月光の夜
すいません、今回だけバトル中心です。先にお断りしておきます。
その場は何も無かった。
相手が人間では無いと分かったとはいえ、人間のふりをしている以上いきなり襲いかかってくることは無いと判断し、フレイは剣を抜くことはしなかった。
待機していた憲兵らと共にマレットがバーニーズとその家族のもとに案内される間も、フレイの意識はほとんどずっとシガンシアに向いていた。マジックアイテムがないとはいえ、他の憲兵が全く気づかない。余程上手く魔気の放出を抑えているのだろう。
バーニーズにもその家族にも会ったが、正直全く顔を覚えていない。壮年の男、同年代の女(妻なのだろう)、そして二人の男の子の四人だった。子供の内、六歳前後と思われる男の子を見て(ああ、これがヒューイの友達のボイスか)とちらっと思った程度だ。ヒューイが友人を取り戻せてよかったなと一瞬考えるも、意識はやはりシガンシアに向く。
「フレイさん? どうしたの、顔色悪いわよ?」
「いや、ハハハ、何でもないです。あんまり待ってたから、ちょっとマレットさんを心配しちゃっただけで」
懸念が顔の表にでないように浮かべた作り笑い。我ながら呆れるくらい下手くそだ。だがその言葉に「ありがとう」と微笑を浮かべるマレットの顔を見て、フレイの気持ちは固まった。
******
その夜。もう多くの店が店じまいをして、酔っ払いさえ姿を消した頃。王都北門近くの道を走る影があった。
今宵の満月の下を影は走る。するすると蒼い月の光をかわすように。
やがて一軒の建物の前にたどり着くと、影は躊躇うように動きを止めたが、すぐにその建物の横手に回った。建物の敷地に植えられた木々の葉を透かして、降り注ぐ月光がその影の姿形を浮かび上がらせる。
フレイである。いつもは眠たげにやや伏せられた青い目がきりりと吊り上がり、俊敏に石畳を蹴っていた。
「ここから入れる」
通りに面した壁のある箇所で立ち止まり、フレイは壁の窪みに手をかけてよじ登った。人が少ないとはいえ、見つかる可能性はゼロではない。大胆な行動だった。そして彼の格好を見れば、より不審な感じは拭えない。
完全武装の黒いレザーアーマーに背中に吊したバスタードソード。こんな格好で建物に押し入れば、強盗と言われても仕方ないだろう。
だがそんなことは気にせず、フレイは壁を乗り越えた。庭の芝生の上にふわりと降り立つ。微かに草が擦れる音がしたが、すぐに夜の闇に消えた。
今日の昼間に立ち入った建物だ。そう詳しく歩き回ったわけではないが、大体の作りは覚えている。端的に言えば、フレイは黒翼教の教会に単身忍びこもうとしていた。
息を潜め、裏手に回る。台所の勝手口に手をかける。鍵がかかっていたが、見ようみまねで覚えた針金による開錠術でそれを外した。
(扉が開いたのはいいが......)
