第1章:イリス(4)
アガートラム城を発って三日。王女と守役は、故郷グランディアの国境地帯を抜け、聖王教会領へと足を踏み入れていた。
この三日間は、イリスにとって至福の時間であった。忙し無く定められた予定も、王女としての制約も、城という大きな壁も無い。もっとも、クラリスという手強い監視役がいるので、羽目を外す事は叶わないのだが。
咲き乱れる春の花々、飛び交う小鳥の歌。夜には満天の星と上弦の月が地上を照らす。無限に広がるかのような外界の景色に、イリスはすっかり興奮し、あらゆるものに興味を示した。
「こんなに熱心になってくださるなら、姫様には最初から、課外学習を施せばよかったのかしら」
クラリスが呆れて、こっそり毒づいたほどだ。
楽しいだけの道中が続くとは限らない。一度人里を離れれば、山野に住み着く獰猛な獣、そして、年々南下して来る野生の魔物が、獲物を求めてうろつき、街道を往く旅人に襲いかかる。
ところがこの姫にとって魔物というのは、強固で鬱陶しい兵士達に守られた馬車から遥か遠くにしか見た事が無い、貴重な代物である。むしろ自分の腕を試す良い機会だと、馬から飛び降り、嬉々として細身剣を振り回し、立ち向かってゆく。
そして、十分程の立ち回りの後、街道の石畳に、狼型の魔獣が数体、累々と転がるのだった。
「他愛無いな。城の稽古より楽だった」
死んだ魔物の毛皮で血を拭った刃を鞘に戻しながら、イリスはつまらなそうにうそぶく。
「油断は禁物です。物事を軽く見られるのは、姫様の悪い癖ですね」
たちまち半眼になる王女が何事か言うのに先じて、クラリスは手にした槍を振り払った。イリスの背後に忍び寄っていた手負いの一匹が、心臓を貫かれて息絶える。とどめを刺し損ねていたのだ。
「イリス様、これは城で行っていたような訓練ではありません。実際の命のやりとりですよ」
「確かに今のは少し、気を抜いていた。でも次は」
「気を抜いて殺されていれば、次などありません」
槍を収め、険しい表情でクラリスは告げる。
「それに今は、魔物が相手でした。敵が獣ならば、我らは容易く斬り捨てる事が可能でしょう。ですが」
騎士は魔獣を一瞥し、すぐにイリスに向き直ると、毅然と問いかける。
「イリス様。これが自分と同じ姿形をしたもの、すなわち人間相手になった時、貴女は躊躇無く斬る事ができますか?」
突然の質問に、イリスは面食らった。王女を真っ直ぐ見すえたまま、クラリスは続ける。
「この大陸は現在、表向き平穏に見えます。しかし、各地での魔族との確執、少数民族への差別や迫害、国家間の紛争といった、エステル様の治世をもってしても癒せない傷は、多々存在するのです」
それは伝え聞いている。母が常に頭を悩ませ、しょっちゅうあちらこちらの国や地域に手紙を書き、そして尚、芳しい返事をもらえずに、心労を重ねているのだと。壮健な王女に早く国を継いで欲しい家臣達は、そういった積み重ねが女王の命を削っているのだと、暗に忠告していた。
「更に、アースガルズという国の不穏な動きがあります。このシャングリアは、いつ再び、動乱の時代に逆戻りしてもおかしくない状況に置かれているのです。万一戦が起これば、獣などではなく、彼らを相手にしなくてはなりません。人間を、容赦無く斬る覚悟は、おありですか?」
かつての戦乱をイリスは知らない。祖父母や両親の世代の体験を、伝え聞いただけだ。実感は全く沸かないし、憧れにも似た期待だけがあったが、クラリスの再度の問いは、イリスに即座な返答を与えなかった。
「悩みますね? 今は、それで構いません。悩みもせず、痛みも知らずに命を奪える者、それは騎士でも人でもなくなってしまいます」
答えかねてうつむいていると、クラリスはふっと表情を和らげ、王女の肩に手を置く。
「もっともこれは、受け売りですが。私が初めて騎士として前線に出た時に、クレテス兄様……貴女の父君が、同じ事をおっしゃったのです」
「父様が?」
弾かれたようにイリスが顔を上げると、女騎士は微笑んで頷き返し、手を離す。
「殺さねば、殺される。それは哀しいかな、戦の永久の定めです。それでも、我らがひとつの生命を奪っている、その事実だけは、忘れずにいてください。支配者とは、為政者とは、その罪と痛みの上に生きてゆくものなのです」
「それは、母様や、父様の事を言っているのか?」
クラリスは答えなかった。無言で、留めておいた馬に乗り、再び街道を走り出す。
イリスも慌てて後を追った。どうも冒険とは、外界の旅とは、楽しく容易い道程ばかりではないかもしれない。それを、薄々感じ始めながら。
グランディアの北西に位置する聖王教会。イリスの先祖である聖王ヨシュアを神格化して奉る、大陸正教の聖地である。
その役割は、聖伝を後世に残すだけではなく、魔道の研究施設として機能する事にもあり、外部の者を積極的に受け入れ、リーヴス家などの偉大な魔道士を輩出した。
