第3章:脅威潜む銀炎(3)
負傷者が集められた治療室の一角で、ロッテの憤慨しきった声があがった。
「お兄様は、自分の力を過信しすぎです!」
ユウェインは、自分で刺した手の傷を妹の回復魔法によって跡形無く消してもらい、セティエに診てもらって、『もう、魔族の術の影響は無いでしょう』という判断を下されたのだが、グランディアからの長距離移動で体力をこそぎとられていたのもあり、大事を取ってベッドに横になる事を強いられていた。
「私には死ぬなと言っておきながら、自分の身は簡単に危険にさらすのですか!?」
たしかに今回は、自分の油断が招いた結果だ。過失は己一人が負うべき責である。だがそれにしても、危機を乗り越えたばかりの身内に対して、妹の叱責の声は大きく、音量的にも精神的にも、少々耳に痛い。落ち着け、と声をかけようとすると。
「まあまあ、ロッテちゃんも、そこまでにしときなよ」
リカルドが妹の肩を軽く叩いてたしなめる方が先だった。
「魔族の攻撃を食らって無事だっただけでも、めっけもんだ」
いつもは、妹の周りをうろちょろする悪友、と目の上のたんこぶのごとく見ているが、伊達に自分と一番歳が近い相手ではない。こちらの心情を察して、上手く場を収めてくれる。
と、思いきや。
「まあ、不覚を取って俺達をやきもきさせたんだ。全快したら、迷惑料として最前線できっちり働いてもらわねえとな」
にやりと口元を持ち上げて、そんな軽口を叩いてくる。冗句のつもりなのだろうが、仲間の命が失われるのを何よりも恐れる妹の前で、何たる発言か。言い返そうと口を開きかけた時。
「そうですね」
ロッテがくすりと微笑み、兄の自分でも見た事が無いような冷ややかな視線で、こちらを見下ろしてきた。
「お兄様には、それくらい怖い思いをして、一度どころか二度も三度も懲りてもらわないと困ります。私をさんざん心配させた罰です」
そうして妹は、悪友と含み笑いを交わす。まさか愛する妹が自分の味方をしてくれない日が来るとは、想像だにしていなかった。唖然とするユウェインの視界で、ロッテが握った杖に取りつけられた、木彫りのうさぎが揺れている。離れている間に、妹は自分の知らない成長を遂げていたのだ。それを思い知る。
「……と、冗談はここまでにして」
ロッテがスカートの裾を払って、真剣に唇を引き結ぶ。
「私はアルフレッド様のところへ行きますね。傷を看る時間です」
「お。俺も付き添うぜ」
親子に見えるほどに身長差のある二人が、並び歩いて治療室を出てゆく。その背をぼんやりと見送っていると。
「悔しいか? 妹を取られて」
新たな声が降ってきて、ユウェインはそちらに視線を向ける。果物皿を手にしたリタが、群青の瞳を愉快そうに細めて立っていた。
「まだそうと決まった訳ではないだろう」
憮然と返しながら、ゆっくりとベッドの上に身を起こせば、果物皿が差し出される。リタが皮を剥き、切り分けたのだろう梨は、少々武骨で不揃いだったが、彼女が自分の為に必死になって包丁を握ってくれた成果だ。身を起こして「ありがとう」と返しながら受け取り、一切れをフォークで刺し、口に運ぶと、甘味を帯びたたっぷりの水分が、口の中に広がる。まだ旬になっていないのに、よく手に入ったものだ。
「私の好みを、よく覚えていたな」
「こないだの、砂糖漬けのお返しだよ」
ぽつりと呟けば、少女はほんのりと頬を赤らめながらそっぽを向く。ユウェインは鈍い人間ではない。幼い頃から、自分とリカルドが武器を打ち合って鍛錬に励む中、じっと自分の方だけを追っていた群青の視線に気づかなかったほど、馬鹿ではない。