月明かりのみを頼りに、フレイは台所に忍び込み、そのまま一階の廊下に出た。足音がしないように歩みつつ、左手にはめた指輪から伝わる気配に奥歯を噛む。
(......どうやらお見通しってわけかよ)
二階への階段を見つけ、それを上る。一歩ごとに指輪は熱を発し、フレイに警告してくれているようだ。屋外を照らす月光は石壁に遮られており、建物内は不気味な静寂と闇に包まれている。徐々にフレイの心臓の鼓動は激しくなっていた。
二階にたどり着いた瞬間だった。
「フ、フフフ......まさかとは思ったが、本当に来るとは思わなかったよ」
二階の廊下の先、そこから届く男の声にフレイは身構える。いや、身構えるというより、勝手に体が反応した。極限まで研ぎ澄まされた神経が、ビリビリと痺れるような錯覚を覚えていた。
「てめえ、気づいてやがったのか」
「昼間会った時はもしや気づかれたかな、とふと思っただけだったさ。念のために教会の周囲に索敵呪文をかけておいたら」
声が近づいてきた。廊下の闇を破り、ぞわりとその主が姿を現した。
昼間と同じ白っぽいローブを纏い、そこに垂れた長い黒髪が映える。声の主の姿が左手に燈した魔法の明かりに揺らめく。
「君がまんまと引っ掛かったというわけだ」
男――シガンシアが笑った。魔法の明かりが顔の陰影を濃く彩るせいか、フレイにはひどく邪悪な笑みに見えた。
「ごたくはいらないさ。人間の面被って何企んでやがる」
「ハッ、それが知りたいなら」
もはや戦意を隠そうともせず、フレイは愛用のバスタードソード+5を抜き放った。シガンシアは挑発的な笑いで応えた。彼の黒い目がどんよりと濁った黄色になった瞬間、その長い左手が動いた。
「力づくで聞き出すことだな!」
ブン! と振られた左手の動きに合わせ、数本の光の矢が放たれた。それを見越していたかのように、フレイは横にステップを踏み見事にかわしきる。
「っつ!」
壁に突き刺さった光の矢が爆発音をあげながらスパークするのと、フレイがかわした勢いを殺さぬまま廊下の窓を破り外に飛び出したのはどちらが速かったか。バリンと派手にガラスが割れる。落下したフレイは見事に教会の壁を越えて、その向こうの街路に着地する。
「逃がさんよ、私の正体に気づいたのならな」
黒髪をなびかせ、シガンシアもそれに続いた。闇夜に飛び出したその右手のカラスの入れ墨が、白い肌に鮮やかに黒い。
バサリ、と翼がはためくような音が聞こえたと思った瞬間には、すでにフレイは地を蹴っていた。
******
(放っておいてもよかったのかもしれない)
一合、フレイとシガンシアは切り結ぶ。いつの間にかその背中の右側から真っ黒な鳥の翼を生やし、どうやって取り出したのか一本のロングソードをシガンシアは右手に構えている。振るわれる斬撃をフレイは見事に受け止め、その威力を逸らす。
(こいつが人間のふりをしてるなら、下手につつかずに見なかったふりをするのも手だったのかもしれない)
銀光が舞い、金属音が響く。二人は人の滅多にこない暗い路地へと戦場を移していた。フレイの魔剣の一撃をシガンシアは華麗に捌き、後方へと流す。たたらを踏む獲物に降り注ぐ一撃を、フレイは必死で跳ね返した。
「どうした! 私をはいつくばらせて正体をあばくんじゃなかったのか、青年!」
嘲るようなシガンシアの目はすでに通常の人間の物ではない。瞳孔が蛇のように縦に長くなり、その身から発する魔気は益々まがまがしいものへと変質していた。
(だけど出来なかった)
こいつを放置しておくのはまずいと思いつつ、フレイ一人では正当に討伐するだけの兵も動かせない。やるなら一人でやるしかない状況に正直びびっていた。
だが戻ってきたマレットの笑顔を見た時、迷いを無理矢理押さえ込んだ。
(正体不明の人外なんかこの王都に放っておいたらどうなるか分からない。マレットさんや)
尊敬すべき簿記の教師、その愛らしい寝顔が脳裏に浮かんだ。
同時にシガンシアの強い一撃を、縦に構えた剣で弾く。
(ソフィーやヒューイ)
雨に濡れながらもバーニーズを探すのを手伝ってくれた二人の顔が浮かぶ。そして、友達を取り戻す為に協力してくれたヒューイの友達もいる。
(リーズ姉にブライアン兄)
俺を居候させてくれている二人。
返す刀で右肩からの袈裟切りを見舞う。難無くこれはかわされた。けれども意外と踏ん張るフレイに驚いたのか、シガンシアが舌打ちしたのが聞こえた。
