【最終話】愛の鎖で(アリシア視点)
「お嬢様、アリシアお嬢様!」
「……メリッサ、声が大きいわ、何時だと思っているの?」
「その言葉、そっくりお返しさせていただきますわ。 お嬢様こそ今何時だと思っていらっしゃるのですか? 明日が何の日か思い出してくださいませ!」
「……思い出す必要はないわ、だって忘れていないもの。明日はアルフレッド殿下と私の婚礼の日よ」
「ならばもうお休みになって戴きませんと! 花嫁の目の下に隈などできてしまったら、私はクビですわ、これから寝ずに辞表を書くことになってしまいます!」
「まあ、どんな長編の辞表を書くつもりなの?
……ごめんなさい、メリッサ。もう戻るわ。いよいよ明日だと思ったら、なんだか眠れなくなってしまったのよ。
メリッサは私よりも早起きをしなくてはならないというのに、ごめんなさい。
もう、この窪みに身を隠すこともないのだと思ったら、最後にもう一度嵌っておこうかしらとか、なんだかあれこれ『最後』を味わいたくなってしまって……」
「明日には王家に嫁ぐ身のお嬢様が、家の廊下の窪みに嵌っているというのは……実にアリシア様らしいですわ。このメリッサが飽きるまでお付き合いして差し上げたいところではありますが、公爵家にこうした窪みはたくさんございます。全部は無理ですので、あと一つだけにしてくださいませ」
「ありがとう、でももう大丈夫よ。この窪みから出たら部屋に戻るわ」
「ここは思い出の窪みですね、お嬢様」
「そうなの。ハーヴェイのお菓子まで私が食べてしまって、お母様に怒られると思ってここに隠れたわ。あれは何歳の頃だったかしら。結局、窪みから出てメリッサのスカートに隠れて部屋に戻ろうとして、お母様に見つかって叱られたわ」
「今、奥様に見つかったらあの日のように叱られてしまいますよ。早く眠りなさいと」
「そうね、もうメリッサのスカートには隠れられないものね」
小声でメリッサと話しながら、自室のドアの前まできた。
「おやすみなさいませ、お嬢様。ベッドまでお送りしますか?」
「いいえ、それには及ばないわ。ごめんなさいね。おやすみなさい、メリッサ」
静かにドアを閉めた。
今度こそベッドに入り、掛け物をしっかりと肩口まで引き上げる。
どうせ簡単に眠れないことは分かっている。
だから私は今夜のうちにすべきことをする。
アルフレッド殿下から婚約破棄を言い渡されて、これはとんでもないことになった、忘れてはいけないと頭にメモを始めた。
『婚約破棄の理由は?』
最初のページに書き綴ったのはこの言葉だった。
眠れない夜に、そのメモを引っ張り出してあれこれ考えた。
他に好きな女性がいるのかしら、そんなふうに思ったりもした。
でも、アルフレッド殿下を見ていると、殿下が誰かを想う熱が篭った目をしていたことは無かった。だから余計に分からなかった。
そして月日は流れて、その理由を殿下自ら話してくださった。
私は頭のノートに書いた言葉を、頭の中のペンで二重線を引いて消した。
そうして頭の中のノートは、走り書きだったりどことどころインクが涙で滲んだりしながら、どんどん書き込みが増えていった。
そして私は今夜のうちに、このノートを始末する。
頭の中で、頭の中のノートにぐるぐると紐を巻き付ける。
もうこれを開くことはしない。
これからは、頭の中のノートを開きたくなるようなことがあったら、アルフレッド殿下に言葉で伝えていく。
──どうしてかしら。
──あれはどういう意味かしら。
──私はどうしたらいいの。
そんな言葉を聞いたアルフレッド殿下は、きっと教えてくれる。
分からない時は一緒に考えようと言ってくれる。
そう信じられる私にはもう、このノートは必要ない。
頭の中で紐を巻き付けたノートに頭の中で触れ、『ありがとう』と頭の中でつぶやいた。
ノートは霧のように小さな粒になって、開け放たれた窓から空に消えていった。
もう私は大丈夫、大丈夫よ……。
「いいえ大丈夫ではありません、もう起きて戴きませんと!」
「……!? メリッサ!! まさかもう朝なの!?」
掛け物を引き剥がすメリッサに、私は悲鳴を上げた。
「まさかではありません! すぐに湯浴みをしていただきます!」
「朝食は……」
「こちらをお召し上がりください。アルフレッド殿下から昨日デーツを戴きました。アリシア様にはゆっくりと朝食を召し上がる時間など無いだろうからと。ミルクにデーツを細かくして混ぜて、ハチミツを入れました。殿下から作り方を教えて戴きました」
