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【20】シャーリド王国 第二王子(ガズワーン視点)


何もかもが気にいらない人生だ。

生まれた順番も、側室腹から生まれてきたことも。


父王は『賢王』と呼ばれているのに、何故自分の実母のような女を側室にしたのか。

第一貴族の令嬢だったが、実母サルワーには『慈愛の心』がない。

教養はあるのだ。

実母の出身であるザイヤール家は、元は商人だ。商人の血筋が故に、シャーリドでは珍しく女にも学をつける。

しかしその豊富な知識が実母の慈愛の無さに拍車をかけていた。

実母は他者のことを自分にとって得をもたらすか損を与えるか、それだけで振り分けていた。自分に害を成すのであれば容赦なく切り捨てる。許すという言葉は実母の辞書にはない。


腹を痛めて産んだ自分に対してもそうだった。

側室として子どもを産むことが最も重要な役割だった、だから産んだ。それだけだと言われた。

まだ言葉もうまく話せなかった幼い頃──おそらく一番古い記憶だろう──たった一度だけ実母に抱きしめられたことを憶えている。

胸に抱きとめられ額にかかった髪を掬うように何度も撫でてくれた。

それ以降、ただの一度も抱きしめてもらったことはない。

その朧げな記憶を支えにしてここまできたのだ。


シャーリドでは十の誕生日までが子どもで、それまでは母親から人形などの無邪気な贈り物をもらえる。そこから先は、本や剣など人生に必要なものが父親から贈られる。

だが私は実母から一度も誕生日の贈り物をもらったことがなかった。

十の誕生日の日、私は実母に『何故、誕生日に何もくださらないのですか』そう尋ねた。

実母は、その日は母である自分が大いなる仕事を成した日であって、ただ産まれてきただけの子どもが何をした日だというのか。そう淡々と答えただけだった。


その日は王妃殿下が、私のイニシアルを刺繍した薄い掛け物をくださった。

それより少し前に、

『今のあなたが好きな色と好きな動物は何かしら?』と尋ねられ、私は青色と馬が好きですと答えた。

青色は王妃殿下の美しい瞳の色、馬は自由の象徴だった。

そして王妃殿下は私の誕生日に、青いたてがみの白馬と私の名前を青い色で刺繍した掛け物をくださったのだ。

それをいただいた時には実母もいたが、特にその顏になんの感情もなかったことを強く覚えている。

薄いその掛け物は肩に羽織ったり膝に掛けたりするのにちょうどいい大きさで、夜に眠る時もソファで寛ぐ時もずっと愛用した。

刺繍された自分の名前を指で触れると、母の温もりのようなものを感じた。

王妃殿下が自分の母親だったらどれだけよかったか、私はそれから毎晩その掛け物を抱きしめて眠りについた。


庭で王妃殿下にまとわりつくようにしているすぐ下の異母弟バースィルと、王妃殿下と笑い合う異母兄イクバルを自分の部屋の窓からいつも見ていた。


どうして私は王妃殿下から産まれてこられなかったのだろう。

どうしてあの優しそうな手でいつでも触れてもらえる子ではなかったのだろう。


それらの『どうして』と引き換えに、私は父王を継ぐ者になろうという気持ちを育てた。

イクバルでもバースィルでもない、王妃殿下に撫でてもらえなかった私が父王の椅子に座ってやる。

側室から産まれた子どもに目を向けない父王の、大切な王妃殿下を私の母とするために。

あの椅子に座ったら、それを私に一番望んでいる実母の首を掻き切る。

そして今際いまわの際に言ってやるのだ。

『何故、産んだだけの女が母と名乗り、今日の日を寿いでいるのですか』と。


だが、おそらくどんな努力を重ねても、このままではそんな日は来ない。

異母兄はあらゆる面で私よりも秀でている。

結果を出せる才能に、ひたむきに努力ができる才能もある。

周囲に目も気も配り、自分の言葉が産みだす未来の形を考えてから物を言う。

その上、王妃殿下からのまっすぐな愛を一身に受けて、慈愛にも満ちている。

実母からひび割れた器を持たされて生まれた私は誰からの愛情もそれに溜めておけず、よってそれを誰かに注ぐこともできない。

私は異母兄イクバルに勝てるものを何ひとつ持っていない。

王妃殿下から生まれてこられなかったことだけで圧倒的な負けなのだ。

だから正攻法ではないやり方で、イクバルに約束された椅子を奪うしかない。

私が王妃殿下を母とするには、それしかないのだ。




デズモンドにわざと見逃すように言ったヴェルーデの侍女が、私の前に連れて来られた。

震える侍女は、ヴェルーデのハワード公爵令嬢の侍女だと名乗り緊急の用事だと言った。