自分の大切な人達がいる王都に、明らかに人に大害をなすであろう人ならざる者がそしらぬ顔ですくっている。知らないならまだしも知ってしまったのだ。ならば――それを放置するのはフレイには耐え難いことであった。
正直自信などない。先の冒険者紛いの戦いでレベル5に上がったとはいえ、実戦経験があまりに少ないのはフレイ自身重々承知している。だが己の覚悟はその不安材料を覆い、その剣を抜かせたのだ。
「はああああっ!!」
「思ったより愉しませてくれる......!」
全体的にはシガンシアが優勢ではある。だが素人が装備するには惜しい強化が施された武具、そしてそれを支えるフレイの気迫が予想以上に勝負を長引かせていた。
だが時と共に戦況が傾き始めた。疲労が見えはじめたフレイの足が止まり始めたのだ。それを見のがさずにいったん距離を取るシガンシア。路地の奥へ下がる。剣を前方に突き出しながら小声で何事か唱えると、その剣の先端に突如、人の上半身程の大きさもある火球が生成された。
彼が得意とする火炎呪文の一つだ。まともに当たれば、一軒家くらいなら吹き飛ばすだけの火力がある。
「ここまでよく善戦したがそろそろけりをつけてやる、せめて一撃で散れ!」
まだフレイはその剣が届く間合いにはいない。成す術なく立ちすくみ、その業火に身を焼かれて死ぬだろうとシガンシアはほくそ笑んだ。
だからフレイがにやり、と笑ったのが見えなかった。
「――能力解放」
攻撃呪文が来ると分かるのと同時に剣を両手で構え、ぽつりと呟く。フレイの声に応えるように、バスタードソード+5はその刀身を青く輝かせた。
「......超加速!」
フレイの叫びに、シガンシアの放った火球が迫る轟音が重なった。月だけが見下ろす中、火球は廃墟となっている家屋にぶつかり、爆音と火炎を撒き散らしその破壊力を存分に示す。
タイミング的にフレイが避けられるはずがない速度、角度だった。家屋ごと人間一人など容易にその衝撃で破壊し、火炎が焼き尽くす。「他愛ない」とシガンシアが呟いたのも、無理はなかった。
だが、彼の黄色い目が捉えたのはひ弱な人間が炎の中で崩れる姿ではなく、炸裂する爆炎をバックにそこから踊り出たとてつもなく高速で走る影だった。
「なにっ!?」
意表を突かれ、シガンシアの反応が遅れる。その間に更にスピードを上げた影が目前から消えた。
まずいと思ったシガンシアが、体を右側へと倒す。ほぼ同時にその左の二の腕に斬撃が襲い掛かる。桁違いのスピードに防御が間に合わなかった。
「ちっ、外した!」
フレイの駆け抜けざまの一撃である。もっといけたか、だが、そのバスタードソードについた血糊が少なくとも掠めたことを教えてくれた。
フレイとシガンシアの視線がぶつかる。予想外の逆襲に驚愕するシガンシアに、フレイは再び剣を繰り出した。
******
「能力解放?」
フレイの言葉にブライアンは頷いた。その手にあるのは、例のバスタードソード+5だ。
「ああ。この剣はな、単に魔力付与で切れ味を上げただけじゃないんだ。あえて今まで言わなかったがな」
そう言いながら、ブライアンは鞘から剣を抜いた。青い魔法の光が刀身から漏れる。
「この剣に秘められた能力は、望めば一定時間使い手の能力を劇的に跳ね上げてくれるものだ。三つ、この剣にはそれがあるが、一つだけ教えておこう」
「えー、何でだよ。全部教えてくれよ」
「いきなり三つも覚えても使いこなせないだろ? 今のお前には一つで十分だよ」
ブライアンの言葉にフレイは渋々頷く。確かにフレイは戦士としては駆け出し同然だ。
「使い方は簡単だ。柄を握り本心から望め。第一の能力、その名は......」
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超加速。
剣の使い手の身体能力と反射神経を、劇的に一定時間引き上げる力。
試しに昨日使ってみた時に効果は体感している。今のフレイならば、30秒限定でほぼ倍速で動くことが可能だ。それ以上はスタミナも全身の筋肉ももたない。
さきほどシガンシアが火炎球を放った瞬間、フレイはこの超加速を発動した。簡単に火炎球をかわし、着弾の瞬間、反撃に転じたのだ。もっとも爆発の余波はフレイを襲ったが、耐熱効果を施されたレザーアーマー+4がそれを遮ってくれた。
(ここで決める!)
