【31】思い出から未来へ(アルフレッド視点)
アリシアを連れてテラスに向かうと、父と母が並んで湖面を見ていた。
父はそっと母の腰に腕を回し、母は湖面すれすれを飛ぶ小鳥を指さしている。
湖に張り出したテラスの対岸にも、もちろんテラスにもコテージの中にも、騎士がさりげなく、だが俺とアリシアが到着した頃よりもかなり数多く配置されている。
俺は今まで何を見ていたのだろう。
学園で好き勝手にしていた時も学友たちと街へ繰り出していた時も、常に傍に居るジャンだけではなく、こうしていつも護られていたのだ。
私的なことであまり煩わせないように、父は家族が揃う夏のこのコテージに来ることはなかった。
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
そう声を掛けると、シャツにベストというラフな格好で父は笑って応えた。
「この季節ならば泳ぐのも気持ちよかっただろう」
「厳しく泳ぎを叩き込まれたおかげです」
「二人とも、まずは挨拶をしてからではどうかしら? アリシアさんが困っているでしょう」
母の言葉に、俺はアリシアの椅子を引く。
今日は大きな円卓がひとつだけ置かれていて、四人分の用意がしてあった。
「今日は、十二年に一度の女神様の試練に挑戦したアルフレッドとアリシア嬢の成功を祝いにやってきた。風がある中、よく二人で泳ぎ切った。この席では堅苦しくない、寛いだ時間を共に過ごそう」
「ありがとうございます。今日の私があるのも、陛下と王妃殿下のおかげ……と申し上げたいところですが、今日だけはこう言うのをお許しください、すべてアリシアのおかげです。女神様はいつもあちらで見守ってくださいますが、私の女神はここに居ます」
「まあ、本当にそのとおりね! アルフレッドはこう言っているけど、アリシアさんはそれでいいのかしら?」
母が急にアリシアに話を振った。それもなんとなく不穏な感じに。
「両陛下の御前でとても畏れ多いのですが……わたくし、アルフレッド殿下のことを、心から、お慕い申し上げております……」
ぼんっ! という音がしたかのように、アリシアが赤くなった。
そんなアリシアに何と言えばいいのか言葉が見つからない。
「アリシア嬢、今日ここには国王ではなく、アルフレッドの父としてやってきたつもりだ。不肖の息子を思いやってくれて、父親としてありがたいという思いしかない。
まずは食事をしよう。今日は釣ったばかりの魚を食べさせてもらえるそうだからな、楽しみにしているのだ」
当初は簡単なサンドイッチ程度のものを用意してもらうつもりだったが、急遽、母から『旦那さまと二人で参加させてちょうだい』と言われて驚き、さすがに内容を変えてもらった。
母が『旦那さま』と国王である父のことを呼ぶときは、怒っているか逆にものすごく機嫌がいいかのどちらかだ。機嫌がいいほうで安心はしたが、警備など問題はいろいろあってそれなりに大変ではあった。
だが、こんなに寛いだ父をこの頃見たことがなかったので、アリシアには申し訳ないがこの場が持てたことを嬉しく思っている。
「そういえば、アリシアさんは嫌いな食べ物はあるかしら」
「いえ、ありません。こう申しますとなんだか優等生みたいになってしまいますが、今日の私の前にどのようなお皿がやってくるのだろう、そう思うといつも楽しみでしかたがないのです。そして実際戴きますと、どれもとても美味しいものですから」
「では私がこう尋ねよう。アリシア嬢の一番好きな食べ物は何かな?」
なんとなくハラハラしながらアリシアと母と父の会話を聞いているが、アリシアは特に構えるでもなく父や母との会話を楽しそうにこなしている。
「それは王宮で戴くお菓子です。甘過ぎず、食べやすく、丁寧に作られていて見た目も美しくて……少し硬めのクリームにフルーツを載せて焼いたタルトが一番好きです」
アリシアが少し早口で応えると、父は微笑を浮かべて更に言った。
「今回アルフレッドとアリシア嬢のデートの邪魔をする詫びとして、『ザ・キング』と名づけられたベイスン地方の桃で作ったタルトを持ってこさせた。食後に楽しみにしていてくれ」
「ベイスン地方の『ザ・キング』と名付けられた桃ですか……! そのような稀少な桃のタルト、とても楽しみですわ!」
