【14】謝罪と懇願(アルフレッド視点)
「王宮の庭は前庭のほうが豪華に造られているのですが、私はこちらの西の庭が好きなのです」
イクバル殿下はそう言うと、ここを見てくれと言わんばかりに片手を大きく挙げた。
小さな白い橋が架けられているが、橋の下に水はなく青い小花がみっしりと水に見立てて植えられていた。
その青い花の中に光る何かが埋められているのか、ところどころ幻想的にぼんやりと光って見えて、息を呑むほど美しい。
アリシアも目を見張っている。
「我がシャーリドでは水は貴重で、庭に池や噴水を作ることはできません。いや、もちろんできなくはないのですが、一杯の澄んだ水にも困窮する民がいる中ではどうにも。
ただ、こうして花を植えておくのも水を湛えておくのとそう変わりはないでしょう。花には水を与えねばなりませんから。
それでもこのほうがいくらか罪悪感は薄まります。
ここは王妃である私の母が管理している庭で、私のお気に入りの場所です。
水の都と称されるヴェルーデ王国のアルフレッド殿下にはつまらぬ景色かもしれませんが、是非ひと時のお愉しみになればと」
ぐるりと庭を見渡す。
計算し尽された庭なのだろうが、そうした意図を遥かに超えて植物たちの生命がまっすぐに心を捉える。
アリシアも瞳を輝かせて花々を見つめていた。
「どこを見ても一枚の絵のようで、この庭の素晴らしさに見合う言葉がなかなか見つかりません。王妃殿下とイクバル殿下の水と民を思う御心で満たされた花の池を、もう少し眺めていたいものです」
「どうぞごゆるりと。私はこれで戻りますが騎士は残しますのでご安心ください。
向こうには噴水に見立てた花壇もありますので是非に。
アルフレッド殿下、そのあとにお疲れでなければ私の専用バーにお招きしたいのですが。
男同士の内緒話など、いかがかと思いまして」
「殿下専用のバーですか! 男同士の時間とは素晴らしいですね、ぜひお願いします」
「では後ほど庭からお戻りになり次第、案内の者が参ります」
イクバル殿下はそう言うと自身の護衛騎士を連れて戻って行った。
男同士の内緒話とはなんだろう。おそらく男同士のというより王子同士のという話なのだろう。
アリシアの顔に少しの緊張が見てとれる。
「アリシア、噴水に見立てたという花壇まで行ってみないか」
「……ええ、まいりましょう」
アリシアの手を繋いで歩きたいと思ったが、その手を取ることはできなかった。
そんな恋人のようなことをする前に、俺には言わなければならないことがある。
「まあ! 噴水のように花が立体的に植えらえていますわ!」
「ああ、うまく作られているな」
アリシアが目を丸くして花を見ている。
その横顔を見ながら、俺は覚悟を決めた。
「あのベンチに座らないか。話したいことがあるんだ」
アリシアは黙って頷き、傍にあったベンチに少し間を空けて座った。
あの花壇が本物の噴水であれば水音が聞こえるところだが、もちろん何の音もしない。
この静けさの中で、自分の胸を打つ音がアリシアに聞こえてしまうのではないかと思いながら、大きくその静かな空気を吸い込んだ。
「あの日、君に婚約破棄と伝えてしまったのは、あまりにも軽率で大きな間違いだった。
きちんと謝ることもしていなかったので、改めてあの日のすべてを謝罪したい。
……申し訳なかった」
王族は軽々しく頭を下げるものではないと教えられてきたが、同時にすべてのことに責任を持てとも言われてきた。
誰もいないように見えて、俺とアリシアの護衛の者、そしてシャーリドの騎士もいるこの場所では不適切なのだろうが、だからこそアリシアに伝わるものがあるはずだと、そう思いたい。
「……殿下、どうか頭を上げてくださいませ。差し支えなければ、あの日の殿下のお言葉の真意をお尋ねしてもよろしいでしょうか」
許されたわけではないが、とりあえず頭を戻す。
そしてアリシアにだけ聞こえる大きさの声で話し始める。
「将来の結婚相手として婚約者のアリシアに不服があったわけではない。五年、十年、自分の結婚はそのくらい先でいいと思っていた。
自由でいたい自分に婚約者という存在が足枷のように思えてしまった。
君に婚約を破棄したいと伝えた直後に父にその話をしようとしたところ、君と二人でシャーリド一行の饗応を担えと言われた。まさかたった今婚約破棄と伝えたことは言い出せなかった。
それですぐに撤回に出向いたのだ。自分の身勝手さとみっともなさに反吐が出そうだ」
父である王がまだ若く健康であることから自分がその後を継ぐのはかなり先の話であり、もっと世界を広く見て回りたいと甘い考えでいたことを、言葉を紡ぎながらなんとか伝える。アリシアの前で自分を取り繕うことはしたくなかった。
「……自分が王を継ぐ者という自覚も覚悟も、その時の自分には足りなかった。
その重みから逃げるように目を背けていたというべきか……。
帝王学は学んでいた。だがその学んだものが自分の昨日や明日にうまく繋がっていなかった。
自分の未来も、その隣に立ってくれるはずのアリシアの未来も、何も見えていなかった。
婚約を破棄したいというその小さな雪玉のような言葉が転がっていけば、大きな雪崩となってすべてを壊し呑み込んでしまうことに繋がると、あの時の自分は気づけなかった」
そこで言葉を切ると、アリシアはじっと黙っていた。
何かを考えているような、戸惑っているような、そんな表情を浮かべている。
「……もしも、あのまま婚約破棄となったとして、五年十年のちに殿下が結婚相手を必要だとお考えになった時、そこでわたくしともう一度婚約をというおつもりはあったでしょうか」
アリシアの言葉を頭の中で繰り返す。