正確にはここで決めなければならない。フレイはシガンシアがこの程度だと考えていない。指輪の反応から見ても、恐らくもっと強大な力を秘めており、攻撃呪文だってどんどん唱えてくるだろう。相手が自分を甘くみてくれている間に一気に倒さないと、確実に敗北する。
「いっけえええ!」
強化された反射神経のおかげで、相手の動きがやけに遅く見える。防御をかい潜り、横薙ぎを左脇腹に叩きこむ。相手がつんのめる前に、更に右足に鋭く突きを叩き込んだ。
血が跳ねた。白いローブがみるみる内に深紅に染まり、シガンシアの顔が歪む。背中からはえた片翼が震えていた。
「き、貴様あああ!」
逆上した相手が振り下ろした剣を、フレイは体を反転させて避けた。そのまま路地の壁を三角跳びの要領で蹴る。反動で相手の頭上を取る。これを察知して返す刀で剣を跳ね上げたシガンシアは流石だが、フレイのスピードはそれの更に上を行った。
ザシュ! と大きな音が闇に響く。剣を振り下ろしたまま着地した。その前にドシャと落ちたのは、黒いカラスの入れ墨も鮮やかな人の右手だ。
「......勝負ありだな」
「くっ......」
ゆっくりと振り返り、フレイが剣先を突きつけた。
その視線の先に立つ黒翼教の代表者の右腕は肘辺りで切断され、ボタリと黒っぽい血を滴らせていた。
いかに人外の者とはいえ、片腕を落とされてはダメージは大きい。超加速による反動があるとはいえ、その身に刻み込まれた斬撃の跡から流血が止まらない。この状態からでは、シガンシアに逆転の目はもはやないだろう。
「話してもらうぜ、人の皮までかぶって宗教法人なんか作って、何を企んでいるのかをな」
見下ろすフレイにその時油断は無かった。だが、地に伏した相手がそのローブの影で動かした左手の動きまでは、捕捉しきれなかった。
ピシッと痺れるような感覚が背中を走る。なんだ、と思った次の瞬間、その感覚が背中全体をはい回り、体全体に力が入らなくなっていった。
肩。腰。膝。指。体の中心から末端にかけて、まるで細胞の一つ一つが凍りついたような不快な感覚。手が勝手に開いた。唯一の武器が手を離れ、地面に鈍い音を立てて転がる。そしてフレイ自身も立ってはおれずに膝をつく。
「お、お前......何を、した」
「惜しかったな。まあ、私の罠に気づかなくても無理はないが」
立場が逆転していた。あれだけの流血を止めたシガンシアが立ち上がり、フレイを見下ろしていた。唯一残った左手が摘むのはその片翼を覆う一本の黒い羽根だ。あれか。
「さっき攻められていた際に、私の羽根を空中にばらまいておいたのさ。その身で受けて分かったろうが、私の魔力を注入された羽根だ。並の人間に刺されば、その神経など簡単に麻痺させる」
念のため仕掛けておいて良かったよ、と笑うシガンシアの姿に、フレイは歯噛みするしかなかった。追い詰めたと思っていたが、手札の数の差が最後の詰めの甘さに繋がってしまった。体すら動かないのではもう打つ手がない。
哀れな獲物を前にして、シガンシアは余裕を取り戻している。落ちていた右腕を拾うと、ぴたりと傷口に合わせて瞬時に接合し直した。これでフレイの苦労も水の泡である。
「善戦だよ、青年......せめて死ぬならば私の真の姿を見て死んデイケ。冥土の土産ニナ!」
語尾をひび割れさせながら、シガンシアの全身が爆発的な魔気を放出する。物理的な圧力すら伴うその魔気の暴風に身動きすら出来ない。フレイは吹き飛ばされ、したたかに壁に打ち付けられた。