「アリシア、今日一番いい笑顔だ。桃か……俺は桃に負けたんだな」
「そんなことありませんわ、たぶん」
それから釣り上げられた魚を揚げたものが運ばれてきて、熱々を堪能した。
ちょうど皿が行き渡った頃に、一番下の弟レナードが侍女に抱かれてやってきたので、レナードを抱き取った。
「アリシアに紹介しよう、一番下の弟レナードだ」
俺の抱き方が悪いのか、むずがって身体を反らすので降ろして脇を持った状態でアリシアに紹介する。
アリシアは椅子から降りてレナードの前でしゃがんだ。
「こんにちは、レナード殿下。アリシアと申します」
「アリ……?」
「はい、アリです」
「アリ、抱っこ!」
「はい、レナード殿下」
アリシアはレナードを慣れた手つきで抱き取ると、レナードはキャッキャと喜んでいる。
「孤児院で子供たちのことを面倒見ているから、扱いが慣れているのだな」
「天使のように可愛らしいですわ」
まだ三歳のレナードは生活サイクルが大人と違い、俺たちとは食事の時間も重ならなかった。九歳になる弟クライドは、五歳の頃から同じテーブルで食事をするようになった。
レナードと一緒に食事ができるようになるまでもう少しだ。
そんなレナードが、アリシアの頬にキスをした。
「待ってくれレナード、アリシアは俺の婚約者だ」
「まあアルフレッド、三歳を相手に大人げない」
父も母も笑っている。アリシアも笑っている。レナードもふくふくとした小さな手を叩いて声を上げて笑っている。
俺はそんな家族たちとアリシアを見て、唐突に鼻の奥がつんと痛んだ。
まさかこんな場面で泣くわけにもいかず、レナードをアリシアの腕から抱き取って高く上げる。
レナードは『たかーい!』とはしゃいだ声を上げた。
「レナード、おまえもいつかアリシアのような素晴らしい婚約者と出会えるといいな。そして、絶対絶対大切にするんだぞ」
「はーい、アリ、たいせつにする!」
「アリシアはダメだ、俺が幸せにするのだから」
父が立ち上がってレナードを抱き取った。そしてそのままアリシアに頭を下げた。
驚くアリシアの肩を抱く。
「アリシア嬢、どうかアルフレッドをよろしく頼みます。この湖を、倅と共に泳いでくれてありがとう」
「アリシアさん、うちは息子ばかりだから、私たちずっと娘という存在に憧れていたの。
不甲斐ない息子ですがアルフレッドをどうかよろしくお願いします」
「父上、母上……」
せっかく頑張って堪えていたのに、涙声の二人におまえも泣けと云わんばかりに言われたようで涙が落ちた。その上アリシアまで泣かせてしまった。
レナードだけが笑っている。
今、城に残ってくれているリカルドとクライド、今朝ノックスビル家の厩から送り出してくれたアリシアの両親に弟、リカルドと共に歩いてくれることになったマイラ嬢とハワード公爵夫妻。
いつか皆で楽しいテーブルを囲みたい。
それぞれ重い肩書を背負っている。
その重みに耐えられるのは、共に支えてくれる存在がいるからだ。
これまで食事について、それほど意味を見出していなかったが、この先アリシアと結婚して一緒に暮らすようになったら、どれだけ忙しくても一日一度でも一緒に食事をしたい。
そして今日のこの場にも、俺たちを支えてくれている従者たち。
彼らにも今日は交代で、ランチボックスに揚げたての魚を付けたものを食べてもらうことになっている。釣り手は大変そうだが、聞けば貴族伝統のフライフィッシングを楽しんでくれているようだ。
シャーリドでは各自に一皿ずつ提供されるスタイルではなく、大皿に盛ってパーティ会場のようなスタイルで食事をすることが日常であるといい、実際そうしたもてなしを受けた。
少数部族をいくつも束ねて成った王国が故に、王家や貴族の家ではそれぞれの育った『味』を持ち寄る。見慣れない皿の料理も食べてみる。
そうして少しずつ他部族の文化が混ざり合い、その家の『味』となっていくのだ。
まさにテーブルには国の在り様が載っている。
その食事を、アリシアと共に大切にしていきたい。
退屈し始めたレナードを父が抱いて、その小さな背中をぽんぽんと軽く叩きながら、湖面を滑る水鳥を見せている。