まだこの城に滞在しているハワード公にすぐに会わせて欲しい、ハワード公のところまで案内してもらえないかと涙ながらに言った。

私はヴェルーデの言葉で、身分を証明できるものがなくともそなたが嘘を言っているようには思えないので案内しようと伝えた。

すぐにハワード公のところへその侍女を連れて行くと、ハワード公はひどく驚いた顔をした。それはそうだ、自分の娘が何者かに攫われたのだから。

兄上の婚約に関わる視察のためにシャーリドに来ていたというのに、そんな酷い目に遭うとハワード公爵に予想はできなかっただろう。

ハワード公は怜悧で狡猾な人物だと聞いていたが、さすがに娘が攫われたとあれば驚きを隠せないものなのだな。


「ハワード公、大変なことが起きたようだが安心してほしい。私は父王のところへ報告に行く。公爵はここで暫し待っていていただきたい、必ずやご令嬢を助け出す」


私は足早に父王の執務室に向かった。

心臓が逸るように打ち、その胸の音は私の靴音より先に転がっていく。

だが私は気づかなかった。

侍女は『何が起こったか』、何も言っていなかったことを。

私が案内した侍女を見たハワード公が驚いた顔をしたことを。

それがどういうことなのか気づくことなく、父王の居る執務室のドアの前に立った。



「陛下、急ぎお耳にいれたいことがございます」


挨拶もそこそこにそう言うと、父王は片眉だけを上げてこちらを見る。

それを『続きを話せ』という合図と受け取り私は姿勢を正した。


「ヴェルーデからの客人である公爵令嬢が、城下の街中で何者かの手によって攫われたようです」


「なんと……」


父王は眉間を掴むような仕草をして、絞り出すように呟いた。


「兄上はヴェルーデからの客人にいかほどの警護をつけたのでしょうか。シャーリド城下でこのような狼藉が起こってしまっては、ヴェルーデとの関係性にヒビが生じる恐れがあります。すぐに私にヴェルーデの客人を捜索する命をください。兄上だけに任せてはおけません」


「そうか。ならばイクバルと話す必要があるだろう。──イクバルをここに呼ぶ」


「……兄上を、ここに……?」


まるで表で待っていたかのようなタイミングで、異母兄イクバルが入り私から少し離れて立った。

何故、陛下は異母兄をここに呼んだのか。


「ガズワーンよ、ヴェルーデの令嬢が攫われたというのはどこから聞いた話か」


「はい、助けを求め王宮に逃げてきたヴェルーデのハワード公の侍女が……」


陛下の目が射貫くように私を見ている。

侍女が、私に助けを求めて、それで……ハワード公爵のところへ……。


「……緊急の用事だと……ハワード公爵のところへ案内してほしいと……」


「うむ。そしておまえはハワード公のところへその侍女とやらを連れていったのだったな。それで?」


侍女は……私になんと言った? 

ハワード公はなんと……?

緊急の用事……としか……侍女は言っていなかった、のか……?


強い光を当てられたように、目の前が真っ白になった。

頭から血が下がり、吐き気がこみ上げる。


「ガズワーン、ハワード公におまえは何と言ったのだ?」


必ずやご令嬢を助け出す、私はハワード公にそう言ったのだ……。

まさか……自分がこんな、初歩的な失態をしでかすとは……。


陛下は組んだ両手に顎を載せて、じっと私を見ている。

その陛下の目から、私には最早なんの策も残されていないことを知った。

そしてイクバルの目も、驚くほど陛下によく似ている。

私は陛下に似ているところがあるだろうか。

こんな時なのに、私はそんなことを思った。



「ガズワーン、先ほどサルワー妃とジャンナ、そしてドリーヤ嬢を『別邸』に案内した」


陛下の問いに答えられなかった私に、異母兄は静かな声で言った。

その声にも瞳にも、侮蔑や嘲笑や憐憫も宿していない。

何を思っているか、顔にもどこにもその答えを灯さない。

異母兄イクバルとはそういう人物だ。

どうしたらそこまでになれるのか、私は生涯をかけて知りたいと思っていたが、どうやらその『生涯』もそれほど残っていないようだ。


ただ異母兄も間違った。

『別邸』に送り込んだ女たちの名前を告げれば、私が取り乱すと思っているのだと思うと、少し呼吸がしやすくなった気がした。


「その中に私の一番大切な人がいなくて、安心しました」


「……どういうことだ?」


陛下とイクバルの目が揺れているように見え、また少し気分が良くなる。


「どういうことも何も、申し上げたとおりの意味です。

『別邸』に私の身近な女たちを入れてなんらかの抑止力、または私との取引の材料に使うおつもりだったかもしれませんが、その三人の生死に対し、まつ毛の先ほどの興味もありません」