圧迫された肺が空気を吐き出す。苦痛に身をよじりながら、それでもフレイは。
圧倒的な恐怖に、その目をシガンシアから......離せなかった。
「あ、あ、ああ、、」
自分の口から漏れる情けない声を、フレイは認識していただろうか。 彼の目の前で黒髪をなびかせていた男は、その姿を変容させていた。
ガコン! と音を立てて外れた骨格がガクガクと伸び、更に強大に再形成される。それに比例したのか、はち切れんばかりに肥大した筋肉は皮膚を突き破り、ローブを引き裂き逞しい束となり、その身を覆っていく。
秀麗な顔は見る影もなく、耳まで避けた大きな口からは鋭い牙がびっしりと覗いていた。その黄色い目がカッと見開かれ、耳は先端が細く尖る。
額から伸びた二本の角は、いびつに曲がりくねりながら前方を指していた。
アアオオオとおぞましい吠え声が路地に木霊する。シガンシアは、いや、シガンシアだった物は、最後の仕上げといわんばかりに全身の魔気を高めた。それに呼応して三メートル近くなった長身を堅い爬虫類のような皮膚が覆い、右だけだった背中の翼は左にも装備される。
シュウシュウと不気味な呼吸音を牙の間から吐き出すそれに、心底からフレイは恐怖した。まだ羽根の麻痺は続いていたが、例えそれが無くとも恐怖で金縛りになっていただろう。
思考しようにもそれすら脳が拒否する。生物としての絶対的な戦力差の前に、フレイの体と精神は全てを諦め、無様に路地に転がっていた。その目は迫る異形の魔獣の姿を、ただ映しているだけだ。
「あらがう気力すら砕けたか。まあ無理も無いが......つまらんな。私の真の姿を魂に刻んだまま死ね」
かろうじて人の言語と呼べる発音で呟き、魔獣がその右腕を振り上げた。哀れな獲物がその真下で固まっている。
路地に差し込む月光が、振り上げられた鎌のような爪を照らした時。
いきなり魔獣が飛び下がった。瓦礫を蹴散らしながら、暗闇が濃い路地の奥へと後退する。奇妙な行動だったが、彼がふざけてそんな行動を取ったのではないことだけは分かる。敵意剥き出しの恐ろしい表情と、全身にまとわせた黒々とした魔気を見れば、それは明らかだ。
「ほう、よく気がついたな。これでもこっそりと忍びよったつもりだったが」
唐突に路地に響いた声は、フレイの物ではない。
いつの間に現れたのか、頭からフードを被った奇妙な人物がその口から発したものだ。
のろのろと反応したフレイの視線の先で、フードの人物はゆっくりと歩きながらフレイの横を通り、まるで彼を庇うように路地の真ん中に立つ。その奥にいる巨大な魔獣などまるで気にしていないような、無造作な動きだった。
「やけに魔気がこの美しい月夜を汚すと思えば、貴様が犯人か?」
「何者だ!?」
フードの人物の鈴を鳴らすような中性的な声に、魔獣の怒声が被さる。だが聞く人が聞けば分かったであろう、魔獣の声に畏れが混じっていたことが。
フ、と鼻で笑い、フードの人物が口元を歪めた。その細い体からいきなり真っ白い光が放射され、路地の暗闇どころか魔獣の魔気すら押し返す。
「話すだけ無駄さ。お前はここで死ぬんだから」
聞き間違えたか。翼ある魔獣は自分の耳を疑った。さっきまで自分の前方にいたはずのそのフードの人物の声が、背中から聞こえたからだ。
(馬鹿な! このオレが全く気がつかなかったなど!)