メリッサはミルクの入ったグラスを差し出した。
飲んでみると、ハチミツの甘さとデーツの甘さがいい感じにミルクに溶けていて美味しい。甘い上にデーツがけっこう入っていて少し噛みながら飲むと、いい感じにおなかに溜まっていく。
「アルフレッド殿下は、アリシア様のことをよ~く解っていらっしゃるのですね。ささ、早く飲んでくださいませ。湯殿で隅々まで磨き上げますわ!」
私は空にしたグラスを手に持ったまま、目をギラつかせたメリッサに追い立てられるように湯殿に向かった。
***
挙式の前は殿下に会うことはできなかった。挙式前の二人の控室は別々になっていて、反対側にあるらしくちらりと姿を見ることも無いようになっているそうだ。
真っ白のベールをアルフレッド殿下がその手で上げてくださるまで、私たちは互いを見ることもできない。
お父様にエスコートされて、大聖堂の赤い絨毯の上を一歩一歩進んでいく。
前方で、白いフロックコート姿のアルフレッド殿下が、白手袋を手にしてこちらに向いている姿が見える。
少し進むと、今日の殿下は金色の前髪を上げているのがベール越しに確認できた。
早く近くで見たくて、右足を一歩進めて、左足がそれに追いつくとまた右足を一歩出すというゆっくりした歩き方をやめてどんどん進みたくなる。
お父様が脇を締めてきて、まるで『それはならぬ』と言っているようだった。
やっと私は殿下のところまで到達し、お父様は私をアルフレッド殿下に渡すようにして、居並ぶ参列者の最前列に戻って行く。
そしてリハーサル通りに式は進み、ついにアルフレッド殿下が私のベールを上げた。
「アリシア、……とても綺麗だ」
大聖堂に置かれた像のような美しさを放っている殿下にそう言われましても、『そちらこそが!』と返したいところだけれど、この場ではリハーサル通りに呟いた。
「アルフレッド様も、とても素敵ですわ」
どうしてこのような言葉しか言わせてもらえないのかしら。
殿下の美しさを素敵の一言で言い表せられるとでも!?
まあ、一言にしておかないと、この先の長いアレコレが収まらなくなるのでしょうから、今はこれだけで我慢します。
そして我がヴェルーデの護り神『愛の女神様』に愛を誓う。
この大聖堂の中には、王家の森の湖にあった像と同じポーズのレリーフがある。
「ヴェルネーレ様の御前におりますアルフレッド・イザイヤ・ヴェルーデは、アリシア・ノックスビルを妻とし、アリシアが幸せに向かって歩くその人生を、見守り、支え、助け、生涯愛し慈しむことを誓います」
「わたくしアリシア・ノックスビルは、ヴェルネーレ様の御前にて、アルフレッド・イザイヤ・ヴェルーデの生涯を支え、寄り添い、助け、そして愛することを誓います」
「では誓いのキスを」
司祭の言葉に、アルフレッド殿下が私のベールを上げる。
ついにベール越しではない生アルフレッド殿下が……。
いつもさらりと下ろしている前髪を、きっちり撫でつけ上げているアルフレッド殿下は、そのあたりから光を放っていた。ベールがなくなってその眩さをダイレクトに浴びてしまう。
「アリシア……。本当に綺麗だ……美しく輝いている……」
たぶんそれは反射よ……とは言えない。
殿下が腰を屈めてキスをした。
ほんの一瞬の接触だったのに、殿下が震えていることが判った。
離れても、まだ私を見つめている。
何か言ったほうがいいかしらと思った時に司祭が『指輪の交換を』と言ったので、殿下はハッとしたように威儀を正した。
それから指輪の交換は恙なく行われ、アルフレッド殿下と私の薬指にお揃いのプラチナの輝きが灯った。
アルフレッド殿下の腕に手を添え、参列者の間をまたゆっくりと歩いていく。
そこには駆け寄って抱きしめ合いたい人たちの顔が並んでいた。
国王陛下と王妃殿下もアルフレッド殿下のご両親としてご参列くださっている。殿下の弟君たちは、末子のレナード殿下だけがお留守番だ。
リカルド殿下の隣にはマイラ様が婚約者としていらっしゃる。
私の父と弟ハーヴェイは正式な場ではそうするように、いつも結んでいる長髪を今日は下ろしていた。母は二人の間で微笑んでいる。
私が復学してから、エレナとパトリシアとはそれまでどおりの穏やかな交流が卒業まで続いた。卒業してからは皆忙しくて一度しか会えなかったけれど、今日は二人とも参列してくれている。エレナは嫁ぎ、パトリシアも四か月後に結婚を控えている。
