第5章:それぞれの想い(2)
憧れのグランディア騎士団と合流し、アルフィンの心は極限まで昂揚していた。白銀の鎧をまとった騎士達、正式な叙任を受けた聖剣士達とすれ違うたび、思わず足を止めては、ほうと息を洩らし見惚れてしまう。
「アルフィン・クローヴィスというのは、君かね」
「あ、は、はい! そうです」
そんな時に、突然グランディア騎士の一人に名を呼ばれたものだから、アルフィンはすっかり裏返った声を出しながら振り返った。口髭を生やした壮年の男性が、穏やかな表情でこちらを見つめている。相手が身に着けている白を基調にした制服は、正騎士の中でもかなりの高位を示す。否が応にも緊張が高まるというものだ。
「え、ええと、貴方は」
「ユウェイン・サヴァー。それでわかるかな」
アルフィンは驚愕が加わって、とうとうそのまま仰向けにすっ倒れそうになった。彼にとってその名は、大陸最大国の騎士団長、それだけの意味を持つものではないのだ。
「妹から、泣きそうな字で手紙が届いたよ。育てていた親友の息子が、突然家出したとね」
途端に、アルフィンは耳まで真っ赤になった。
「お、おれ、いや僕も、おじさんとおばさんにはすまなかったと思っています!」
相手を直視できなくて、アルフィンはぎゅっと目をつむり、拳を握り締めて、しかし本音を吐露する。
「でも、世界が大変な事になっているのに、自分だけトルヴェールで呑気に過ごしているなんて、たまらなくて。その事は、ちゃんと書き残して出てきたんです。だ、だから!」
「安心したまえ。君を叱りにきたのではない。流石に今は、ここから帰れとは言えぬ戦況だからな」
しどろもどろになる青年に、騎士団長は、落ち着いた声音で話しかける。思わず目を開いて見上げれば、育ての母と良く似た面差しが、こちらを見守っていた。
「ただ私に、君が死んだなどという、縁起の悪い手紙だけは書かせんでくれよ」
「は、はい!」
ようやく少し落ち着きを取り戻したアルフィンは、元気良く返事をした。それから、思い出す事があって、ユウェインに訊ねる。
「ユウェイン様はお若い頃、トルヴェールで暮らしてたんですよね」
「ああ、随分昔の話だがな」
「では」
一瞬だけ躊躇い、青年は問いかける。
「僕の父……だと思しき人物に会った事は、無いでしょうか? あるいは、父に関する話を、少しでも耳にされた事は」
ユウェインが目をみはって言葉を失った。しばし思案に浸るような間が落ちたが、やがて、彼は首を横に振る。
「すまぬな、私も歳をくった。旧知の顔を思い出すのも、一苦労なのだよ」
「そうですか……」
アルフィンの心に落胆が訪れる。
育ての親に何ら不満がある訳ではない。だが、先の大戦で亡くなったとしか知らされず、真実を知っていたはずの実の母も、物心つく前にはかなくなった。幼い心が実の両親を求めるのは、至極自然な事だったのだ。
「余計なお時間を取らせて、すみませんでした」
「いや、先に呼び止めたのはこちらだ、気にするな」
アルフィンは気を取り直して丁寧にユウェインにお辞儀をすると、足早に立ち去った。
青年の背を見送りながら、ユウェインは嘆息する。
本当は、一人だけいたのだ。思い当たる人物が。
(顔は、あの人のお若い頃にそっくりだ)
青年の母親がその男性に惹かれていた事も知っている。というか、遠い過去に、
『だってお兄様。どう見たって、あれは恋する女の子の顔でしょう?』
と妹が笑っていたから知ったのだ。
しかし、彼の事を青年に語るには、まだ確証も時期も満ちてはいまい。ユウェインは直感的にそう思い、自分一人の心に仕舞い込む事に決めた。
一方、同じ気分の昂揚でも、怒りを全面に押し出して連合軍の陣内をずんずん歩くのは、シフィルであった。
いつもこうなのだ。自分は子供だからと、大人達の会話から除外されてしまう。シフィル、と親族が呼ぶその名前自体が、枷になっているような気さえする。
十四年前、クレテス将軍の死の衝撃から、エステル女王に宿っていた新たな命も失われた。その後すぐ、部下の子として生まれた赤子に、アルフォンスは、姉夫婦が二人目の子につけようとしていた『シフィル』の名を与えた。そして、本当の両親が早くに亡くなると、リードリンガー家の子として引き取ってくれたのだ。
