エピローグ:そして緑が生い茂る(2)
五月五日。
エステル王女率いる遠征軍が、新緑まぶしいグランディア王都アガートラムに帰還した。
レディウス皇子だけでなく、魔王復活の脅威をも打ち破った英雄の凱旋に、民は帝国支配が終わった時以上の歓呼をもって遠征軍を迎え、『優女王』の後継者を声高に讃え、完全なる戦勝を祝う宴は三日続いた。
だが、戦いが終われば、戦禍に荒れた大地が残っている。弔うべき人々がいる。
エステルは解放軍、そして遠征軍の盟主として、アガートラム城の謁見の間の玉座に就き、各地へ戻る仲間達に別れの挨拶を述べ、その門出を言祝いだ。
リタとユウェインはグランディア騎士となって、これからも傍にいる事を約束してくれたが、ロッテとリカルドはトルヴェールへ戻る旨を告げた。かねてより強い意志で決めていたらしい。
「ラケとケヒトの事も気になるからな」
「近況報告の手紙を、書くね」
二人は最終決戦前に部隊を離れた幼馴染達の名前を出し、変わらぬ友情があると示してくれた。
セティエはクリフと共にアルフヘイムへ行き、彼の暮らしていた孤児院の再建を手伝うと告げた。ティムも一緒に行くようで、クリフは心中複雑そうな顔をしていたが、それでも、想いを貫いた相手が隣を歩いてくれる、それだけで満足しようとしているのがよくわかって、エステルは思わず苦笑を零すのだった。
「エステル」
リーヴス姉弟達を見送った後、アルフォンスがファティマを伴って、謁見の間に入ってきた。
「僕達はカレドニアへ帰るよ。僕を育んでくれた故郷を再生させて、グランディアとも対等な友好関係を築ける国にする為に」
王位継承権を放棄した時点でわかっていたが、いざ決心を音にされると、切なさがエステルの胸に迫る。十六年、離れて育ち、ようやく再会した弟と、また別の地で生きてゆく事になるのだと。
だが、聡いアルフォンスは、「大丈夫さ」と唇の端を持ち上げて、胸に手を当てた。
「シーバがいれば、いくらでもアイシアの山脈を越えてこられる。僕の力が必要な時は、いつでも呼んでくれ」
片翼の言の葉が、曇りかけた心の憂慮を払ってくれる。
「そうですね。離れていても、私達がきょうだいである事に、変わりは無いのですから」
エステルも微笑み返し、弟の傍らに寄り添う義妹に語りかける。
「ファティマ。アルフォンスをお願いね」
「はい」
ファティマは肩口までの髪をさらりと揺らして礼をすると、彼女にしては珍しく、心からの笑みを閃かせる。
「お義姉様にも、愛しい人との幸せが訪れますように」
心臓がどきりと脈打つ。この弟妹の鋭さには一生敵いそうに無い。中途半端な笑みを浮かべている間にも、アルフォンスが改まって低頭する。
「エステル、僕は貴女という姉を持つ事を、生涯の誇りに思う。どうかいつまでも、お元気で」
顔を上げた少年は、エステルがうなずき返すのを見届けると、「では」と踵を返す。ファティマが自然に腕を絡ませ、二人は寄り添って謁見の間を出ていった。
それと入れ替わるように、エシャラ・レイが入ってくる。
「お疲れ様、エステル。そして、ありがとう」
エシャは、開口一番エステルを労い、頭を下げた。
「『ヴァロール』は滅び、魔王教団の野望も潰えた。始祖種フォモールの王として、最大級の感謝を述べさせてもらうよ」
「エシャ、あなたはこれからどうするのですか」
悪しきフォモールを滅ぼした事で、エシャの役目は終わったはずだ。しかし、始祖種の王は顔を上げると、「そうだなあ」と小首を傾げて顎に手をやり、天気の話でもするかのように呑気に告げる。
「帝国と魔王教団が滅びたといっても、大陸のどこかで、同じ野心を抱く者が出てくる可能性が無くなったとは言えないからね。ボクは歴史の影に潜んで、人と、魔と、竜を、見守り続ける」
そう、戦いは終わった。だが、争いを治め、国を治め、大陸の安寧を目指してゆくのは、これからなのだ。
「でも、これまで見てきた君の意志があれば、第二、第三のレディウスが生まれる事は無いだろう。始祖種として、それを信じているよ」
最大級の信頼を寄せられて、エステルの頬も思わず緩む。
「じゃあね、エステル。次に会う時が、平穏の中での再会である事を祈ってる」
そしエシャラ・レイは背を向け、出口に向けて歩き出す。エステルは思わず玉座から立ち上がり、その背中に向けて、声を張り上げていた。
「私を信じ抜いてくださって、ありがとうございました、フォモールの王!」
始祖種は振り返らなかった。ただ、右手をひらひらと振って挨拶とし、扉の向こうに消えた。
「エステル様」
一通り仲間達を見送ったところで、騎士服を着たクラリスが、聖剣士の正装に身を包んだピュラを伴にして謁見の間に入ってきた。クラリスはエステルの戴冠後に騎士の叙勲を受ける心づもりを告白し、ピュラは聖王教会からの出向として、グランディアの傭兵隊長に就任する算段がついている。
