【22】アルフレッド殿下と向き合う(アリシア視点)
湯が張られた白い石の舟に、そろりと足先を入れる。
足を伸ばして横になるのにちょうどいい湯の量だ。なんの香りだろう、甘すぎない爽やかな香りが湯から立ち上って鼻先をくすぐる。
「はぁぁ……いい気持ち……」
我がままを言って、湯浴みを担うシャーリドのメイドたちに下がってもらった。
『お声がけくださればばすぐに参ります』、そう言って衝立の向こうに控えてくれている。今は一人で湯に浸かりたかった。
イクバル殿下は、メリッサにも部屋を与え湯浴みにもメイドをつけてくださった。
一介の侍女にさえ厚い待遇ということは、この騒動がイクバル殿下やシャーリドにとって小さなものではなかったということ。
考えなければならないことがたくさんある。
だけど今だけは政治的なことを頭から追い出して、ゆったりとこの温かい湯を楽しみたい。
湯から手を出して、少しとろみのある湯が手の平から流れるのを見る。
熱くもなくぬるくもなく、本当に気持ちがいいわ。
アルフレッド殿下が助けに来てくださったとき、そのお声を聞いて張りつめていた糸が緩んでしまいそうになった。
恋や愛に疎いとメリッサに言われてしまう私でも、あのときの殿下の目と声に、本当に心配してくださったことを感じた。
一国の王子が、攫われた者が閉じ込められている場所に突入してくるなんてあり得ないこと。
ヴェルーデの問題だけではなく、シャーリドの責任問題さえ大きくしてしまう。
それを分かっているのに殿下は自ら私たちを救いにきてくださった。
でも、だからこそアルフレッド殿下の御心が嬉しかった。
喜んではいけない状況ではあったけれど、私の髪の先までがジャンプするように喜んだのは事実だわ。
かろうじてあの場で涙を落とすことだけは堪えることができた。
抱き上げられたとき、できれば『私を抱き上げている美しいアルフレッド殿下』という図を別目線で見たかった。
そう思う余裕はそのときは無くて、馬車に乗ってからじわじわとやって来た。
アルフレッド殿下が私を寄りかからせてくださってすぐに眠りに落ちた。
温かくて大きな手に支えられ、この図もできれば別目線で……。
それが叶わない分いい夢を見たかったのに、実際は私の髪が白蛇になってうねっている夢だった。
夢の中くらい誰にも迷惑を掛けないのだから、楽しくて美しい夢を見せてくれてもいいのに。
そろそろ洗ってもらおうかしら。
メイドに声を掛けると、すぐに三人のメイドが香油の壺を持ってやってきた。
「御髪がしっとりと艶やかになる香油です。ローズを始めとする五種類の花やフルーツとクルミのオイルを配合しております」
「まあ、本当によい香りね。花の香りの中に、ほんの少し柑橘類の匂いもするわ」
「はい、オレンジが入っております」
「甘いだけではなく爽やかな香りでとても気に入りました」
「髪を洗った後にこちらの香油をもみ込みます」
メイドたちが髪を泡立てて包み込むように洗ってくれる。
公爵家でもメイドが髪を洗ってくれるけれど、洗髪だけに三人も付くなんて贅沢はさすがにしていない。
髪を洗い終えると、美しい貝の中のクリームを布にとって身体を洗ってくれる。
クリームの少しざらついた感じがとても気持ちいい。
つるりと一皮むけたみたいに肌がなめらかになった。
湯浴みから出てワンピースに着替えると、現実逃避から戻って来た感じがあった。
ソファに座り、オレンジの輪切りがいくつも入った冷たい水を飲む。
汗が出ていった身体に冷たい水が沁み込んでいく。
このオレンジ食べてもかまわないかしら。
でもたぶん、私がグラスに指を入れてはしたなくオレンジを食べたりしたら、メイドが飛んできてフルーツの盛り合わせを用意してしまうわね。
他国でのはしたない真似は、ヴェルーデの名誉のために止めておきましょう。
私たちが助け出されて、これですべて終わった……というわけではない。
ここからがイクバル殿下の大仕事になる。
シャーリド、ヴェルーデ、そしてあのデーツ店主が私とマイラ様が思ったとおりにフォートナム王国の元王太子殿下だったとしたら、三か国にまたがる大変な話し合いになるかもしれない。
ヴェルーデは被害者の立ち位置だから、アルフレッド殿下はまずはイクバル殿下のなさることを見守っていらっしゃればいいとして、イクバル殿下はとても難しいお立場ね。
国単位で見れば、加害者の兄となってしまうもの。
自国を訪れた他国の王族の婚約者を、弟が拐わかした。
これをどう決着させるのか……イクバル殿下だけではなく国王陛下も無傷ではいられないかもしれない。
