった。なるべく彼女を驚かさないよう気をつけながら、ブライアンは話す。
「会計に詳しい貴女の能力を見込んで頼みがありましてね。詳しくはその招待状を読んで下さい。フレイもこのことは知っていますから、まあ、事後承諾の形になって申し訳ないのですが」
「いえ、ご招待ありがとうございます」
ブライアンがこうまで頼むのであれば、マレットに断る術はない。伯爵家なのだ、ただの上級平民であるマレットとは格が違い過ぎる。それに今回の話はフレイも了承済みのようだ。細かい事情はともかく、断れない話である。
「強引な形でのご招待の非礼、お許しを。それではこの週末に」
型通りではなくきちんと誠意を込めた礼を返し、ブライアンが遠ざかっていく。後に残された形のマレットは、家紋入り招待状を手にして自分の机へと戻らざるを得なかった。
******
"そうすか。やっぱりマレットさんに頼んだんだ"
その夜、マレットが通信石でフレイに呼びかけると、彼はすぐに出た。昼間ブライアンから招待状を渡された話をすると、諦めたようなフレイの声が返ってきたという次第である。
マレットの手には、白い招待状の中身の用紙がある。家に帰るなり開けたそれには、今回の招待の理由が記してあった。
「ハイベルク家所有の古い美術品の鑑定額にリーズガルデが納得していないので、説得をお願いしたい」
用紙の中身を原文のまま読むと、通信石を通してフレイが答える。
"まあその通りなんです。俺が留守にしていた時なんで詳しくは知らないんですが、ハイベルク家の屋敷の地下が倉庫になってまして、冬を迎える前に大掃除しようとしていたらしいんですよ"
フレイの説明によると、その中に古い美術品(絵画やら彫像やらだ)があったのだという。一緒に発見された目録によると、結構な値の張る品だったらしい。
別にハイベルク家はお金には困ってはいないが、認識していなかった美術品を発見したので、これ幸いにと売却を試みた。地下倉庫が手狭であり、それを有効活用したかったという事情も、それに一枚噛んでいる。
"で、売却前に美術品の鑑定士に鑑定依頼したんですが、その結果がとんでもない安値で"
「ハイベルク伯の奥様がお怒りになられた、というわけですか」
フレイを見舞いに行った時、マレットはリーズガルデとは顔を合わせている。確かにあの勝ち気そうな顔をした女性なら、一旦火がついたら止められないかもしれないと思う。
しかしだ。マレットは美術品の鑑定士ではない。専門外の素人だ。呼ばれても何も出来ない。それを伝えると、フレイが情けない声で答えてきた。
"いや、俺もそう言ったんですよ。でもリーズ姉が俺よりマレットさんの方が賢いだろうからとにかく連れてきて、話が聞きたいと"
「――分かりました、仕方ないですね」
屋敷の自室で頭を抱えるフレイの姿が、目に浮かぶようだった。それを想像すると、申し訳ないが少し笑いが込み上げる。
"あっ、マレットさん、酷いな。今笑いましたね!?"
「ごめんなさい、でもフレイさんの困った顔が想像出来てしまって」
微笑混じりの答えに、フレイも黙らざるを得ない。とにかく無理な頼みを聞いてもらっている分、フレイの立場の方が悪いのだ。
"そういうわけなんで、週末ハイベルク家までお願いします。迎えの馬車寄越しますから"
「はい、お願いします。じゃ、そろそろ切りますね」
マレットはそのまま通信石を切ろうとしたが、不意に悪戯心が湧いた。わざと唇を通信石に当てて、小さくチュッと音を立てる。
"な、なんですか今のは!?"