二十二年前、帝国が滅びた後、更に研究者を迎え入れるようになった為、門前街は大陸有数の市場として栄え、旅人や行商人、魔道研究者など、多彩な人間が行き交っている。馬を下りて手綱を引きながら大通りを歩けば、魔道書や魔具、いわくつきの装飾品などを並べる店、研究者が給料で気楽に食べられる値段の食堂、調合の為の薬草を軒先で乾燥させる植物店などが目に入る。そんな賑やかな喧噪も、中心地である大聖堂に向かうにつれ遠ざかっていった。
聖堂の青く大きな建物が見えて来ると、入口でイリス達に向かって、魔道士の少年が元気に手を振っている。はじめは誰かわからなかったのだが、青みを帯びた髪と緋色の瞳が、ある一人の名前を思い出させた。
「リルハ!」
「イリス様、母上、お久しぶりです!」
リルハ・フェイミンは、クラリスとピュラの息子である。ただし実子ではない。イリスの父が遠征中に、魔物に襲われ親を亡くした赤ん坊を連れ帰って来たのを、二人が引き取って育てたのだ。
身体が弱く、騎士にはなれぬと宣告された為、魔道を志して聖王教会へ留学に出ていたのだが、転びそうになりながらイリスの後をついて来るような脆弱ぶりだった一つ年下の幼馴染は、数年会わぬうちに、すっかり歳相応の精悍さを備えていた。残念ながら、身長はイリスとどっこいどっこいのままだが。
彼の後からもう一人、こちらはイリスの見覚えがない人物がやって来た。二十代後半ほどに見えるその男性は、イリスを見て目を見開き、それから、懐かしそうに細める。
「貴女がイリス王女ですか。噂通りですね、エステル様の美しさと、クレテス殿の凛々しさを、確実に受け継いでいらっしゃる」
初対面の相手にいきなり賛美され、イリスが面食らっていると、男性もそれに気付き居住まいを正した。
「ああ、申し訳ありません。懐かしさについ、名乗り申し上げるのも忘れておりました。私はティム・リーヴス。この聖王教会で、魔道を研究している術士です」
「ティム殿、リルハからの手紙で、この子が貴方に師事を受けている事は聞きました。すっかり、魔道士として大成されたのですね」
「クラリス殿も、お変わりなく美しい」
ティムとクラリスは懐かしそうに挨拶を交わし、そのまましばらく語り込んでしまう。呆気に取られるイリスに、リルハが笑顔で耳打ちした。
「ティム先生は、二十二年前の帝国との戦いに参加されていた経歴の持ち主なんです」
「ああ、それでクラリスとも知り合いなのか」
イリスが生まれる前の戦いについては、実際に参戦した人間達から、嫌というほど聞かされている。言われてみれば、ティムの名にも、聞き覚えがあるような気がしてきた。そうすると彼は、少なくとも三十代半ばを越えている計算になる。若作り、むしろ童顔、という単語がイリスの頭をよぎった。
「先生は、聖王教会でも有数の賢者なんです。先生の師事を仰ぎたいという人は、大陸中から集まって来ますから、弟子として採用してもらうのは、とても大変なんですよ」
その激しい競争率を突破し、実際に弟子として学んでいるのだから、師だけでなくリルハの魔道の才も、相当なものだという事だろう。旧友の意外な才能に感心していると、ふとなれなれしく肩に置かれる手があった。
「お、やっと着いたのか」
聞き慣れた声に、イリスはぎょっとして振り返り、
「な、何でこいつがいるの!?」
叫びながら裏拳で相手の顔を思い切り叩く。顔面を抑えてのけぞったのは紛れも無く、従兄ユリシスであった。
「あら、成程ねえ。飛行戦士だったら楽に先回りできますものね」
王女の悲鳴に振り返ったクラリスは、事態をいち早く把握して、感心したふうにうなずいている。
「クラリス、謀ったね! ユリシスも、母様に頼まれて、ここで私を捕まえるつもりだったんでしょう!? そうだ、リルハが私達の到着を知って待っていた事自体、おかしかったんだ!」
「そういう手もあったのですけれどね。姫様は、それくらいで諦めてお帰りくださるような方ではありませんから」
動揺のあまり癇癪を起こすイリスに対し、クラリスはあくまで呑気に答え、打たれて赤くなった鼻をさすりつつユリシスが言う。
「そうかどうかは、伯母上の言葉を聞いてからでも良いんじゃないのか」
「母様の?」
イリスがきょとんと瞬きすると、ティムが柔らかい笑顔を浮かべ、胸に手を当てて低頭した。
「ユリシス殿から、エステル女王の言伝を賜りました。『我が娘を、どうかよろしく頼みます』と」
「陛下は口では色々とおっしゃいますが、それは姫様をご心配されての事。本当はいつでも、貴女の味方である事を、どうかお忘れ無く」
まだ唖然としているイリスに、クラリスがいつもの不敵な笑みを向け。
「実際そういないよな。これだけ身勝手な子供を許容してくれる親ってのも」
「あんたに言われる筋合いは無い」
ユリシスの意地悪い一言でようやく我に返り、再度叩いてやった。
ティムはそんな様子を笑って見渡していたが、やがて唇を引き結び、皆を促す。
「さあ、中に入りましょうか。あまり外にいては冷えますし、それに、色々とお話しする事もありますから」
一同を見回す青緑の瞳が、最後に、イリスで止まる。
「色々と……そう、十四年前の事件について、王女殿下がお聞きになりたいだろう事も」