本来なら自分の弟として生まれくるはずだったかもしれない少年を、イリスは実の姉のように可愛がってくれたし、一族の末っ子として、誰からも大切にされる。しかしその過保護ぶりは、当の本人にとってみれば、いつまで経っても自分を一人前と認めてくれない周囲への、不満にしかなり得なかった。
まだかりかりするシフィルの耳に、しゃらん、と聞き慣れた鳴子の音が響いた。それは、ある一人の存在を主張する、大事な音である。
「ハーディア」
人波の中でも何故か流されずに佇んでいた小柄な少女は、紫を帯びた銀の髪を揺らし、小首を傾げてこちらの様子を窺っていた。何故怒っているのか、と問いたげだ。いや実際、問うているのだろう。
ハーディアは人と会話をしない。声を発しないのだ。精神に大きな傷を負うと、言葉を失う事があるのだと、母ファティマは言っていたが、本当の所はわからない。ハーディア本人の口から聞けないのだから。
しかしハーディアは、他人の言葉を聞いて、表情や身振り手振りで感想を示す事はできる。だからシフィルはいつもそうしているように、彼女に不満を洩らすのだった。
「聞いてよハーディア。父さんはまた、僕を子供扱いさ。父さんは僕の歳には、騎士として出陣してたんだ。僕だって、充分戦えるのに」
それを聞いたハーディアは、長い睫毛をを伏せがちにして、ゆっくりと首を横に振る。額にかけた紐にぶら下がる鳴子が、しゃん、と、周囲の喧噪に負けない音を立てた。
ハーディアは不思議な少女だ。シフィルが物心ついた時から、リードリンガー家の中に彼女はいたが、国務に追われる養父母の代わりに、よちよち歩きのシフィルの相手をしてくれたのは、姉のような年頃のハーディアだった。
今ではシフィルより幼くすら見える彼女だが、少なくともこの十三年間でシフィルと同じだけの年齢を経たようには見えず、それでも今だに姉のような振る舞いをして、シフィルをやきもきさせる事がある。
今回も、意気込むのをやんわりと否定する態度に、シフィルの不満はますます募ってゆくばかりだ。
「何だよ、ハーディアまで!」
ぷくりと頬を膨らませて、シフィルは怒りを爆発させる。
「僕はもう、立派なカレドニア騎士になれるんだ。それを、次の戦いで皆に見せてやる!」
そのつまらぬ意地こそ、子供である立派な証左だと気づかず、シフィルはばたばたと走り去ってゆく。その背を見つめて、ハーディアが小さく溜息を洩らす。身につけた鳴子がまた、しゃらん、と鳴いた。
それは、子供の頃の記憶。
何が原因だったかは覚えていない。父親に叱られたのが頭に来て、街を飛び出し山に入り、道を失ったのだ。
辺りはどんどん暗くなってゆき、どこからか聞こえてくる梟の鳴き声、何かの獣の遠吠えが、心細さと不安感をより一層かきたてる。何とか人の通る場所に戻ろうとしたが、暗くて見えなくなっていた、張り出した木の根に足を取られ、派手にすっ転んだ。
男なら泣くまいと思えば思うほど、頭は混乱し、母が恋しくなり、ぐすりと鼻をすすって、顔を拭った。
そんな時、明らかに鳥や獣とは違う鳴き声が、耳に届いたのだ。それは、魔獣騎士団の獣舎に行くと聞ける、グリフォンの鳴き声に似ていた。
恐る恐る、声のする方向へ、歩を進める。すると、薄暗い洞穴の中に、魔獣の巣があった。声は、そこからするらしい。こわごわ覗き込むと、巣には一頭のグリフォンの子供がいた。ぴいぴいと鳴くその子以外には、親兄弟は見当たらない。
だが、驚いた理由はグリフォンがいたからだけではなかった。その翼の色は、一般騎士が騎乗する魔獣には見られない。
『緋翼』
父が常々語っていた、両親や伯母にとって大事な恩人である女性が駆っていたというグリフォンと同じ、鮮やかな緋色をしていたのだ。
寂しげに鳴いていた魔獣の子供は、やがて、こちらに気づいたか、首をもたげると、たたたっと駆け寄ってきた。そして、人間の子供が抱えるには少々大きい身体をすり寄せて、ごろごろと喉を鳴らす。いきなり懐かれた事には面食らったが、やがて、人間より温度の高い身体に顔を寄せ、話しかける。
「お前も、一人ぼっちなんだな」