五年十年のちの自分が再びアリシアと婚約を結び直そうと考えていたか……。
自分の浅薄さゆえの残酷な答えにぎゅっと目を瞑る。
「……あの時の自分は、愚かなほど自分のことしか考えていなかった。
君との婚約を破棄し、世界とやらを見て回って満足した五年十年後の予想絵図には自分しかいなかった……あまりにも……酷い話だ……」
「今、わたくしは十七。十年経てば二十七です。その年齢までわたくしの父がノックスビル家の娘として家に置いてくれるはずもなく、かといってヴェルーデ王国の第一王子殿下から婚約を破棄された娘としてどこかに嫁ぐことも難しいでしょう。
王家から縁を切られた公爵令嬢という立場は、誰かが引き取るには重すぎますわ。
もちろん改めて殿下と婚約が結ばれることもあり得ません。
お世継ぎと、お世継ぎを支える兄弟を産むのに、婚約が二十七では遅すぎますもの。
殿下の予想絵図の中で、婚約破棄となったらその時点でわたくしの未来は黒く塗りつぶされるところだったのですね……不敬な物言いを申し訳ございません」
アリシアの言葉は、シャーリドの乾いた空気の中でじっとりと重みを持って俺の中に流れこみ、足から溜まっていくようだった。
愚かという言葉では到底足りないほどの、愚かな過去の自分に顔を叩かれている。
「……本当に申し訳なく思う……。時を戻せるならあの日の自分を殴りつけたい気持ちでいる。
この愚か過ぎる俺を許して欲しいとは言えない。
でも今は、俺の今日にも明日にも、アリシアが居ないことは考えられない。
あれから君と一緒に過ごして、俺が見たい広い世界はアリシアの目を通した世界でもあると気づいた。どうか、このまま婚約者として隣にいて欲しい。俺を許さなくてもいいから」
「わたくしに、許して欲しいと、そんなわがままを言ってはくださらないのですか?」
「……アリシアに……許して欲しいと言っていいのか……。
愚かなこのアルフレッドが、君に好きだと言うことを……どうか許してもらいたい」
「そ、それについてはまだ許すつもりはありません!
ですが婚約破棄については、事が明るみになる前のことでしたので、父も誰も知りません。わたくしと殿下の内々のこととして収め、許したいと……そう思っています。
それは殿下のためだけではなく、わたくしとわたくしの家のためにも、です。
誰かを許さずにいるというのは、悲しい記憶に磔にされているように苦しいのです。
わたくしはもう前を向き、過去のことに囚われる時間を他のことに使いたいと思います」
「誰のためであっても婚約破棄について、許したいと思ってくれること、ありがとう。
そして、君に好きだと言うことを許すのは『まだ』というのであれば、いずれその可能性もあると思っていいのだろうか」
アリシアはじっと考えている目をしていた。そしてゆっくりと言葉を選んで紡いだ。
「今日、婚約が調った二人のように……ゼロから日々を重ねてまいりたいと、そう思いますわ」
「ゼロから……マイナスからだと言われると思った」
「あっ、そうですね、やはりマイナスからにします!」
アリシアは慌てたようにマイナスからだと言い直した。それを笑って言ってくれたことで、俺は図々しくも救われたように思えた。
「マイナスからせめてゼロに戻せるように頑張りたい。王国と王家のためにはアリシアのように優秀で民のことを思っている女性が将来の王妃に相応しく、俺のためにはしっかりしている中に時々見える可愛らしさを持つアリシアが必要なのだと、やっと気づくことができたんだ……もう間違えたりしないと誓う」
「……誓うのは……よろしいのですけど、近いのは……困りますわ」
「す、すまない。つい寄ってしまった」
「……いえ」
俺は距離を取り直しながら、もう一つ言いたかったことを言葉にする。
「できればフレディと呼んでほしいんだ」
「フレディ……様、む、むずかしいですね……フレディ様、フレディ様」
「……嬉しいな。なんだか心地がいい。俺も、アリシアを特別な愛称で呼びたい。何か、あるだろうか。俺だけが呼べる愛称が」
アリシアは少し考えるように遠くを見る。
「私の名前はそう長くないので、誰からも愛称で呼ばれたことはないのです。幼い頃、父が時々からかうように『マイレディ』と呼んだ以外は。
アルフ……フレディ様が、何か思いついたものがあれば」
「……では、アリィというのはどうだろう。俺がフレディだからアリィ。お揃いみたいではないか」
アリシアが小さな声で笑った。
「アリィ、なんだか可愛らしい子供みたいですけど、ではそれで」
「アリィ、アリィ。いいな!」
「ですが、二人の時だけにしてください」
アリシアから愛称で呼んでもらうことも呼ぶことも許されたが、今夜の俺は少し強欲だった。
アリシアにマイナスからの再スタートが与えられたことに感謝しかなかった。
アリシアの広い心によって俺だけではなく、その実、王家も救われたのだ。
隣国で多くの者たちの前で婚約破棄を宣言した王太子殿下は、元婚約者の令嬢の『未来の王太子妃として許し難い行いの数々』のすべてが捏造だったとすぐに明るみに出て、王籍から消され国外追放となったと聞いている。
一人息子だった王太子がいなくなり、その椅子をめぐって王宮では争いと混乱が生じているという。
その様子を帝国が見過ごすわけもなく、今の状態がこれ以上続いてしまえばフォートナム国の未来は危うい。俺はヴェルーデを同じ危険に曝す寸前だった。
アリシアがいなければ、シャーリドの美しいこの王宮庭園に立つことはなかっただろう。
アリシアに許されて、やっと『広い世界』を見ることができると気づき、整えられた庭の白い敷石の上を、その感触をかみしめる様に歩いて戻った。