そして友人列には、殿下の護衛騎士のジャン様とメリッサが並んで座っている。
二人は先月結婚した。殿下と私の挙式後も、ジャン様はこれまでどおり殿下の護衛騎士として働き、メリッサは王宮にて第一王子妃となる私の侍女として働いてくれることが決まっていた。
メリッサはこの挙式の後から、ジャン様が住まっている王宮内の従者棟にて一緒に暮らすようになるのだ。
メリッサは私の支度を終えてから、ジャン様もこの挙式の間だけは私たちの友人として参列していた。ジャン様ご本人の強い希望により、この後のパレードの際にはいつもどおりアルフレッド殿下の傍に控えて警護をするらしい。
ジャン様とメリッサはメリッサのほうが少しお姉さんだけれど、シャーリドへの視察後からジャン様が熱烈にメリッサにアプローチをしていた。
アルフレッド殿下が『生涯唯一の一戦に命を賭けているんだ、見守ってやって欲しい』と大袈裟なことを言っていらした。
大切な人たちの間を通り、アルフレッド殿下と私は礼拝堂を出た。
ここからは控室も一緒になり、大聖堂を出て王宮まで馬車でのパレード、その後に王宮のバルコニーで王族揃っての挨拶がある。
アルフレッド殿下は、私の手首を握ってずんずんと控室のほうに歩いていく。
ドレスやベールを整えてくれる侍女が、慌てて転がるように付いて来る。
今日はいつも以上に踵の高い靴を履いているので、バランスを崩して殿下の背中にぶつかってしまった。
「も、申し訳ありません。少しゆっくり歩いていただけると……」
「あっ、ごめんアリシア。気遣いが足りなかった……」
そう言うと、殿下はひょいと私を抱き上げた。
ドレスの形を整えるために、スカート部分の中は驚くほどのレースを重ねている。骨組みだけのクリノリンはこのウェディングドレスには使っていない。殿下が近寄る場面が多いため、今日はレースのパニエだけを使っている。
だから抱き上げることもできるけれど、レースをふんだんに使っているためとても重いのに。
ベールの先はどうなってしまっているの!? と言う暇もない速さで、控室の中に入って行った。殿下の勢いに押されたのか、付いてきた従者たちは誰も控室に入らない。
軽やかに降ろされたかと思うと、ぎゅっと抱きしめられた。
お化粧が殿下の真っ白い御衣裳を汚してしまうのではとハラハラする。
「……フレディ様、どうかなさいましたか」
「先ほど……アリィのベールを上げた時、目が眩むほど美しいアリィの輪郭が、光に透けているように見えたんだ……。そのまま、消えてしまうのではないかと思った」
それで、くちづけの時に震えていらしたの? その後、妙な間があったのもそのせいなのね。
「私は消えませんわ。ずっとフレディ様の隣におります。今も、明日も、その先の未来もずっと」
「アリィ、そうだよな……。隣にずっと居てくれるのだよな」
「そうですわ、だって私はフレディ様の愛の鎖にずっと繋がれていたいのですもの」
美しい青い瞳が驚いたように見開かれ、そして困ったような泣き出しそうなお顔になる。
「……ありがとうアリシア、君を愛している……」
アルフレッド殿下は、私を折らんとするほど強く抱きしめた。
胸の内から想いが溢れ、その言葉を頭の中のノートに書きつけようとしてハッとする。
──もうノートは無いのだわ。
私の想いを受け止め続けてくれていた頭の中のノートは、朝陽の中に消えていった。
私は書きつけるはずだった想いを口にする。
「アルフレッド様、私もあなたを愛しています」
控室の扉を叩く音や私のお腹が鳴る音が遠くで聞こえているような気がするけれど、アルフレッド殿下はそれらが聞こえていないように、私を抱きしめ続けた。
おわり
最終話までお読みくださりありがとうございました!
「完結」としたほうが分かりやすくて良いのかもしれませんが、
番外編として書きたいことが少し残っていますので、
いつかのその時までこのままにしておくつもりです。
またその時にお読みいただけたら嬉しいです。
途中、数か月も都合で更新できない期間がありましたが、
こうして無事に完結の日を迎えられたのも
読んでくださっている方々の存在を感じることができていたからと思っています。
ありがとうございました!
青波鳩子(*´ω`*)




