第5章:それぞれの想い(5)
話が違う。聖王教会大司教――正確には、であった、狂信者ディング・コルセスカは、フェルン砦の最上階で、部下を前に内心混乱していた。
部屋の中央には、カレドニア軍の魔獣を惑わす魔法陣が敷かれ、上空に漂う黒い宝玉へ魔力を送り続けている。
禁呪を用いて敵の戦力を殺ぐ。それだけの仕事だったはずだ。それが、敵が砦内まで乗り込んできて、僧兵隊も魔物の群も壊滅状態だという。
自身も傷つき、絶望的な報告を述べる僧兵に、ディングは震える手に握った杖をかざし、回復魔法を詠唱した。
聖王教会に代々伝わる、そして今では、高位司教の権威の証ともなっている、聖なる癒しの杖、リフレックスが輝きを帯びる。
「案ずるな。我々には神が味方についている。神の下僕に敗北など無い。奴等を蹴散らせ」
たちまち癒える傷に、僧兵は驚き、そして「ははっ!」とディングに向けて平伏すると、その場を走り去った。
しかし、一人残ったディングは、部下に見せた尊大な態度はどこへやら、落ち着き無く右往左往し始めると、かりかりと爪で杖の柄をかきむしる。
「どうする。どうする、どうする」
誰もいないのを良い事に、声に出してまで動揺を吐露していると。
「そんなに焦る事もあるまい、大司教殿」
完全に冷静さを欠いたディングの耳に、対照的な、やたら落ち着き払った声が届いた。
「ア、アティルト様!」
神の存在を吹聴し、聖王を棄てるように誘惑した妖魔は、転移魔法を用いて優雅に現れる。その間ももどかしく、ディングはすがりつくように彼に早足で近づいた。
「奴等がもうそこまで来ているというではありませんか。私は実戦などした事が無い!」
機嫌を損ねれば一撃で殺しかねない、と噂の相手だというのも忘れ、思わずアティルトの肩をつかんで揺さぶる。
「イリス王女は私を憎んでいるだろう。捕まったらどんな報復を受けるか、わかったものではない!」
「僕の姫君が、そんな真似をするような娘なら、むしろ見てみたい気もするけれどね」
ディングの手を、汚いものを払うかのように無造作にどかしつつも、アティルトはくすりと笑いを洩らす。たちまち青ざめる大司教に、妖魔は同性さえ惑わせる笑みを満たして告げた。
「君自身が言っただろう、神の下僕に敗北など無いと。いざという時は、君に与えた力を使えば良い」
魅了するように。妖魔は囁く。
「君は神に選ばれた。敗北は、無い」
「選ばれた……」
杖を引っ掻いていたディングの指の動きが、はたりと止まった。血走った目がのろのろと、相手の紅い瞳を探るように見つめる。その瞳を細めて、小さい子供を安心させるかのようにひとつ頷くと、アティルトは、来た時と同じ転移魔法陣を描いて、その場から消えた。
ディングはそれでもしばらくの間、おたおたと室内を彷徨っていたのだが、近づいて来る駆け足の音を聞くと、自棄気味に胸を張り、リフレックスの聖杖で床をひとつどんと打って、侵入者を出迎えた。
「……エリンか」
ディング大司教のぎょろついた視線に射抜かれ、リルハは一瞬怯んで立ち止まってしまった。だが、隣のエリンは強い意志を持って睨み返す。
「父親に楯突くとは、背徳の極みよ」
「どの口が、偉そうに!」
忌々しげに顔を歪める父親に杖を突き付け、エリンは気丈に怒鳴る。
「聖王教会筆頭の務めを放棄し、世界に仇なす、背徳者は貴方の方です!」
「愚かな。アティルト様の崇高な理念を解さぬとは」
娘の断罪を切って捨て、ディングはゆったり首を振り、不気味な呟きを繰り返した。
「この世界には、神の意志に従う者だけが残れば良い。私は……その為の力を授かった。私は神に選ばれたのだ……」
ひいひいと半ば狂ったように喘ぐ大司教の声が、次第に人間のものではなくなってゆく。こきぽきと音を立てて、その身体が変質してゆく。
「見るが良イ、選バレし者の、コノ素晴ラシキ力ヲ!」
ああ、とエリンが絶望の吐息を洩らして顔を伏せる。リルハは、最悪の予想が当たってしまった事を認識した。
二人の目の前で、ディングはガルドのヘッセンのように破獣と化していた。ただ、褐色の醜い腕になって尚、変貌前の権力にすがるように、聖杖リフレックスをしっかりと握り締めたまま。
