第5章:それぞれの想い(6)
フェルンでの戦いが繰り広げられるより、少し前。
アースガルズに占領されたグランディア王都、人気もまばらなアガートラム城内で。
「おおーい、待ってくれよジョン」
がっしゃがっしゃと鎧ずれの音を立てながら、ビル・マケッシーが、親友の後を追った。
「騒々しいぞビル。もっと落ち着いて行動しろ」
「もっとしとやかにか」
「淑やかは令嬢に使う単語だ、馬鹿者」
そう毒づくジョン・ローエンも、濃緑の甲胄に身を包んでいる。
「しかし本当か、カレドニアへの侵攻は失敗するというのは」
「ああ、アティルト様が直々に上官達に伝えたらしい。遠からず、カレドニアから引き上げるそうだ」
「それで、俺達グランディアに残った兵も駆り出されて、アラディア大橋で総力戦か」
「非常に珍しく先が読めてるじゃないかビル。槍の雨でも降るか?」
「いやあ、そんなに褒められても」
「褒めてないんだが、まあいい。とにかくだ、備えあれば憂い無し。俺達はこうしてしっかり準備して、出立に備えなければな」
隣で、ビルがぐえうと変な返事をした。
「人が真面目な話をしている時に、蛙みたいな声を出すなビル。いいか、アガートラムを空けてまで討って出るとは、次の戦いには、我々アースガルズの命運がかかっているという事だぞ。もっと、一軍の兵としての自覚をぉっ!?」
説教を垂れつつ友の方を振り向いたジョンは、いきなり鎧の隙間から襟首をつかまれて、宙に浮いた。
「その話、どこまで本当?」
手の主は、同年代の、見かけた事の無い男だ。口は笑っているが、鋭い蒼の瞳は、冷たく細められている。彼の足元では、ビルがとっくに白目をむいて泡を吹いていた。
「そ、その話、とは、何でゴザイマショウ……?」
「次はアラディアだって話」
「あ、本当、本当です。アティルト様が軍の幹部に話したのを、知り合いの友人の上司が聞いたとか」
「ほぼ他人じゃねえか」
男がぎり、と、つかんだ手に力を込める。ジョンは足を水鳥のごとくばたばた動かしたが、床に降り立つ為には、無駄な努力だった。
「まあいいや。まだ、おちてもらっちゃ困るんだ」
男は、手の力を少しだけ緩めて、ジョンに訊ねる。
「女王様のいる部屋、教えてくれない?」
「あ、あっちです、あっちの、もう二階上の奥」
素直に一方向を指差すと、男はそちらをちらりと見遣り、にっこりと眩しい笑顔を見せる。
「サンキュ」
これで解放してくれるか。ジョンがほっと息をついた瞬間。
「忘れろよ」
みぞおちに強烈な蹴りを叩き込まれ、ジョンの身体は華麗に宙を舞う。これと似た足の裏を味わったような気がして、ジョンは何故か、ソーゾルのとある砦で、ビルと共に扉ごと吹っ飛ばされた記憶を、鮮やかに蘇らせた。
「ああ、ついでにあんたの鎧、貸してくれよな。返す時間は無いけど」
そんな言葉を遠くに聞きながら、ジョンの意識は白い世界に旅立った。
彼が下着一枚の姿で目を覚まし、思い切り風邪を引いていたのは、真夜中の事になる。
大陸中心国の王都が、まるで死の街だ。自室の窓から目に入る様子を見て深く嘆息し、グランディア女王エステルは、力無くカーテンを引いて、視界からその光景を追い出した。
アースガルズに占領されて以降、城下の人々は、敵兵の目に怯えて暮らすか、その目を盗んで逃げ出してゆくしか無かった。アガートラムは、往年の活気が嘘のように静まり返っている。
城内も、グランディア人で残っているのは、女王である自分と、その身を案じたわずかな兵や侍女達である。他にも、女王の傍にと願い出た者は少なくなかった。だが、女王自身がそれを禁じ、騎士団長ユウェインの引率のもと、脱出するように命じたのだ。
城下街に残り密かに連絡を取り続けている親友、リタ・ユシャナハからの情報によれば、娘のイリスが北方で挙兵し、各地の助力を得て連合軍を成して、グランディアに近づきつつあるという。一人でも多くの味方が合流してくれれば、決戦は娘に有利になるだろう。その時、アースガルズの手元に残る者――有り体に言えば人質――は一人でも少ない方が、連合軍の重荷にならない。
既にリタには、折を見て、残る民を連れアガートラムを脱出するように願った。後は、機会だけだ。密かに指示を下すだけで、立場的にも身体的にも思うようにならない、己が身の歯痒さに、この数ヶ月、エステルは苛まれ続けた。
かつて強大な敵を打ち倒し、英雄と呼ばれた事があっても、今、眼前の戦乱を鎮められなければ意味が無い。無力と同じだ。カーテンの端を握り締めうなだれる女王の耳に、部屋の扉が開く音が届いた。
三食を持ってくる兵士だろう、振り向かずともわかる。ノックも無しに女王の部屋に入って来るのは、アースガルズ人くらいしかいないからだ。
「下がってください」
入ってきた兵士に対し、エステルは冷たく言い放った。知らぬ顔が持ってきた物には一切口をつけない。それが女王の数少ない反抗だ。つっけんどんにこう言えば、大抵の者は『勇女王』の気迫に怖気づいて退出する。が、今日の兵士はしぶとく居座って、一向に出てゆく気配が無い。
「聞こえなかったのですか。私は、信用できる者の手からしか受け取りませんよ」
声音に苛立ちを含ませてエステルは振り返り、それから驚く羽目になった。その兵士が、およそ兵士らしからぬ口調で返してきたのだから。
