第1章:イリス(5)
父が、北方の王国ラヴィアナの出身である事は、知っていた。王家の者でありながら、その身分を棄て、母の伴侶として傍に居続ける道を選んだ事。それでも、故郷の人々を見捨てられず、荒れた旧国土の復興を支援していた事。城を空けていたのは、現状を自分の目で確かめる為の、数多き遠征だった事も。
「確かに、当初はそれだけでした」
研究室を兼ねた自室で、ティムは人数分淹れた珈琲のマグカップを、イリス、ユリシス、クラリス、リルハの順に配り、最後に自分の机の上に置くと、「砂糖とミルクはお好みで」とポットをテーブルの上に置き、自らも椅子に座って、背もたれに身を預けた。
「ですが、クレテス将軍には、もう一つの大きな目的があったのです」
彼が出自を知った時、『生き別れの姉がいる』という事実ももたらされた。今は亡きラヴィアナ王家の、もう一人の御子、レーナ王女。魔王教団の首魁ニードヘグによって狂気に囚われた、最後のラヴィアナ王ヴェルハルト・ガノッサ・フォン・ラヴィアナが、自分が完全に正気を失う前に、我が子達を王都タイタロスから逃がしたのである。長男ノヴァをグランディアのシュタイナー夫妻に託して、クレテス・シュタイナーとして育てたように、長女レーナは、乳母と数人の騎士に守らせて脱出させた。
長らく行方不明だった彼女の居場所を、ある年に、聖王教会の時の大司教、セルバンテス・マタイ・グーテンベルグが遂につかんだのである。
国を亡くし、苦労して生きてきただろう彼女は、大陸盟主国の騎士団長としてのうのうと生きている弟を、恨んでいるかもしれない。それでも、たった一人の肉親だ。一目会いたい。会って、できうる限りの助力をしたい。父は周囲の人間にそう語り、姉の住むという、ラヴィアナ辺境の村へと向かった。
しかし、再会は叶わなかったという。
村にはレーナはおろか、誰一人としていなかったのだ。生きている者が。遠征軍が着いた時には、村人の全てが、何者かの手によって、遺体の判別もつかぬほどに惨殺された後だった。
そして失意の帰路、部隊は正体不明の魔獣に強襲を受け、ほぼ全員が戦死、父は魔獣と刺し違えて、命を落とした。
殺された村人と、クレテス将軍の死。そして葬儀を前に消えた彼の遺体。
その後も、それら不自然な偶然の謎を解明しようとした者、クレテスに親しい者が次々と、不可解な死を遂げたり、事件に遭う事が続いた。大司教セルバンテスは密室で暗殺され、近衛隊長の座にあったユウェインの妻リタが引退した理由も、事故で利き腕を失ったからだ。
ティムも真相を追う一人であったが、未だ不幸に巻き込まれる事無く過ごし、先日、ある証拠を手に入れたという。
「それが、これです」
彼は『証拠』たる某かを持って立ち上がり、イリス達がついているテーブルの上に置いた。ひどく小さく、しかも赤錆が浮いて、一見何なのかわからない。
「件の村の再調査で発見されたものです。緑銅製の金属、恐らくは鎧の破片だと、鑑定されています」
それが何の意味を成すのか、イリスは理解できなかった。ユリシスやリルハも不思議そうに首を傾げるばかりである。しかし、若い頃は軍師として名を馳せたクラリスが「もしや」と目をみはる。彼女にうなずき返したティムの言葉に、若者達は誰もが息を呑むことになった。
「十四年前から現在まで、緑の甲冑を用いている国は、北方国アースガルズ、ただ一つです。また、同時期に現れ始めた正体不明の魔獣の出所を辿ると、北方諸国に行き当たります」
ティムが何を言おうとしているのか。さすがにイリスにも考えが至った。まさか、そんな事があるのか。心臓が逸り、耳の奥で血管が大きく脈打っている音が、うるさく響く。
「それらを照らし合わせると、クレテス将軍は、アースガルズに暗殺された可能性もある。私はそう結論づけました」
殴られたような衝撃に、イリスは椅子から転げ落ちそうになり、クラリスが、あ、と小さな声をあげ慌てて支えてくれる。何とか倒れるのだけは避けたものの、動揺は治まらず、次には不安が波となって押し寄せてきた。そういえば、母はそのアースガルズと会談するはずではなかったか。
「どうしよう。母様、大丈夫かな」
素早く記憶を巡らせ、日取りを思い出す。確か、昨日か今日には先方の要人がグランディア王都に着いているはずだ。自分の声が、今更マグカップを握ろうとする手が、震えているのがわかる。一刻も早く帰らねば、という思いが胸の内で膨らんだ。
「落ち着いてください、イリス様。今ここで騒いだとて、すぐ何か事件が起きるという訳でもないでしょう」
丸めてうずくまってしまった王女の背を、クラリスが撫でながら、至極落ち着いた声でたしなめてくる。
「それに、ユウェイン様をはじめとする騎士団と、ピュラの傭兵隊が女王陛下をお守りしています。アガートラムは心配ありませんよ」
そう。王都には、二十二年前の戦いを母と共にし、今も尚女王が絶大な信頼を寄せる家臣達がいる。彼らの戦闘力は一般兵ごときは及ばず、魔王イーガン・マグハルト復活の際には、急場作りだったとはいえ、再生された魔王の部下である四魔将を、寡兵で退けているのだから。
「今は、それが事実と決まった訳ではありません。可能性は決して否定しきれませんが、決定打もまた、見つからないのですから」
「そうだね……」
その魔将を破った一人であるティムに諭され、イリスは彼らに笑みを返したが、そこに力は無い。
「少し、頭を冷やしてくる。一人にして」
そう言い残し、王女はふらりと部屋を出ていった。