大司教だった破獣は、吼えながらリルハ達に襲いかかってきた。時には熟練の戦士でも、一匹相手にするのに苦労する代物である。人並みの体力しか持たない二人には、突然の攻撃を紙一重で避けるのが精一杯だった。
渾身の魔力を込めて、エリンが光魔法を、リルハは風魔法を放つ。しかしそれは、ディングだった頃彼がしたのと同じく、容易く防御障壁の魔法に阻まれた。
振り下ろされた腕を、何とか身をひねってかわすが、風圧にリルハは部屋の隅まで吹き飛ばされる。したたかに頭を打ちつけて、くらくらと視界が回る。ようよう起き上がった時には、破獣はエリンを反対側の壁際に追い詰めていた。
「大司教殿、やめて下さい! 自分の娘を殺す気ですか!」
少年の叫びに、破獣は応えるどころか、心に響いた様子も見せない。しゅうしゅうと熱い息を洩らしながら、ゆったりと獲物に近づいてゆく。
もう、どちらかが討たれるしか無いのか。
リルハはヴォルテクスを詠唱しようとし、しかし中途に打ち切る。この角度から撃てば、ディングどころか、エリンも無事では済むまい。師ならばともかく、彼女を巻き込まないように制御するだけの力量は、彼にはまだ無いのだ。
「撃ちなさい、リルハ!」
だが、逡巡を断ち切ったのは、エリン自身からの叱咤だった。
「私は平気だから」
生死の瀬戸際にありながらも、やけに不敵に、自信を持って少女は微笑む。その笑顔に勇気づけられ、リルハは詠唱を再開した。
シャングリアにおける最高位の風魔法、ヴォルテクスの刃が放たれる。それは、破獣化した大司教と共に彼の娘を巻き込んだ……かに見えた瞬間、エリンの眼前で跳ね返された。彼女は防御障壁のさらに上位、反射障壁の術を編んでいたのだ。
背後からの直撃と正面から弾かれた力、二倍の風によって、ディングの身体はずたずたに切り裂かれ、そら恐ろしい唸りをあげながら床に崩れ落ち、動かなくなった。
自分が命を奪ったもののあまりの惨さに、リルハは死体から目を背け、それから、恐る恐るエリンの顔色をうかがった。また怒るか、泣くかするのではないかと思ったからだ。
しかし彼女は、リルハがぞっとするくらい無感情な瞳で、父親だったものを見下ろすと、それの手が最期まで握り締めていた杖をむしり取る。
「慈悲と癒しの力リフレックス。貴方になんか、相応しくない」
あくまで憐憫の情を差し挟まない、冷たい口調を浴びせかけると、彼女は事切れた破獣に背を向け、癒しの杖を手にその場を立ち去った。
追いかけようとして、リルハは止めた。
きっと彼女は、リルハの敬愛する王女と同じで、泣き顔を人に見られたくはない女性だろうから。
制御する者がいなくなり、魔法陣の中枢を果たしていた宝玉が、きぃん、と甲高い音を立てて砕け散った。不測の事態に、ユリシスの注意が一瞬そちらに逸れる。
刹那を逃さず、ハーディアが鋭い牙でロンギヌスをがちりと咬んで奪った。平衡を崩した所へ、無我夢中で斬りかかったシフィルの剣は、兄の肩をかすめ、空中に鮮血が舞う。
「……シフィル?」
たった今気づいたかのように、ユリシスが呆然と弟の名を呼んだ。
「……俺、何で親父を……?」
シフィルもはっと目をみはった。兄に取り憑いていた影が逃げるように抜け落ちてゆく。それに引きずられるようにユリシスの身体はぐらりと揺れ、魔獣の背から放り出された。
咄嗟に伸ばしたシフィルの手は、空しく宙をつかんだ。よしんば受け止められたとしても、彼の腕力で兄の体重を支えきる事など、できなかったに違いない。ユリシスの姿は、眼下に広がる森林へと、あっと言う間に吸い込まれて見えなくなった。主を追ったヴィスナも。
シフィルの絶叫が空に響き渡る。
(シフィル、ごめん、ごめんなさい)
ハーディアの苦しげな声が聞こえた。
(貴方を助けられなかった。貴方達を助けられなかった。ごめんね)
「ハーディアのせいじゃない! ハーディアのせいじゃないよ!」
シフィルは必死に首を横に振り、声の限り叫んだが、すぐに飛竜の背に顔を埋めて慟哭する。
少年は、戦場の残酷さを、初陣で思い知る事となった。




