第9章:白竜の王女(9)
エステルは、大きく肩で息をしながら、翠の瞳に魔王の姿を映し、立っているのがやっとの状態にあった。竜王剣を握る手が、血で滑る。痛みはとうに麻痺した。臓器のあちこちが悲鳴をあげている。
魔王イーガン・マグハルトは、『ヴァロール』の身体を十二分に活かし、強大な闇魔法を放ち、その巨躯からは信じられない速度で腕を振り回して、四英雄の子孫を翻弄した。攻撃を喰らわせても、驚異的な回復力ですぐに傷が塞がってしまう。即死に繋がる威力は無いが、時間の経過が、じりじりとエステル達の体力を削ってゆく。アルフォンスとアウトノエも疲弊し、クラウ・ソラスを掲げて最前で他の三人を守り続けたクレテスは、満身創痍で、それでも蒼の瞳に絶望を宿さず、魔王を睨みすえている。
『しぶとい蝿共が!』
ごうと空気を震わせる一声と共に、拳が降ってくる。常時ならば見切れるだろうその攻撃を、しかし、足がもつれてよろめく事で、回避を困難にした。
「――エステル!」
衝撃を喰らう直前、クレテスの声が耳に突き刺さった。抱きすくめる感覚の一瞬後、身体が吹き飛ばされ、暗黒の床に強かに打ちつけられる。頭の中がぐわんぐわんと回転して意識が遠ざかりかけるが、これだけで済んだ理由を求め、力強く瞑っていた目を開いて、息を呑んだ。
幼馴染の顔が至近距離にある。苦悶の表情を満たし、吐き出した血がエステルの白い鎧を赤く染める。かばってくれたのだ、と理解した脳が、すぐに混乱を来す。
「クレテス! しっかりして、クレテス!」
あらぬ方向に曲がってだらりと解かれる少年の腕を握り締め、身体を揺さぶって悲鳴じみた声が放たれるのが、他人事のように聞こえる。頭を打っているかもしれない、という考えには及ばず、何とかしなくては、と無為に巡らせた視界に、魔王が闇の魔力を再び掌に集中させるのが入り込んだ。
アウトノエが咄嗟にカデュケウスを掲げて展開させた魔法障壁を、いとも容易く打ち破るほどの魔力が、黒の空間に吹き荒れた。四人はばらばらの位置に吹き飛ばされ、強烈に叩きつけられる。
エステルの手から、ドラゴンロードがすっぽ抜け、乾いた音を立てて床に転がった。それを拾おうとしても、身体が言う事を聞かない。眼球に血が入ったのか、全ての光景が赤く染まって、よく見えない。肺に何かが突き刺さったかのようで、呼吸が上手く出し入れできない。
『滅びよ、人間の世界よ! 我こそ、神をも超える存在なり!』
魔王の勝ち誇った哄笑が、耳の中で反響する。
ここまでなのか。諦めの黒いびろうどが、覆い被さってくるかのようだった。
多くの生命を背負い、時に失い、時に奪って。期待に応え、あるいは応えられず。大切な人を失ってまで勝ち取った祖国解放の先には、大陸の破滅という喪意しか待っていなかったのか。
(お父様、お母様、叔父様。ごめんなさい)
目を閉じて、竜の聖域で邂逅した人々の顔を想い描こうとしても、思考がまとまらなくて思い出せない。もう、全てを投げ出して終わりにしても良いのだと、死神が耳元で囁いた時。
「エステル!!」
この場にいないはずの誰かの声がして、エステルははっと目を見開いた。映る景色は相変わらず赤いままだが、光る穴を越えて、離れ離れになっていた仲間達が辿り着いたのが見える。
「……アルフォンス兄様!」
ファティマが震える声で義兄に近づき、崩れ落ちそうになって、両側からラヴェルとモリガンに支えられる。
「アウトノエ様……」
オディナがカタラと共にアウトノエに駆け寄る。役目は譲らないとばかりに、オディナが懐刀を牽制して少女の身体を抱き起こす。
「起きろ、クレテス!」
ピュラがセティエ、ティムに先んじてクレテスの傍らに立ち、切実な叫びを解き放つ。
「これ以上クラリスを泣かせるな! 頼むから俺の信頼を裏切るな! あんたは、ラヴィアナの民の希望であってくれ!」
あの聖剣士にしては随分感情的に怒鳴るものだと、場違いな感想が浮かんだ時、「エステル!」「エステル様!」と自分の周りに膝をつく幼馴染達の姿を認識した。
リタ、ユウェイン、リカルド、ロッテ。共にトルヴェールで暮らした幼馴染達は、少しずつ数を減らして、彼らしかいなくなってしまった。それでも、彼らは自分を信じて、朋友として道を共にしてくれた。過去には戻れないが、まだ彼らと未来を歩む事ができるはず。その考えに至れば、ぶわりと目の奥から溢れてくるものがある。
「エステル」
滲む眼界の中、左腕を失ってノクリスの支えを借りながら自分を見下ろすテュアンと、目が合った。