グランディア行きの特命を受けた時、命は捨てるも同然の覚悟であった。いつ何時、王国残党の斥候と露呈して首を落とされるかわからない任務だ。ロッテとも兄妹の縁を切った方が良いかと本気で悩んだりもした。
その時、『何で?』とじろりと睨み上げてきたのも、この瞳だった。
『待ってる家族がいたらまずいのか? 帰る場所があったら悪いのか? その程度で鈍る覚悟なら、行くんじゃあないよ』
自分より五歳も年下のはずの少女に、言葉で頭を殴られ、逆に腹が据わった。何があっても生きて、トルヴェールの仲間達のもとへ帰る。その決意が固まった。
それを自覚させてくれた少女を特別に想い始めたのも、その時からだった。
「リタ」「な、何だよ」
名を呼べば、まだ決まり悪そうにしながらも、少女がこちらを向く。ユウェインはその顔をまっすぐに見つめ、再びその言葉を音に乗せた。
「ありがとう」
途端に瞳が見開かれる。顔が真っ赤に染まる。
「さっきも言っただろ、それ」
あまりにもわかりやすい反応が、また愛おしい。くすりと笑み零れれば、照れ隠しにフォークを奪い取った彼女に、不意討ちで梨を口へ突っ込まれ、「ふぐう」と変な声が洩れた。
部屋の扉を軽くノックして、エステルは室内へと足を踏み入れた。この部屋の今の主はきっと、痛み止めを服用して夢現を漂っているはずだ。誰何の応えを待つ必要は無いだろう。
薄手のカーテンを閉めている室内は仄暗い。ベッドの傍へ近づけば、叔父はすうすうと寝息を立てていた。
魔族の術に操られたユウェインから自分をかばって、アルフレッドが負った腹部の傷は、内臓にまで達し、ロッテの回復魔法をもってしても、一息に回復はしなかった。この世界に存在する回復魔法は、一般的にはどんな傷も治す奇跡の業として認識されているが、その実は、使い手の魔力に回復量が左右される事が多い。特に、内臓までの傷や、欠損を伴う傷、怪我ではない病に至っては、大陸北西部に存在する聖王教会が所有する、最高位の回復魔法『リフレックス』を用いても、全快するかどうかわからず、現在はその担い手も、『リフレックス』の魔力を込めた杖自体も、著しく数が減っているという。
ベッドの傍にあった椅子を引いてきて座り、叔父の端正な顔を覗き込んで、エステルは溜息をついた。自分の迂闊さが招いた傷だ。心配よりも、申し訳無さが先に立つ。
アルフレッドが刺された時、一番近くにいてくれる人を失うのではないかと、血の気が引いた。ラドロア戦の時も、クレテスに怪我を負わせた。自分はこうして守られて、皆に迷惑をかけてばかりだ。
解放軍に新たに加わる戦士達も必ず、『ミスティ女王の御子であるエステル様の為に戦えるなら、死んでも構わない覚悟です!』と、目を輝かせて語るのだ。それがエステルの心を沈ませるとも知らずに。
誰にも死んで欲しくない。その願いとは裏腹に、戦いがあれば、敵だけでなく味方にも被害が出る。エステルに夢を託して散っていった戦士の中には、エステルの脳内で顔と名前すら一致しない者もいる。そんな彼らに、どうやって報いる事が出来るのだろうか。不安は迷いとなって、エステルの心を苛む。
その答えの片鱗を教えてくれる人は今、こうして眠りを余儀無くされている。うつむいて再度嘆息した時、唐突に低い呻き声が耳に届いて、エステルははっと顔を上げた。
アルフレッドが顔を歪め、額には汗が浮いている。そういえば、ロッテの治療の時間がもうすぐだった。その前に、痛み止めの効果が切れ始めたのだろう。
「叔父様!?」
