第1章:イリス(6)
さてここ、アガートラム城下街は路地裏のゴミ置き場の真っ只中に、濃緑の甲冑をまとった二人の男がいる。
「なあジョン。俺達は何でこんな所にいるんだい」
「そりゃあ、合図があるまで街に潜んでいろと、命令が下ったからだろう、ビル」
「だからって、こんな所にまで隠れる必要があるのかい」
「何を言う。アースガルズ兵たる者、念には念を入れるのだ」
そう、彼らはアースガルズ皇国の兵士であった。会談という名の下、宰相ドグマ・コルダック率いる大勢の兵のうちの一人、いや二人として、はるばる大国グランディアにやって来た彼らは今、すっかり廃棄物に塗れてまるで迷彩姿と化している。ガサゴソと身じろぎする様は、生ゴミを漁る野良犬と勘違いされても文句を言えない。
「それにしてもジョン、何故俺達は隠れていなきゃいけないんだ」
「何、腑抜けた事を言ってるんだビル。お前は、出発前の話を聞いていなかったのか」
「聞いたような気もするが、忘れたよ」
「そんな肝心な話を忘れるな阿呆。いいか、この会談は建前なんだぞ。使者として城に入った宰相コルダック様が、女王を抑える。それを合図に、俺達兵士はわーっと飛び出して、城下を制圧するって寸法だ」
「うへぇっ!? それって、グランディアを乗っ取るって事じゃないか!」
「しーっ、声がでかい!」
ジョンは慌ててビルの口を抑える。余りに慌てていたので、ついでに鼻と首根っこも抑えた。ビルはじたばた暴れ、勢いに任せて相手を投げ飛ばす。巧い具合に重なりあっていたゴミ山は、ジョンと共に音を立てて派手に崩れた。
「何しやがるビル!」
「それはこっちの台詞だジョン! お花畑の向こうでお祖母ちゃんが物凄く良い笑顔で手を振ってるのが見えたぞ! 死にかけてたぞこれ!」
「お前みたいな阿呆はいっぺん死なんと治らんわ!」
ごりごり額をこすりつけ合い、身内で一触即発の二人。その頭上から。
「さっきからやかましいんだよー!!」
物凄い剣幕の声が降ってきたかと思うと、がごん、ごげん、といい感じの音が二度。兜越しにも金タライの衝撃は良く響き、二人はそのまま仲良くゴミの中へ倒れ込んだ。
「まったく、最近の若いモンは、どういう神経してるんだろうねえ!?」
真上の民家では、ふくよかな中年女性がぶつくさと文句を垂れながら、三階の窓を閉めるところだった。
だが、もし彼女が、ゴミ山に沈めた連中の会話内容を聞いていたならば、そんな余裕は皆無だったろうに。
「余計な抵抗はしない方が、皆さんの為ですよ。こちらとしても、女王陛下の名を使うには、生きていてくださった方が、何かと都合が良いのでね」
光の加減では黒にも見える銀髪を揺らし、血色の瞳を細め、目の前に立つ男は、恐ろしくも妖しい笑みを顔に満たして、グランディア騎士達に牽制をはかった。
気味が悪いくらい綺麗な長い指は今、女王の首に回されている。いつでも、一息に括り殺せるように。
アースガルズ皇国の一行が議場に入ってきた時、いや、それ以前から異様な雰囲気は漂っていたと、エステルは長年培った為政者の勘で感じていた。宰相ドグマ・コルダックを先頭にやって来た兵の中で、魔族との混血らしき者が多く見受けられようと、会見の場へ、宰相と共にこの異質な男が現れようと、大した驚きではなかったのだ。だから彼が突然、詠唱も無しに自分の前に転移してきた時も、相手の予想よりは動揺を見せていなかっただろう。