「行かなくて、良いのですか?」
はじめ、何の事を言われているのかわからなくて、きょとんと目をみはってしまう。「もう!」とクラリスが珍しく子供じみた憤慨を洩らして、拳を握り締めた。
「クレテス兄様。シャンクス様に呼び出されているのですよ! 一番初めに労わないといけない方じゃないですか!」
図星を突かれて、途端に顔が真っ赤になる。弟達だけでなく、クラリスにもお見通しなのだろうか。もしかして、自分の想いは周囲にだだ漏れだったのだろうか。いや、もしかしなくても、張本人にもばればれだったのだろうか。
「兄様からはっきり言わせないと駄目ですよ!」
「まあ、ここで向こうが振ってきたら、俺はあいつを見限って聖王教会に帰らせてもらうわ」
意気込むクラリスと、軽口を叩いて肩をすくめるピュラに背を押され、決意は固まった。
「ありがとうございます!」
ヒールのある靴を脱ぎ捨て、慣れぬドレスの裾をまくり上げて、階を駆け下りる。
「あっ! 渡り廊下! 西棟に向かう渡り廊下です! 迷わないでくださいね!」
クラリスの声が背を追いかけてくるのに礼を返す間ももどかしく、エステルは城内を駆け抜け、少女が告げた通りの場所で、目指す相手を見つけた。
クレテスは、両手で顔を覆って、背を丸めていた。どこか具合でも悪いのだろうか。廊下には彼一人で、シャンクスの姿は既に見当たらないが、何か衝撃を受けるような事でも言われたのだろうか。
「クレテス!」
呼びかければ、少年ははっと顔を上げ、のろのろとこちらを向いた。心無しか紅潮しているように見えるのは、気のせいではないだろう。駆け寄って、自分より大きくなった相手を見上げる。
「シャンクス殿と何かあったのですか?」
不安げに問いかけると、クレテスは口元を手で覆って、一瞬視線を逸らした。が、腹を括ったのか、真っ直ぐにエステルを見下ろしてくる。
「いや、シャンクスさんには、騎士団長の座を受け継いでくれ、って言われた」
元々、王国の頃には、シャンクスの次席として、クレテスの養父ディアス・シュタイナーが副騎士団長候補にあったらしい。次世代の筆頭として、その息子であるクレテスが、事情を持ってトルヴェールに帰った兄ケヒトに代わり指名を受けるのは、ごく自然な流れだろう。
だが、彼はラヴィアナの王族でもある。故国に残る民達の支持を背に負えば、彼はラヴィアナ王として実の父の跡を継ぐ可能性もあり得る事を、失念していた。
懸念が顔に出てしまったらしい。そうではない、とクレテスは首を横に振り、「その話は了承した。続きだよ」と先を告げた。
「『一国の民の父親になる男が、いつまでも、その国の跡継ぎの父親になる事に怖じ気づいてる場合ではないだろう』って言われて。覚悟、決めてた」
意味を計りかねて、ぱちくりと瞬きをする。一体どういう事だろうか。
「アルフォンスには駄目出しされるし、今度は今度で発破をかけられるしさ。ここで言わなきゃ男じゃあないだろ」
クレテスは苦笑を洩らし、騎士が姫君にそうするように、エステルの前にひざまずいて、壊れ物を扱うようにそっと手を取ると、甲に軽く口づけた。
「ずっと、お前だけを見てきた。おれはアルフさんみたいに、手を引いて導く事はできないけれど、こうしてお前の手を取って、隣に立って、一緒に前を向いて歩いてゆく事は、できるはずだ」
心臓がばくばく言う。耳の奥で少年の放つ言葉が反響して、これは夢ではないのかと錯覚する。空いている手で軽く頬をつねって、幻覚ではない事を確信した。
「おれじゃあ頼りにならないかもしれない。それでも、一生を懸けて、お前の為に、おれにできる限りの事をする。だから、女王として歩むお前のこれからの人生の苦労も、喜びも、全部分かち合わせてくれ」
歓喜が、細波から大波になって胸に押し寄せる。これから進む道で、横を向けば、彼がいてくれる。深い蒼の瞳で見守っていてくれる。それが何よりも幸せだ。
「頼りにならないなんて、絶対にありませんよ。死ぬまで信頼します」
笑顔で告げれば、クレテスが立ち上がり、逞しい腕で包み込んでくれる。エステルも彼の背中に手を回し、肩に頭を預け、互いの温もりを確かめる。
「子供の頃、夢見ていた事があるんです」
笑みを口の端に乗せて、エステルは幼き日の思い出を語る。
「自分は実はお姫様で、いつか格好良い王子様が迎えにきてくれて、幸せに暮らすんだって。全部本当になっちゃいましたね」
「幸せに暮らすのは、これからだろ」
生い茂る木々の緑の合間から降り注ぐ光が、想いの通じ合った二人を祝福するように、きらきらと照らし出していた。