「お前はあたし達の望みなんだ。立ってくれ、戦ってくれ。いくらでも、剣にも盾になるから。お前が、未来を繋いでくれ」
女剣士の声音は静かだったが、そこに込められた果てしない熱に、心が追い討ちを受けた。頬を流れ落ちるものが涙か血なのかもわからないまま、床を這いずり、手離していた相棒の柄を、強く握る。
「そうだ。四英雄が、魔王に敗れるはずは無い」
エステルの決意を待っていたかのように、エシャラ・レイの凜と張った声が、鼓膜を叩いた。
「この世界を、神を気取る奴の好きにさせてはいけない。立ち上がれ、四英雄!」
始まりは 孤独の海
君はただの ひとりだった
闇の中を歩き 彷徨い
時に迷い 失っていった
次なるは 寄り添う影
君の周りに ひとが集った
光求め足掻き 手を伸ばし
時に笑い 怒れる事もあり
呼びかけるように。放たれたフォモールの歌が、光の粒となって降り注ぐ。光が触れた部分から傷が癒え、疲弊していた身体が動く気力を取り戻してゆく。
それからは 並び立ちて
流れは奔流 大波と化し
絶望を希望に 裏返し
生きる者と 散る者を分け
最果てに 輪の中心
君はただの ひとりでなく
勝利を望む 旗掲げ
つかむだろう 英雄という名を
『お、おのれ、フォモールの死に損ないなどに……』
エシャの歌と、武器を手に再び立ち上がった四英雄を前に、魔王は明らかに狼狽した。一歩、二歩、後ずさり、怯んだ様子を見せる。
その隙を逃さず、戦士達は反撃に出た。放たれた魔法が黒き六枚羽根を吹き飛ばし、再生の暇を与えずに武器を叩き込む。アルフォンスが渾身の力を込めて投げたロンギヌスが赤い眼球を貫き、クレテスのクラウ・ソラスが右腕を斬り飛ばす。
『おのれ、オノレ、人間ドモ……痛イ、痛イ、痛イヨ……』
よろめくイーガンの濁った声が、突如として、少年のものに変わった。
『ヒルデ……ヒルデ……? 何デイナイノ……? 消エロ! 離レテイカナイデ……僕ヲ見捨テナイデ……ウルサイ出テクルナ!!』
残った左手で抱えた頭をぶんぶんと振り、少年の切なげな声と野太い魔王の声が入り乱れる。もういない女性を求めるその台詞に、エステルは目を見開いた。乗っ取られたはずのレディウスの自我は、まだ残っている。助けを求めて泣いているのだと。
『あの子を救う為に、この痛みを与える意志が、貴女にはありますか?』
覚悟を問うた母の言葉を思い出す。きっとレディウスの身体は魔王に上書きされて、元の少年に戻す事はできない。たとえ叶ったとしても、大陸に恐怖支配を敷いた元凶の存在を、世界は許さないだろう。かつて南の大陸で行われたという魔女裁判より残酷な私刑が待っているばかりだ。
ならばここで、終わらせよう。呪われた生を断ち切り、狂った運命から解き放とう。大陸に戦の風を吹かせた解放軍盟主の責任として。そして何より、血を分けた姉として。
エステルが決意した時、ドラゴンロードが、りん、と涼やかに鳴いた気がした。それと同時、刀身の青白い光が柄から手を伝い、エステルの全身を包み込む。
『我が子孫よ』
聞いた事の無い、しかしどこか、魂の底から安心感を与える、中性的な声が耳元で囁く。
『そなたの中の竜の血を解放し、人を超える覚悟があるならば、願う力を与えよう』
その言葉が終わると同時、竜王剣がまばゆい光を放ち、自分の身が変貌してゆくのを、エステルは知覚する。クレテスが振り返り、蒼の瞳に驚きを宿して、手を伸ばそうとするのが見える。
この先の自分の姿を見ても、彼が同じように手を差し伸べてくれるなら。その時は今度こそ、彼に訊こう。彼自身の、本心を。
「大丈夫ですよ」
ゆるりと笑いかけて、放った言葉は、届いただろうか。エステルにはわからなかった。
目の前で、幼馴染の姿が光に溶けた。伸ばした手は虚空に留まったまま、それ以上踏み込む事ができなかった。
呆然とするクレテスの前で、エステルがいた場所に、真っ白い鱗を持つ巨大な竜が現れた。そして、ひとつ咆哮を放つと、魔王めがけて羽ばたき、飛びかかったのである。
白竜の王女が放つ青白い炎が、『ヴァロール』の黒い身体を焼き、追い詰めてゆく。魔王は何かめちゃくちゃな言葉を叫びながら暴れ回るが、動きは精彩を欠き、最早先程までの威圧感は感じない。明らかに弱ってゆくのが、誰の目から見ても明らかだった。
『オノレ……所詮蜥蜴ガ!』
負け惜しみをぶちまけて、魔王が闇の魔力を集中させ、最後の攻勢に出る。白竜は大きく振りかぶって、一際強烈な炎を放つ。
青白い光と黒い闇がぶつかり合う。激突は弾けてまばゆいばかりに戦士達の視界を覆い、竜と魔王の決着がどうなったか、すぐさま見届ける事を、かなわなくした。