席についた先方に、侍女が明らかに緊張しきった震える手で紅茶を淹れ、「あっ」と男の前のカップから茶が溢れた時。無礼を詫びるより先に、この男が手を伸ばし侍女の首をつかみ、こきり、とあまりにもあっけない音を立てて頭があらぬ方向に傾くと、くたん、と彼女は床に崩れ落ちた。
そこから更に一瞬。手の一振りによる圧倒的な魔力で、室内にいた女王騎士団の首を一斉に飛ばし、その首が床に落ちきるより早く、女王の両脇を固めていた騎士団長と聖剣士が抜剣するより先に、王手をかけていた。
十数える以上も遅れて、宰相の隣に座っていた黒髪の少女が、恐怖に引きつった悲鳴をあげる。最初から、宰相ばかりが偉そうに振る舞うその後ろで所在無げにしていた彼女は、完全に計画の範囲外に置かれ、何も知らされていなかったのだろう。
ユウェインやピュラが、目前で何も反撃できぬ状況に焦りと苛立ちを隠せずにいるが、敵の手中に収められた当のエステルは、この場にいるグランディア側の人間の中で最も落ち着き払い、皮肉を放つ。
「貴方がたが『対話』のみで周辺国を併呑してきた、その手法がようやくわかりました」
「お言葉ですね。まだ三度目ですよ、この手は」
男が心外そうに肩をすくめる。完全に上手を取ったという態度に、エステルは腹立たしさを押し隠して詰問した。
「改めてお聞きしましょうか。貴方がたがこの会談に訪れた、真の目的を」
するとそれには、自分が計画したのだろうに、仲間の起こした惨事に失神しかけていた宰相コルダックが、優位に余裕を取り戻し鷹揚と答える。
「なに、簡単な事ですよ、エステル女王陛下。我らの後ろ楯として、貴女の名を拝借したいだけです。アースガルズが、大皇国として大陸の覇者となる為にね」
「お受けしかねます」
あっさりと、しかも安直な本音をさらけ出した相手に、嫌悪さえ覚えた。自身が人質となっている事を感じさせず、女王は毅然とした態度を崩さない。しかし。
「おやおや、あまり意固地になられると、こちらとしても困りものですな。お国を飛び出し、聖王教会へ向かわれた姫君に、『万一の不幸な事故』が起きても、文句は言えますまい」
その台詞に、エステルはひゅっと息を呑んだ。公表してもいない娘の不在だけでなく、所在まで言い当てた以上、ただのはったりとは思えなかったからだ。さらにコルダックが続けた言葉に、彼女は完全に平静を失うこととなる。
「まあ、貴女の第一王女にもしやの事があっても、王位継承者はおりましょう。それ、今ここにも」
そうしてアースガルズの宰相は、今まで紹介もせず放置していた、あの少女を指し示した。自分が話題の中心に上った事に、一拍遅れて気付いた少女はますます怯え、黒にも近い蒼の瞳を、すがるようにエステルに向ける。立場なら、助けを請うのはこちらだろうに。
エステルの独白にも少女の恐慌にも気づかず、興奮気味に、コルダックは宣言する。
「こちらにおわすのは、我らが大陸統一の象徴として掲げる、テルフィネ・キルク・フォン・ラヴィアナ殿下。貴女の姪であるお方なのですからな!」
意味を理解した途端、視界が激しく揺れた。いつもの不調のせいでも、首を抑えられているせいでもない。
何故アースガルズが、どこから、という疑問符を差し挟む心の余地は無かった。亡夫の故郷と同じ『ラヴィアナ』の名が、その響きだけで、培ってきた冷静さと気丈さを、女王から根こそぎ奪い去ったのだ。
「あれは彼の望み。僕が望むのは、そんなくだらぬものではない」
すっかり脱力し、椅子の背もたれに力無く寄りかかるエステルの耳元に、男が端正な顔を寄せて、口説き文句のように、甘く囁く。謎掛けすら含んだ、恐るべき言葉を。
「求めるものを手に入れ……そして、全ての破滅を」




