第5章:それぞれの想い(4)
物陰からそっと顔だけを出し、気配を潜めて様子をうかがう。僧兵達が通路の向こうへ消えるのを見とめると、シフィルは、足音を殺してフェルンの砦内を駆け抜けた。
魔獣で近づけるぎりぎりの場所まで飛んできて、後は乗り捨てて走ってきたのだ。ここまで、小柄な少年を見咎める者は無く、あっと言う間に最上階は近くなる。普段は、早く父や兄のように大きくなりたくて仕方無い、忌々しいだけだった低い身長を、人生で初めてと言って良いくらいありがたいと思った。
腰に帯びた、騎士団標準装備である長剣の重みを確かめる。それを振るったのは、稽古だけで、実戦の経験は無い。父が、戦場に出るのを許してくれなかったからだ。
だが、鞘から抜く時が来たとしても、十二分に戦える。そんな過信にも近い確信が、シフィルの中にはあった。何故なら自分は養子とはいえ、二十二年前の解放戦争の英雄、アルフォンス・リードリンガーの息子なのだから。
しかし実際は、敵の目を盗み、こそこそと駆け回っている現状である。
「逃げてるんじゃあない。不要な戦闘を避けてるだけだよ」
誰が指摘した訳でもないのに、唇を突き出して一人呟き、角を曲がった所で、シフィルは慌てて後退し、柱の陰に身を潜めた。
上階へ続く階段を守るように、キマイラが一頭、陣取っている。砦を占領した敵が連れてきたに違い無い。恐らく、戦いに際して、ろくに餌を与えられず、餓えているのだろう。しゅうしゅうと荒い息をこぼし、目は爛々と光って辺りを見回している。
一般兵ならともかく、こんな凶暴な魔物はできれば相手にしたくない。実に後ろ向きな考えで、他の道を探そうと、また一歩下がる。
と。シフィルの足は、廊下に無造作に放り出してあった金属のバケツを、蹴り倒していた。
があん! と大きな音が辺りに響き渡る。
心臓が飛び出しそうなほど跳ね上がる。まずい、と振り返った時には、魔物はこちらを向き、その両眼に少年を捉えて、一声吼えながらこちら目がけて走り込んできた。
シフィルは言葉になっていない叫びを洩らして、来た道を逆走し始める。その後ろを、巨体で壁を突き崩しながらキマイラが迫る。
逃げても逃げても魔物は容赦無く追ってくる。とうとう追いつかれ、獅子の顔の口の奥に炎が宿るのが、周囲の気温変化でわかる。シフィルはわあわあ声をあげ、無我夢中で抜き放った剣を無茶苦茶に振り回しながら後退る。だが唐突に、魔獣の重量で脆くなっていた足場が崩れ、砦の外、何も無い空中に放り出された。
一瞬、手足をばたつかせて、無駄な努力と気づくより早く、身体が落下を始める。それより早く、キマイラが、獲物を喰らわんと迫りくる。
死ぬ。冷たい感覚が脳裏をかすめた、その時。
(諦めないで、シフィル)
シフィルに呼びかける誰かの声が聞こえた。
(貴方は死なない)
脳内に直接語りかけるようなその声は、初めて聞くはずなのに、どこか懐かしさを感じる。
(わたしを呼んで)
三度、囁きが聞こえる。声の主が誰なのか直感的に悟り、シフィルは叫んでいた。
「――ハーディア!」
その瞬間、青い空ばかり見えていた視界に、紫の影が割り込んだ。影の主は鋭い牙持つ顎で魔物の三つの頭を一気に噛み砕き、翼で地上へ叩き落とすと、素早くシフィルの下に回り込む。
淡い紫の目と、視線が絡み合う。その色と対照的に濃い紫の鱗を持つ、飛竜だった。
カレドニア騎士が騎乗するグリフォンより遙かに大きく、がっしりした翼を持つそれは、硬い鱗の身にできうる限りの優しさで、シフィルを受け止める。
「ハーディア、ハーディアだね、わかるよ!」
シフィルはがばりと飛竜の背にとりつき、顔をすり寄せた。
「話せるようになったの?」
(いいえ)
飛竜はちら、と少年を見やり、その口を動かさぬまま答える。
(わたしは声でなくて、直接貴方の心に話しかけている。ううん、今までもずっと話しかけていたの。やっと聞こえてくれたのね)
「うん、聞こえるよ、君の声が! 君と話せて嬉しいよ、ハーディア!」
(わたしもよ、シフィル)
興奮気味の少年に対し、巨体に見合わぬ――どちらかといえば普段の華奢な少女の姿から想像がつく可愛らしい――声で返し、飛竜ははっと一方向を仰ぎ見た。
「誰と話しているんだ、気でも触れたか、弟」
そこには、緋色の魔獣を駆る兄ユリシスがいた。しばらくぶりに会った兄は、口元を不敵につり上げ、聖光放たぬロンギヌスを手に、瞳にはどこか虚ろな光を宿している。
(気をつけて、シフィル)
シフィルが態勢を整えるより前に、ハーディアである飛竜が咄嗟に間合いを取り、警告するように唸る。
(わたし達の知っているユリシスじゃない。何か、邪悪な力に囚われている感じがする)
高い魔力を持っていた実母の血の影響だろう、言われるまでも無くシフィルにも見えた。兄の背後に、何かどす黒い影が張り付いて、けたけた笑っているのが。
気が触れたのは兄の方か。
影に同調するように嘲笑ひとつ洩らして打ちかかってくるユリシスの槍を、シフィルは反射的に掲げた剣で受け止めねばならなかった。
上空でリードリンガー兄弟の戦いが始まったのを、はらはらしながら見上げつつ、ようようフェルン砦の入り口に辿り着いたリルハは、へなへなと入口の柱にもたれかかって、そのまま倒れてしまいたくなった。
そもそもここまで、騎士団の先頭を見失わないよう必死に馬を追いかけさせ、道塞ぐ連中をヴォルテクスでなぎ倒しながら来たのだ。それだけでとっくに息切れしているのに、先回りしている味方、それも一番ここにいて欲しくない人間が待ち受けていたら、もう気を失うには充分だ。
「あらリルハ、遅かったわね」
リルハの心情にお構い無く、エリン・コルセスカは相変わらず強気な水色の瞳をくるりとこちらに向けた。周囲には、彼女の光魔法で吹っ飛ばされたのだろう僧兵や魔物達が、累々と倒れている。
「君はシフィル様を助けに行ってよ」
「向こうは向こうで何とかしそうじゃない。第一、私達は滞空魔法なんて使えないんだから、中から元凶を叩くのが、筋だと思うわよ」
リルハは砦の外で打ち合う兄弟を指し示したが、勿論シフィルの助太刀は、エリンをこの一戦から遠ざけるための口実だ。正論で返されて、続ける言葉を失う。何より、彼女自身が既に覚悟を決めたからこそ、ここにいるのだ。止めようが無い。
がっくり肩を落とすリルハに一瞥をくれ、それから少女はぎんと砦の奥を見据える。
「そういう訳で、馬鹿親父様にご挨拶に行きたいんだけど。あいつら、通してくれると思う?」
「……いいや」
「話は決まったようだな」
グランディア騎士を率いたユウェインが、槍を手に進み出る。
「我々が道を開く、君達は全力で進め」
彼らの視線が向けられる先からは、新手の魔物が続々とやってくるのだった。