陛下が何かを合図したのか、陛下の横に居る二名の騎士が剣を抜き身にして私に向けた。


「ガズワーンよ、何故おまえの野望にヴェルーデを巻き込んだのだ。ヴェルーデは我がシャーリドの大切な友好国だ。おまえが他国を巻き込むような真似さえしなければ、おまえの処分はどうにでもできたというのに。おまえの判断がおまえの未来を潰したのだ」


「……はい。他国を巻き込むほどでなければ聡明な兄上を失脚させることはできないと思っていました。何を画策しようとも私は兄上を出し抜くことなど不可能だったのだと、そう知っただけですべては終わった、そういうことなのでしょう。ヴェルーデと、私のせいで『別邸』に送られてしまった何の咎もない三人には申し訳ないと思っております」


「申し訳ない? それだけなのか? おまえのっ、ガズワーンの実母に妹に恋人だろう!?」


「兄上、その者たちに申し訳ないなとは思いますが、この世でたった一人の大切な人はそこにはいませんので」


何を言っているのだという目で私を見る異母兄に、ひとつでも何か残せた気がして私はますます気分が良くなった。



「陛下、そして兄上。私は間違いを犯しました。逃げも隠れもいたしませんが、その騎士たちをそのまま伴って、自室にいったん戻ってもよいでしょうか。どうか私に大切な忘れ物を取りに戻る時間を、最期の温情にいただけないでしょうか」


「ガズワーン、忘れ物を取りに戻ることを許可する。ただし逃げることは許さない。それがおまえの希望する死だとしてもだ」


「陛下、許可をありがとうございます。そして承知いたしました。決してどこにも、ましてや『死』にも逃げません」



その時、静かに執務室のドアが開いて、王妃殿下が入ってきた。

身体の力が抜けて膝が崩れそうになったが、なんとか臣下の礼の形にもっていく。


「剣を戻しなさい。この子はここの誰にも危害を加えることはしませんよ」


王妃殿下は、私に刃を向けている騎士たちにそう静かに言った。

床に目を落としている私の視野に、淡い水色のドレスの裾が映った。

そして跪いた私を抱きしめ、前髪を掬うように何度も撫でる。


「ガズワーン、あなたも私の大切な子どもなのよ……。陛下のお子は誰もが私の子なの」


少し震えている柔らかな声と前髪を掬うように撫でてくれる温かい手が、ふいに幼き日の記憶を連れてきた。

私の、一番古い記憶……。

母に抱きしめられ髪を撫でられたあの記憶は、実母ではなく王妃殿下だったのか。

そう思い至った途端、私を縛り付けていたあらゆる執着の蔓が解けて消えていった気がした。


──そうか、あれは王妃殿下……。そうか……。


白黒だった記憶が、新しい絵本のように鮮やかな色をまとう。

緩く抱きしめてくれていた王妃殿下の腕をそっと解いて、私は立ち上がった。


「王妃殿下に申し上げます。王妃殿下の御子はイクバル殿下とバースィル殿下のみです。

慈しみの御心、ありがとうございました」


王妃殿下が私をどんな目で見ているのか、確かめる勇気はなかった。

この程度の勇気も持ち合わせていないのに、陛下の椅子を欲したとは笑止千万だ。

陛下とイクバル殿下に深い礼をして、執務室のドアに向かって歩く。

驚くほど身体が軽く、今なら馬でどこまでも──砂の果ての陽が沈む処まででも、一気に駆けていけそうだ。



自室に戻り、再び剣を抜いた騎士の前で『忘れ物』を抱きしめる。

夜毎、私の涙と孤独を吸いとり乾かし、暖めてくれた掛け物をもう濡らすこともない。


「すまないが、私が鋏を持つわけにはいかないだろうから、この刺繍の部分を小さく切り取ってもらえないか? 鋏はこの引き出しの中にある」


騎士は訝しい目でちらりと私を見て、引き出しの中から鋏を取り出した。


「そうだ、その刺繍の部分を」


くたびれた掛け布に騎士は少しためらいながら、そしてすぐにジャキジャキと鋏を入れていく。

小さなハンカチほどの大きさになったそれを、丁寧に畳んで懐にしまった。


「ありがとう。もう私は何も思い残すことはない。地下牢でもどこへでも連れて行ってくれ」


王妃殿下が刺繍をしてくれた布がある胸を、服の外から拳で軽く叩く。

誰の息子でもないただの私になり、青いたてがみの白馬に乗って地平線に触れる夕陽に溶けるのだ。

とっくに剣を鞘に戻していた騎士たちは、無言でただ私を見ていた。



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