道に迷った人間の子供と、家族に置いて行かれたグリフォンの子供は、洞穴の中で互いに身を寄せ合い、夜の山の寒さをしのいだ。
そして、月が西に沈み、辺りが白んでくる頃、捜索に出ていた大人達が、寄り添って眠っている二人――もとい、一人と一匹を見つけたのだった。
それは、十年以上前のこと。
愛騎の呼びかけるような鳴き声で、ユリシスは夢から覚醒した。少し休むつもりが、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
アガートラム城の飛行騎獣を待機させる場所で、魔獣ヴィスナに背を預ける体勢で、ユリシスは一人嘆息した。
今の自分は見た夢の時と同じだ。道を見失っている。
孤独な少女を救いたいと思い、敵軍に身を投じた。従妹に、手出しをするな、任せろと言った。しかし実際の所は、戦況を変化させる事もできず、伯母の安否も探り出せず、状況は、何ひとつ変わってはいない。カレドニア盟主の息子、という立場も、全く活用されてはいなかった。
『国を国足らしめるに必要なものは、上に立つ者ではない』
父が常に言っていた言葉が、またも重くのしかかる。
『支え、信頼を寄せ、求めてくれる民が無ければ国は成り立たない。お前も、いずれ国を背負って立つ身ならば、それを忘れるな』
自分は、役に立たないのだろうか。誰にも、求められないのだろうか。ロックキャニオン戦からこの数ヶ月、そんな思いばかりがユリシスの心に渦巻いていた。
かつて迷子になった時は、ヴィスナと出会った。一人道に迷った人間の子供と、ただ一匹親兄弟に見捨てられた魔獣の子供は、共に山中の夜を明かし、そして、かけがえの無い友になった。
時が経ち、ユリシスを取り巻く状況が変わった時、傍にいてくれたのは、ヴィスナだけだった。もう、他には誰もいない。
ふと、胸元の首飾りを取り出し、剣十字の輝きを見つめる。これを託してくれた少女は、まだ、自分を信頼してくれているだろうか。そんな事を考えた時、不意に身近に生じた転移魔法陣の気配に、ヴィスナが低い唸りをあげ、ユリシスは咄嗟に腰の短剣に手をやって身構えた。
「おやおや、そんなに恐い顔をされるとは。つくづく嫌われたものだね、僕も」
「人を半殺しにしておいて、ぬけぬけと言う奴だな」
ユリシスが半眼で睨みつけると、妖魔アティルトはやれやれとばかりに肩をすくめた。
アースガルズ軍に身を置いてからというもの、この男に出くわす機会は何度かあった。刃傷沙汰になる事は無かったが、相手は今だにいつでも、こちらに隙あらば排除しようとしているのがありありとわかる。だからこの妖魔の前では、決して身体的にも精神的にも、つけ入る余裕を見せないように努めてきた。
しかし今日のアティルトは、やけに嬉しそうに口元を緩めると、浮ついたような歩調で、ユリシスの前に近寄ってきて、耳元に唇を寄せ囁いた。
「次はカレドニアで戦になる」
ユリシスの表情が明らかに揺らいだのを、妖魔は見逃さなかった。
「やりづらいだろうね、今の君には?」
同性さえどきりとさせそうな笑みを顔に張りつけて、一歩後ずさったユリシスの眼前に手をかざしてくる。
「だが……考えてもごらんよ。君の父親は、君を救おうとはしなかった。従妹の姫君も、立派に連合軍の盟主として立っている」
詭弁だとわかっていても動揺した事が、隙を与えてしまった。そう気づいた時には、ユリシスの視界は暗転し、全身から力が抜けてゆく。
「最早君を心配してなどいない。そんな者達に義理立てをする必要は、無いんだよ」
違う、と叫ぼうとした声は言葉にならず、妖魔の台詞が頭の中にわんわんと響く。
「君に使いようがあって良かったよ。さあ、君の手で、カレドニアに滅びを与えるんだ」
嬉々とした妖魔の声と共に、逆らえない力がユリシスの心を捉える。もうはっきりしない視界の中、テルフィネの顔が浮かんで消え、よろめいた身体は、背後にいた魔獣にもたれかかる。
ヴィスナが小さく、悲しげに鳴くのが聞こえた。
自分がどうなっても、この友は、自分を見捨てずにいてくれるだろうか。
そんな考えを最後に、ユリシスの意識は完全に黒の世界に呑まれた。