「さあ、何でしょうね? おやすみなさい、フレイさん」
慌てるフレイを可愛い人だと思いながら、そのままマレットは通信を切った。秋の夜に両思いの幸せを噛み締めながら。
******
「そろそろ着きますよ」
カタコトと伝わる振動に身を任せたまま、マレットはその声に顔を上げた。ハイベルク家から遣わされた軽装馬車の御者の声はよく通り、車輪の音にも負けてはいない。
「ありがとうございます」
礼の声が聞こえたかは分からないが、とにかく目的地が近いのは確かだ。時折使う乗り合い馬車より数段乗り心地が良い。馬車の客席の窓を開け、マレットは改めて前に見えるハイベルク家の屋敷に感嘆のため息をついた。
フレイの見舞いに訪れた時は、緊張のあまりよく細部まで観察する余裕は無かった。だが今こうして見てみると、やはり造りがしっかりしている。アイボリーを基調とした壁と黒っぽい屋根が上品に存在感を主張し、大きな門も華美になり過ぎない程度に装飾的だ。
その門から奥に私用の通りが続き、玄関まで続いていた。馬車はちょうど玄関の前で止まり、馬のブフルという鼻息と共に客席の扉が開く。
「いらっしゃい、マレットさん。さ、どうぞ」
「すいません、お手を借ります」
扉を開けたのはフレイだった。にこやかに笑いながら、彼が手を差し出す。それに掴まるような形で、マレットは馬車を降りる。やや緊張気味のマレットを屋敷内に案内しながら、その緊張をほぐすように声をかけた。
「なんか服に気合い入っていますよね、マレットさん」
フレイの言う通り、今日のマレットは完全によそ行きだ。秋らしい薄茶をベースにした仕立ての良いワンピースの上に、アクセントとして肩口に小鳥の形のブローチを着けている。
昼の装いとしては相当気を使っているのは、普段より念入りな化粧を見ても明らかだ。
「それはそうですよ。伯爵家から直々にご招待なんて初めてですもの」
そう答えながらも、貴族階級から見たらたいしたことない装いなんだろう、というのはマレットは覚悟していた。そもそも服飾に対してかける覚悟と予算が違う。フレイも普段はラフな格好だが、見る人が見れば素材は上質な物しか使っていない服を着ているのだ。
「ま、そんな緊張しなくても大丈夫です。ちょちょっとリーズ姉を丸めこんでくれたら、後は単なるお茶会っすから」
「もう、簡単に言わないで下さい」
わざとふくれたような顔を見せるマレットに笑顔を返して、フレイがある扉の前で立ち止まった。それを察知したように、重厚な樫製のその扉が内側に開く。
滑るようなその扉の動き、音がまるでしないことをとっても、手入れがよくなされていることが窺い知れる。
「お待ちしていました、ウォルタース様」
「ということで中へどうぞ」
扉を開けた長身の執事、ロクフォートの折り目正しい礼を横目に、フレイはマレットを部屋の中に促す。「失礼いたします」とやや堅い声で挨拶しながら、マレットが毛足の長い絨毯を踏んで入室する。そしてロクフォートの手で、扉は静かに閉められた。
「休日にわざわざお呼びだてして申し訳ない。ご足労感謝します」
「お会いするのは二度目になるかしら? フレイがお世話になっています、マレット様」
広い部屋の中心に置かれたミスリル銀がコーティングされた応接用の低いローテーブル、それを囲むように置かれたソファがある。男女それぞれの声がマレットを包み、自然と視線は声の主へと吸い寄せられた。
略式の礼服を着たブライアンが妙に緊張しているのに対し、リーズガルデは赤を基調とした昼用の露出控えめのドレスをまとっている。そして彼女は、気負いのない優雅な動作で挨拶した。白い肌に赤い髪が映え、ドレスはそれを更に効果的に見せる。
(や、やっぱり緊張しますよ!)
「本日はお招きいただきありがとうございます、ハイベルク伯爵並びに奥様。マレット・ウォルタースです」
自分でも堅いなと思いながら、マレットは少しギクシャクした礼をする。水面下に静かな緊迫感をはらみつつ、こうして本日の会合は幕を開けたのであった。