あのような父の姿はほとんど記憶に無かったが、きっと見ていたとしても俺がその場面を特別なものだと捉えていなかっただけなのだろう。
穏やかな日常こそが特別で尊いのに、それを全力で護ってきた父の背中はとても大きい。
いつか俺もあんな強くて大きい背中を誰かに見せられるだろうか。
過不足のない動きをするメイドたちがテーブルの上を片付けている。
そこに茶器がセットされ、父が用意してくれたベイスン地方で採れた『ザ・キング』という名の桃を使ったタルトが運ばれてきた。
『ザ・キング』、『ザ』が付くことで『王の中の王』という意を持つ。
自分から見た父はまさに『ザ・キング』だ。
愛の女神様の試練で溺れそうになったという父も、不肖の息子の婚約者に涙を浮かべながら頭を下げた父も、遅くに生まれた末子をあやしている父も、すべての姿が『ザ・キング』の名に相応しいのだ。
父はレナードを侍女に預け、席に戻る。
アリシアはタルトに目を輝かせている。テーブルの中央に置かれた大きな皿に、桃のタルトがたくさんあった。
「では戴こう」
小皿に移した小さなタルトを、フォークではなく指で持って口に運ぶ。屋外のテラスだからいいだろう。
『ザ・キング』の名を持つ桃は焼いてもなお瑞々しく、美味かった。甘さを抑えたクリームととても良く合っている。
「とても美味しいです……。なんだか私の知っている桃ではないみたい……」
アリシアの空いた小皿にトングで優しく掴んだタルトをもうひとつ載せる。アリシアは俺に、『いいのかしら?』という目を向ける。
「いくつでも、食べられるだけ食べるといい」
「嬉しいです! 先ほど『遠慮』が私の中からスタスタ出て行って湖に飛び込んだので、本当に食べられるだけ戴きますわ」
「最初から留守番させておけばよかったわね」
父も笑いながら、そんな母の空いた皿にひとつタルトを置いた。
俺も父も、それから何度も自分や隣の皿にタルトを置いては食べた。
替えの胃の腑が欲しくなるくらいに。
父が、リカルドとクライドも今頃タルトを食べているはずだと言い、さすがの抜かりなさに嬉しくなった。
そして俺は、城に戻ったらベイスン地方の桃について調べるだろう。
どうしてこの名の桃だけが大きく実をつけるのか、そこはどの貴族の領地か。
別にそれでどうこうしようという訳ではない。ただの興味だ。
そうしてまたひとつ我がヴェルーデのことを知る。
いつの間にか、タルトの大皿が空になって従者が下げていった。
***
父と母たちが先に帰り、アリシアと湖の森を散策した。
今は鍵を持っていないので入れないが、王室所有の文庫がある。その周辺が小さな公園のようになっていて花が植えてありベンチや芝生もあり、そこで休んだ。
「今日は両親が来ることを黙っていてすまなかった。泳ぐだけでも大変なのに、事前に知ってしまうと要らない緊張感を強いてしまう気がしたんだ」
「メリッサまでは話が来ていたおかげで、ワンピースで両陛下にご挨拶することなく済みました」
「今度、デートの仕切り直しをさせてくれないか。俺はアリシアと街でキャッキャしたい」
「キャッキャ……ですか?」
アリシアが笑っている。
「そうだ、リカルドがマイラ嬢と街でキャッキャしたいと言ったが俺も同じ気持ちなんだ。アリシアと街を歩いて、気になった店を覗いてみたりケーキを食べたりしてみたい」
「そうですね、街でキャッキャしましょう。リカルド殿下とマイラ様とご一緒しても楽しそうですわ」
「それは楽しそうだが、その次だな。俺はアリシアと二人でまずは楽しみたい」
「分かりましたわ、キャッキャッキャッキャはその次ですね」
アリシアは自分で言って自分で笑っている。アリシアとは何ということのない会話もとても楽しい。それはアリシアが物事を明るく前向きに捉える人だからだ。
今日のようにいきなり両陛下の前に連れていってしまっても、アリシアは驚きを楽しみに換えてくれる。小さいようだが、途轍もなく大きいアリシアの美点だ。
きっとそんな彼女に俺は、心を強く支えてもらっている。
少し陽が傾いてきて風が冷たくなってきた。
「そろそろ馬のところへ戻ろう。ノックスビル家まで送っていく」
アリシアと手を繋ぐ。
この手があれば、どこまでもしっかり歩いて行ける気がした。