そしてそれにヴェルーデはどう対応するのか、どう収めるのがヴェルーデにとって最善なのか。
アルフレッド殿下は、そして陛下はどうなさるのだろう。
「お嬢様、アルフレッド殿下が別室でお待ちとのことです」
いろいろ考えを巡らせていたら、メリッサが言付を伝えた。
メリッサもつやつやしているわ。
湯浴みの後に着たこのワンピースは丈も長いし襟も少し詰まっていて、アルフレッド殿下の前に出ても問題はなさそうね。
メリッサに手早く髪をまとめ直してもらい、殿下の待つ部屋へと向かった。
「お待たせして申し訳ございません」
「いや、せっかく休んでいるところだったのにすまない」
シャーリドの王宮の応接室は、言うまでもなくとても豪華な設えだった。
アルフレッド殿下がソファから立ち上がって迎えてくださった。
ドアは閉められ、中にはいつも殿下のお傍にいる護衛騎士のジャン様だけではなく、ヴェルーデの騎士もいる。シャーリドの騎士たちは部屋の外にいた。
あんなことがあったせいか、これまでよりアルフレッド殿下の警備が手厚くなっているようだ。
「明日にはシャーリドを離れヴェルーデへの帰途に就く予定だったが、我々の滞在はもう少し長くなりそうだ」
「イクバル殿下直々に、私たちを拐かした者の聴取に同席を求められました。当事者としてお話できることがあればそうするつもりです」
「アリシア、その……隣に行ってもいいだろうか」
急に殿下がそんなことを言いだした。
それに応える前に、アルフレッド殿下は私の隣に腰を下ろした。
「恐ろしい目に遭わせてしまって申し訳なかった。別行動など取らずにアリシアと一緒に居ればよかったのだ……。蛇に噛まれたりはしていないか? 毒が無いとは言っても噛まれれば痛むだろうし、あのような生物が持つ病が……」
急に声を落として早口で言った。
その姿は本当に私のことを案じてくださっているのが伝わって、しかもなんだか焦っているようにも見えて、失礼ながら可愛らしいと思ってしまう。
私も殿下にだけ聞こえるほどの声で返す。
「……フレディ様、蛇には噛まれていません。私は大丈夫ですわ」
「あっ……アリシア……いや、アリィ……その……」
アルフレッド殿下を愛称でお呼びしたら、口籠ってしまわれた。
二人きりの時ならば愛称で呼びますと言ったけれど、今ここにはたくさんの護衛やメリッサもいる。
でも貴族や王族基準で言えば二人きり、よね?
「やっと愛称で呼んでくれてとても嬉しい。このまま二人でまた庭の散策でもしたいところだが、シャーリドの聴取に立ち会う前に二人が互いに知らないでいることを、話し合っておくべきだと思うんだ。
君たちが攫われてしまった経緯や、君とハワード公爵令嬢がどうして仲良くなったのかまで」
「どうしてリカルド殿下がシャーリドにいらっしゃるのかも教えていただけるのですね?」
「そういうことだな。ではまず、リカルドがシャーリドに現れた理由から話そう」
それから私たちは、たくさんの話をした。
あまりにも長くなりそうで、途中でアルフレッド殿下はこの応接室に夕食を運んでもらえるよう頼んでくださった。
運ばれてきた食事は、何度も給仕が行き来しなくてもいいように一人前を長方形のトレーに少しずつたくさんの皿を乗せたものだった。
冷めても美味しく食べられるものばかりで、運ばれてきたときはこんなに食べられるかしらと思ったけれど、殿下と話しながら少しずつ食べていたらすっかり平らげてしまった。
もう何も入らないと思ったのに、今は食後のお茶とお菓子をいただいている。
デーツはしばらく見たくないと思ったけれど、デーツの入ったひと口サイズのケーキは上品な味わいだった。
美味しいお菓子はどんな状況でも別腹にしっかり収まるものね。
「アリィ、ずいぶん話し込んでしまったな。疲れていないだろうか。聴取は長丁場になるかもしれないが、これが終わればヴェルーデに帰ることができる。
これまで広い世界を飛んで周りたいと思ったりしたが、今は我がヴェルーデに早く帰って、君がいる日常を取り戻したくてしかたがないんだ」
「ええ、本当に……何もない穏やかな日々がどれだけありがたいことかと……」
「今回、シャーリドを訪れてやっと解ったんだ。一国の王族、それも順位の高い継承権を持つことの重みを。自分個人の幸せとそれはなかなか両立しない。
イクバル殿下は、あの日殿下専用のバーでこう言っていた。
民の幸せを求めることと自分の幸せを求めることが、どこかで重なる点があるはずだと。だからそれを探して前へ進み続けると。
同じことを想い、進み続ける同じ立場の人間がいてくれることがとても心強いと。