「成程、ずっとそんな意地張ってた訳ね。流石あのお姫さんの母親、って言いたい所だけど、身体弱いんでしょ? あんまり褒められたもんじゃないな」
窮屈な鎧を脱ぎ捨て、すっかり兵装とは対極の粗雑な出で立ちになった青年は、大国の女王に対しても臆する事無く、口の端に不敵な笑みを浮かべた。
「イリスの、お知り合いなのですか。貴方は一体?」
「名乗るほどの者でも」
女王は完全に戸惑った様子でアッシュを見ている。アッシュはいつもの軽い口調での遠回しな表現を放ちかけて止め、顎に手をやって考え込んだが、笑みを消し顔を上げた。
「オレは」
そして名乗った。この女性に対しては名乗る義務があった。父の姓ではなく、必要になった時に使うようにと母から与えられた、本来ならば、彼が真に名乗っていたであろう、その名を。
たちまち女王が目を見開き、「そう……ですか」と感慨深げに潤ませる。
「その名を持つ方が、娘を守っていてくださったのですね」
「そんな大層なものじゃないです。オレの方が、あいつの強さに救われた」
アッシュは照れくさそうに頭をかき、当初の目的を思い出して、女王に向き直る。これで役目御免ではないのだ。イリスの母の安否を確認した後は、あわよくば共に連れて脱出するという、重要な仕事が残っている。
「今なら手引きできます。見つかる前に」
しかし、女王は静かに首を振り、やんわりとその申し出を断った。
「私はここに残ります。その代わり」
そして娘へ伝えて欲しいと、幾つかの伝言を託してきた。だが、アッシュにしては珍しく、食い下がる。
「このままはいそうですかって、敵陣に病人残して引き下がれる訳、無いでしょ」
「城内にも、城下にも、まだグランディアの民が多数おります。私が離れれば、アティルトがたちどころに彼らを殺戮するでしょう。それだけは避けねばなりません」
「また、あの野郎かよ」
逐一憎たらしい手法で邪魔をしてくれる奴だ。苦々しく呟きながら、アッシュの手は自然と胸元の首飾りを握っていた。
「ただでさえ父親を殺されてるのに、その上母親も死んでたなんて。そんな目に遭うのは、俺だけで充分だ」
そこに輝く物を託してくれた少女の、不安げな瞳が思い返される。
「あいつに、同じ思いをさせないでください」
想う娘と同じ色の瞳で、女王がはっと青年を見返した。
今、彼女の感情は、王と母の間で揺れているのだろう。だが、アッシュは盗賊として育ってきた。王族の務めや覚悟、民への責任など、知った事ではない。
次に拒否されたら実力行使、という考えも頭をかすめたが、突如部屋の一角から浴びせられた、嫌味なまでにゆったりとした拍手が、それを打ち切った。
「なかなか泣ける話だ。が……そろそろ茶番は終わりにしてもらって良いかな」
咄嗟に女王を背後にかばい、アッシュは声の主を睨みつける。
「侵入者にいつまでも気づかないほど、僕が間抜けているとは、まさか思っているまい……ねえ?」
前触れも無く現れたアティルトは、それだけでも相手を凍てつかせそうな笑みを顔に貼り付け、悠然と歩み寄ってきた。紅の瞳は、少しでも隙を見せれば殺せるように、アッシュの一挙動を油断無く観察している。
「やめなさい、アティルト」エステルが二人の間に割って入り、女王としての威厳を失わぬ気迫を込めた視線で、妖魔を見据えた。「これ以上、他者に危害を加える事は許しません」
目障りな介入だとばかり、アティルトはあからさまに顔をしかめる。しかし、すぐに普段の余裕を取り戻すと、一歩、女王に近づき。
「わかっていますよ、女王陛下。僕とて無闇に殺生をする気は無い」
二歩目、手をかざす。それだけで、エステルの身体ががくりと力を失った。
「少なくとも、五月蝿い貴女が見ている前ではね」
皮肉を込めて呟くと、倒れ込む女王を手中に収め、アティルトはゆったりと向き直った。その口が三日月形を作る。狩猟者が恰好の餌を見つけたとばかりに。
アッシュは反射的に、靴の裏側に隠していた短剣を取り出した。潜入の為とはいえ、主力の得物を置いてきてしまった事を、酷く後悔しながら。
しかしすぐに、それは些細な心配事であったと、彼は思い知る。
武器の数も、有無さえも、問題ではなかった。アティルトが片手を突き出した、その動作だけで、アッシュの身体は目に見えぬ強烈な衝撃波に弾き飛ばされ、壁にめり込む勢いで叩きつけられていたのだから。全身を駆け巡った激痛に、見なくとも、折れた、と悟る。
嫌味なまでにゆっくりと、アティルトは歩み寄って来て、アッシュの胸を踏みつけた。こみ上げて来た血の塊を、耐え切れずに吐き出す。
「イリスの周りをうろついていた虫けらか。つくづく邪魔だね、君も」
妖魔は忌々しげに言い放ち、乗せた足に体重をかけていた。が、ふと何か、面白い事を考えついたとばかりに、アッシュの髪を引っつかんで、嬉々とした笑みに満ちた顔を近づける。
「だが、まだ役には立つ。僕の姫君に絶望を与える為に、君には一働きしてもらうよ」
「悪趣味野郎が……!」
鉄錆の味に満たされた口からは、かすれた声しか出なかった。それが最後の抵抗となり、アッシュの意識は急速に遠ざかってゆく。
(イリス……)
気をつけて、と見送ってくれた王女の顔を、アッシュは思い出そうとする。しかし闇に沈む直前まで、彼は、イリスの泣きそうな顔しか思い出す事ができなかった。




