エピローグ:そして緑が生い茂る(1)
突如半壊したエルモーズの砦から、戦士達が一人も欠けずに戻ってきた事を見届けて、遠巻きに砦を見守っていた者達から、安堵の吐息が洩れる。
「エステル様、クレテス兄様!」
先頭にいたクラリスが、待つのももどかしいとばかりに走り出し、エステル達の前に立つと、ほっと胸を撫で下ろした。
「本当に……本当にご無事で……!」
感激に喉がつかえて先の出てこない少女に、ピュラが歩み寄って、ぽんぽんと頭を撫でる。
「お前の策と俺の剣がついてるんだ。無事じゃあない訳ねえだろ」
その言葉に、いつも通り言葉の反撃に出るかと思われたクラリスはしかし、あっという間に目を潤ませると、聖剣士の胸にがばりと飛び込んだ。予想外の反応に、ピュラはらしくなく戸惑い、「兄さん、年下趣味?」と傷の癒えたクリフに揶揄われて、言い返す事もできずに呻きながらも、少女の肩に腕を回した。
「エステル」
くすくすと笑いながら彼らの様子を見守っていたエステルのもとに、アウトノエがオディナとカタラを伴って歩み寄ってくる。
「あたし達は、ここでお別れ」
そう。魔王教団の筆頭に立ち、レディウスを生み出し、魔王を解き放って、大陸を恐怖のどん底に陥れた、ニードヘグを父親に持つ彼女は、グランディアに行けば、容赦無い糾弾を受けるだろう。処刑しろと感情的に叫ぶ輩も出てくるに違い無い。
「ごめんなさい、アウトノエ。でも、魔族全てが悪ではないと、皆が納得してくれるようになるまでは……」
「わかってるよ」
エステルがすまなそうに眉を垂れると、それでも、魔族の少女は全てを見通す淡々とした表情で述べる。
「あたしもいつまでも子供じゃあないから。あのひとの尻ぬぐいなんて癪だけど、ニヴルヘルの魔族の生き残りをまとめるのは、あたしの役目」
面倒くさそうに目を細め、「でも」とアウトノエは先を続けた。
「あのひとの事は大嫌いだけど、感謝している事はあるの」
一体何だろうか。目をしばたたくと、彼女は満足そうに唇の端を持ち上げる。
「あのひとがいたから、エステル達と出会えた。ラヴィアナの森の外を知る事ができた。それは幸せ」
この少女からそんな言葉が出てくるとは想定しておらず、思わずきょとんと呆けてしまうと、アウトノエは不機嫌そうに唇を尖らせる。
「信じてないでしょ」
「あ、いえ、そんな事は」
「ある」
慌てて両手を横に振れば、魔族の娘はひとつ深々と溜息をつき、一瞬後、親しみに満ちた笑顔を浮かべた。
「でも、ほんとだよ」
ヌァザとリグの子孫達の別れを見届けたモリガンは、静かに戦士達の輪から遠ざかり、木陰に隠れると、運命の輪のタロットカードを取り出した。ニヴルヘルへの移動は、フォモールの王エシャラ・レイの大きな魔力に頼ったが、自分一人をフィルレイアの静かな都へ戻す転移魔法は、ゼノンから授かっている。
どんなに遠ざけられても、永遠の別れが待っているとわかっていても。それでもやはり、命の恩人を最後まで見届けたい。大きく息を吸い込んだ時。
「黙ってお帰りかい?」
背後から声をかけられて、びくうっとすくみ上がる。のろのろ振り返れば、共に魔将ヴラドと戦った魔獣騎士ラヴェルが、己の相方を伴って、少し困ったように肩をすくめていた。
「貴方には関係無いでしょう」
突き放すように、少し棘をつけて返せば、「あるよ」とラヴェルは苦笑を浮かべた。
「生死を共にした仲間を、戻りたい場所まで送り届けるのも、騎士の役目だろ」
「勝手に部隊を離れて、アルフォンス王子に怒られるんじゃあないの?」
「隊長は俺の行動を完全に把握しているからね。数日空ける程度、どうという事はないさ」
ああ言えばこう言う。彼の言動はいちいちむかつくのに、何故か心に引っ掛かって、気持ちがざわついてしまう。それに、この男と離れがたい思いはモリガンの中にも生まれつつある。
「じゃあ、そのご自慢の魔獣で送ってもらおうかしら」
タロットを仕舞い込み、少女は不敵に笑う。
「その代わり、道すがら聞かせなさいよ。貴方の婚約者だったという子について」
何故それを知っているのかとばかりに、ラヴェルが驚愕の表情を見せる。だがそれも一瞬の事で、彼はすぐに平静を取り戻すと、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んで。
「そうだな。そろそろ誰かに聞いてもらいたいところだった」
魔獣の羽根を撫でながら、そう小さく爪弾くのであった。
モリガンと時を同じくして、別方面へ遠征軍から去ろうとする者がいた。
テュアン・フリードは、記憶に焼きつけんとばかりに友人達の遺した光の顔を見つめていたが、未練を断ち切るようにふっと目を逸らし、歩き出す。
「魔族領での一人歩きは、危ないですよ」
呼びかける声と雪を踏み締める音に振り向けば、ノクリス・バートンが白い息を吐きながら追いかけてくるところであった。
「あんた」呆れ気味に溜息を零す。「いつまであたしについてくるんだ?」
「いつもどこでもどこまでも、って言ったじゃあないですか。貴女が俺を見てくれるまで、諦めませんよ」
『諦めませんよ』
記憶が一気に王国時代に遡る。傭兵隊長を務めるフリード家の養女は、手合わせに打ち勝って未来の将軍職を得ようとする、騎士達の垂涎の的だった。そのことごとくを叩き伏せて、縁談も縁もばっさりと斬り捨てた。
『君の実力を凌駕する男は、そうそういないだろうに。皆、懲りないものさ』
隣で笑っていた、唯一自分と渡り合えた男は、もういない。世界は変わり、次世代の子供達がやがて大人になって、大陸を導いてゆくのだ。その時、旧い時代の人間である自分は、邪魔にしかならない。このまま行方をくらませて、どこか辺境に引っ込み、余生を過ごすつもりだった。
だが、ノクリスは、そんなテュアンの心境を見抜いたかのように、情熱的な炎を瞳に燃やして、ずいと詰め寄ってくるのだ。
「テュアン様、俺の故郷に来ませんか。うちの村、猟師と農民はいるけれど、賊に対抗するだけの戦力はあまり無くて。貴女ほどの手練れが手ほどきしてくれれば、自警団もしっかりして、ずっと暮らしやすくなるはずです」
一回り以上歳の離れたこの若者が、自分を慕ってくれているのは、薄々わかっていた。わかっていたが、心残りが胸の奥底に染みついて、消えないものだと思っていた。あの男を笑えない、そう思っていた。しかし今、何の飾りも無い真摯な言葉が、胸を打つ。
生きられるだろうか、戦場以外でも。忘れられるだろうか、捨てきれなかった過去を。
「あたしのしごきは生半可じゃないよ。ついてこられるのかい?」
「望むところです」
挑発的に胸を張ってみせれば、ノクリスは拳を作って意気込む。その真っ直ぐさが、ずっと胸にわだかまっていた澱みを清水で洗ってくれるかのようだ。
(あたしは、まだまだそっちへ行かないで、この世で幸せになってみせるよ)
心の中で唱えて目蓋を閉じれば、馴染みの背中がまなうらで手を振って、やがて遠ざかっていった。