慌てて椅子を蹴るように立ち上がり、サイドテーブルに置かれた水差しを手にする。水分を摂れば少しは楽になるだろうか。逡巡した時。
ぐい、と腕を引かれてエステルは水差しを取り落とし、ガラス製のそれは床に当たって砕け、中の水が絨毯を濡らした。
だが、それを気にする暇は無かった。肩に腕が回され、息が触れる距離まで顔が近づく。褐色の瞳はこちらの驚き顔を映し込んでいるものの、熱に浮かされているのか虚ろで、本当に自分を見ているのかわからない。
「叔父さ……」
突然の接近にばくばく言う心臓に、静まれ、と命じながら、何とか離れようと身をよじると。
「……ミスティ様」
叔父の口から紡ぎ出された名前に、エステルは翠の瞳を驚きにみはった。こちらの吃驚など気づきもしない様子で、過去の幻影と今の現実の狭間に意識を揺蕩わせるアルフレッドの言葉は続く。
「ミスティ様。僕は、貴女を」
エステルの銀髪を撫ぜていた大きな手が、頬を辿り、乾いた唇にかかる。それ以上距離が近づく前に、エステルは我に返ると、咄嗟に叔父の手を振り払って、身を起こした。
そして、気づいてしまった。叔父が、誰を見ているのかを。
アルフレッドの心の中に棲んでいる想いは、エステルに向けられたものではないのだ。十六年間、いや、エステルが生まれる前からずっと、彼はエステルの母親だけを見つめ続けて、忠誠を誓って、母がいなくなった今も、その想いは揺らぐ事が無い。
その事実に気づいた瞬間、悟る。彼がエステルを守ってくれているのも、全て母の為なのだと。母を守り切れなかった後悔を抱いて、忘れ形見の自分を守り育てる事で、罪悪感を払拭していたのだと。
彼は決して、一人の女として自分を見てくれる事は、無いのだと。
全てを理解した瞬間、意志とは関係無く、両目からぶわりと涙が溢れた。
「――私は!」
叫びは、口を衝いて出ていた。
「エステルです! お母様ではありません!」
赤ん坊の頃、おぶってあやしてくれた頼もしい背中。踏み出した一歩に弾けた笑顔。歳の数だけ火の点いた蝋燭を挿して出してくれた、誕生日祝いのケーキ。剣を教え始める時に見せた、心中複雑そうな表情。守り続けると宣誓した真剣な顔。ずっと隣にいてくれた頼もしさ。
全ては、母を愛するが故だったのだ。この人は、自分を通して、過去の母の幻影を追い続けていたのだ。
「私を、見てはくれないのですか!?」
涙の粒と共に激情を吐き出して、エステルは叔父に背を向け荒々しく部屋の扉を開けた。
「あっ、エステル、いたの? アルフレッド様の……」
入れ違いになったロッテとリカルドに応える事も無く部屋を飛び出し、両手で顔を覆いながら廊下を駆ける。全く前を見ていなかったため、角を曲がったところで、向こうから来た誰かに勢い良くぶつかり、エステルはものの見事に尻餅をついた。
「おい、危ないな。ちゃんと前見て」
ぶつかった相手が不機嫌そうに声をかけ、そして中途に止まって、絶句して見下ろしてくる気配がする。見上げれば、唖然としたクレテスの蒼の瞳と視線が絡まった。その顔を見て、涙は更に溢れ出す。
立ち上がりざま、がばりと幼馴染の胸に取りすがり、エステルは声を解き放って泣く。クレテスははじめ、どう反応したものか困ったらしい、「おい……」と困惑しきった声が降ってきたが、エステルが訳も話さず泣き続けると、そっと、見た目より逞しい両腕がこちらの肩に回され、引き寄せられる。
夕暮れの赤い光が廊下に差し込む中、生まれて十六年目に失った初恋を悼み、エステルは声と涙を振り絞る。クレテスは何も訊かずに、ただただエステルを抱き締めていた。
少年の心中に渦巻く感情を、少女は知らぬままに。