ただ、今の時点でイクバル殿下がその歩みを共にする婚約者については未知数だ。
帝国の皇女殿下の悪い話は聞かないが、どれだけ調べたところで実際のところはたくさん話してみなければ分からない。
でも俺には君がいる。その途方もない幸せが今の俺には眩しいくらいだ」
「……フレディ様……あなたを、あなたの歩みをお支えできるように、少しでもその両肩に載るものの重さを軽く感じていただけるように、お傍にいたい、そう思います」
「ありがとう……でも俺も君の支えになりたい。互いに支え合っていければ、こんなに嬉しいことはない。
ああ、こんな時間になってしまった。さすがに部屋に戻らないとならないな。
早くこうして別の部屋に別れなくてもいいようになりたい」
……少し眉を下げて、憂いをまとった声でそんなことを言うのは反則ですわ。
美しいお顔立ちと憂いというのは相性が良すぎるということに気づきました。
「……フレディ様、部屋に戻ります。明日はよろしくお願いいたします」
「ああ、アリィもゆっくり身体を休めてくれ。また明日」
「おやすみなさいませ」
部屋に戻り、メリッサに頼まずもう休んでもらい自分でお茶を淹れた。
アルフレッド殿下とのさまざまな話を頭の中で整理をしたい。
リカルド殿下が『王の三つ眼』の一人だったという衝撃的な話があった。
それを聞いて、アルフレッド殿下から婚約破棄と告げられた直後にリカルド殿下が私の前に現れたことを話した。
あの時は特に何も思わなかったけれど、リカルド殿下が『王の三つ眼』だったとしたら話は変わってくる。
アルフレッド殿下も私も、婚約破棄のことは陛下に知られていないと思っていた。
これはあの時リカルド殿下がいらしたことを、アルフレッド殿下に伝えていなかった私の大きな過ちだ。
アルフレッド殿下は陛下から『婚約者と一緒にシャーリドの饗応役を担え』と言われて、たった三時間で婚約破棄を告げたことを撤回しにいらした。その時の陛下はすでに殿下が婚約破棄だと私に告げたことをご存じだったのだ。
この可能性についてアルフレッド殿下も私も気づいていなかった。
それもこれも、あの時リカルド殿下が現れたことを私が特に気に留めていなかったせい。
そのことを謝罪すると、殿下は『すべては愚かなことをした自分のせいだ』と言ってくださった。
アルフレッド殿下は『ヴェルーデに帰ったらすぐに陛下に拝謁を願うことになるが、その時に婚約破棄を告げてしまいそれを撤回したことを説明する』、私の目をまっすぐに見てそう言った。
それから殿下から思いがけないことを聞かれた。
それは私に学園に復学する意思があるかということ。
私のお妃教育はもうほぼ終わっている。
ここから先は婚姻式までの準備期間となり、同時に公爵家の人間としての役割を果たしていくつもりだった。
私より一つ年上のアルフレッド殿下はもうすぐ卒業で、私がもし復学するとしたらあと一年は通うことができる。そして私が卒業したらすぐに挙式するのはどうかと尋ねられた。
シャーリドでシャフラーン語の通訳としても、ヴェルーデ第一王子の婚約者としてのふるまいも素晴らしかったと言ってくださった。
学園に復学して自由に学び多くの人たちと交流を深めることも大事だと、何より婚姻までの短い時間を友人たちと楽しく過ごして欲しいと、優しい言葉をいただいた。
私の復学について考えてみたことはないけれど、もしも戻れるならこんなに嬉しいことはないわ。
友人たちとの失われた日々に思いを馳せることはずっとあった。
アルフレッド殿下が卒業したら挙式という予定を一年延ばし、その間にはイクバル殿下をヴェルーデにお迎えする役割もある。
殿下は『すぐにでも結婚して一緒に暮らしたい気持ちは強いが』といいながらも、私の復学を望んでくださった。
私のことをそこまで考えてくださっていることに、うまく言葉にならないほどとても嬉しい。
なんでも、私が受けているお妃教育のスケジュールを調べてくださったこともあったとか。あまりにも多岐にわたる学びの内容とその量に驚かれ、アルフレッド殿下自身ももっと学ばなくてはいけないと、それから王宮での学びの時間を増やされたという。
さらにシャーリドでイクバル殿下とバースィル殿下とたくさんの言葉を交わして、思うところがあったと言っていらした。
私が復学して学園に通う一年の間に、殿下も立太子するにあたってこれまでとは違った教育をさらに受けたいという。
殿下がずっと思い続けてきた『広い世界を見たい』ということの本質は、こういうことだったのかもしれない。
脳内のノートに、『民の幸せと王個人の幸せの重なる点』と記し、明日に備えて少しでも眠っておこう。