焦りと困惑、恐怖に突き動かされた魔獣の巨体が動く。裏拳気味に繰り出された拳は猛烈な速度だったが、それも虚しく空を切った。
「鈍いな、当たらないよ。それでは」
次の瞬間、魔獣の足は地面から浮いた。懐に潜りこんだフードの人物が軽く叩きつけた掌打に押され、その巨体を浮かしたのだ。まるで力を入れているようには見えない。だが魔獣の胸は陥没し、更に打撃だけではなく掌を通して撃ち込まれた白い光のダメージが、その内臓を焼いている。
ゴボと牙の間から血を吐きだしながら、それでも魔獣はまだ生きていた。残った力を全部注ぎこんだその両腕の連打が嵐となって、フードの人物を狙う。
「オオアアアア!」
大木でもへし折るであろう腕力と鋭い爪の連打。しかも膨大な魔気をこめているのだ。破壊力は想像もつかない。そして一発一発が大きい、すなわち当たりやすい。だがそれもフードの人物はたやすく避けていた。どんな防御法を使っているのか、ようやく正気に戻ったフレイには及びもつかない。
そして何発目かの魔獣のフルスイングをしゃがんでかわし、フードの人物は右腕を下から伸ばす。
「凍てつけ、魔の者」
清浄そのものの美しい響きが路地に響いた。フレイが見えたのは、フードの人物の右手から伸びた一本の細剣。それが魔獣の体に突き刺さっている光景のみ。破壊力などなさそうな細剣なのに、魔獣の動きが止まっている。
「さよなら、良い死出の旅を」
軽やかにフードの人物が魔獣と距離を取ったのと、いきなり魔獣の全身に白い斬撃が無数に刻み込まれたのはほぼ同時。断末魔の叫びさえも無く、魔獣の巨体が沈み込む。フレイが気づいた時には、斬撃の跡がまるで細い氷河が形成されたように白く凍りついていた。血液が滴ることすら許さない完璧な凍結だ。
(あの一瞬であれだけの斬撃を繰り出し、更に氷雪系の攻撃呪文をまとわせていただと)
まるで見えなかった。一瞬百斬と形容出来そうな超高速の剣術が炸裂したのは間違いないが、果してそれが人の手に可能なものなのか。
何だかよく分からないが助かったという安堵とフードの人物に対する不信感に駆られたまま、フレイは立ち上がった。フードの人物はまるで何事も無かったように、フレイの傍らに静かに立っている。
「怪我はないようだな」
「あ、あの、おかげで助かりました。感謝してもしきれません」
フードの人物に話しかけながら、フレイは緊張を拭えない。これほどの凄腕の人物が魔王がいた頃ならいざ知らず、今の平和を謳歌するシュレイオーネ王国に存在するなど信じ難しかった。
「あれが暴れている気配がしたから人助けしただけだ、気にするな」
転んでいたから手を出しただけだとでも言う気軽さでフレイに言うと、フードの人物は路地の入り口の方へと歩いていく。その入り口近くでくるりと振り向いた瞬間、夜風がフードをパサッとその人物の頭部から外した。
月光を背景に浮かび上がったのは、輝くような銀色の髪。ポニーテールに結われたその髪の色が、闇を背景にして映えていた。その髪とほぼ同じ色の二つのアーモンド型の瞳がフレイを見つめたのは、ほんの数瞬。
月光にも負けない白い肌、整った顔立ちに浮かぶ高貴さが、鮮やかに路地の暗闇に冴えた。
「待ってください、せめてお名前を!」
「そうだなあ......」
フレイの叫びに対して、その美しい人物はどこかとぼけた声で答えた。
「偉大な祖父を血脈に持った――しがない町娘さ」
今回だけ読んでジャンル恋愛、題材が簿記だと信じてくれる人がいるだろうか、いや、いない(反語)
あとちょっとでまた講座編に戻る予定です。




