第4章:魅入られし魂(10)
「ヘッセンは以前から、王位を欲していました。そこを、そのアティルトという男につけ込まれたのでしょう」
老年を控えたティファ女王の顔には、幽閉生活と精神的な労苦から、疲弊の色が濃く浮かんで消し得なかった。体調が思わしくないからと、床についたままの会談となったのが、より悲壮感を増している。
無理も無い。従弟は刃向かった挙句に壮絶な死に様を遂げ、自身は黒騎士に襲撃を受け、兵の一部も失った後なのだ。
それでも、昨晩の内に起こった事の顛末を聞いた後、彼女は溜息ひとつ零さず、逆にイリスや連合軍の者達を気遣う言葉をかけてくれた。
「全ては私の無力さが招いた事態です。二十三年前、貴女のお母様にも、多大なご迷惑をおかけしたのに、本当に申し訳ございません」
深々と頭を下げる女王に、「いいえ」とイリスは首を横に振る。
「解放戦争の折も、陛下は民や家臣の為に、御身を危険にさらす事を厭わなかったと、そう聞いております。今回のご判断も、決して間違ってはいませんでした」
それを聞いたティファははっと顔を上げ、そして口元の皺を深くして微笑む。
「王女殿下も、やはり『優女王』と『勇女王』の血を、たしかに引いていらっしゃるのですね。お祖母様にも、お母様にもそっくりです」
「最近やっと、色々なものが見えてきたばかりで、まだまだです」
称賛がくすぐったくて苦笑を返すと、「そういう謙虚な所も一緒」と、女王は親しげに目を細めてみせた。
だが、笑みはすっと消え、
「イリス王女。お願いがあります」
と、真剣な眼差しが王女を射抜いた。
「ガルドの兵、そして、我が国の行方を、王女にお願いしたいのです」
唐突な依頼に、当然イリスは吃驚した。
「私には子がおりません。本来の王位継承者である兄がおりましたが、若き頃に国を出て戻らず、唯一の血縁であったヘッセンも、このようになってしまいました。ならば、私が世を去ってから揉めるより先に、信頼できる方へガルドを託しておくのが、最善の策だと思うのです」
イリスの動揺を予測していたのか、こちらの手を取り女王は続ける。
「王女のご両親の事は、よく存じております。お二人がいかに誠実で信頼できる方か、それも知っているつもりです。ですが私は、お二人の御子だからというだけで、こんな事を頼んでいるのではありません」
細い手が、イリスの手を撫ぜる。その手には幾重にも皺が走り、迎え黒子も浮き始めている。だが、剣を握って消えない傷ができてしまったイリスのそれとは違う、為政者として立ち続けた女王の人生の積み重ねを感じさせる手である。
「イリス王女、北方と東方に信頼された、貴女という個人のお人柄を信じて、ガルドを託したいと願っているのです」
女王の手は一見頼り無い。だが、そこに込められた力は、彼女の切実な希求を表している。
助言を求めてクラリスを見た。守役は、否でも応でもなく、ただ、答えなさい、と無言で促しただけだった。
既に一軍の盟主を引き受けたのだ。一国の命運が増えたところで、多少の変わりは――勿論あるにはあるだろうが――無い。イリスは腹を括り、出来るだけ相手を安心させる声色で告げる。
「わかりました、ティファ女王。ご依頼を、お受けいたします」
それを聞き届けたティファ女王は、「ありがとうございます」と唇を動かすと、安堵した故か、手の力を抜き、浅い眠りに落ちていった。
「よ」
女王の部屋を出た途端、陽気な声が待ち構えていた。アッシュは手近な柱に長身を預けたまま、笑顔で片手を挙げてみせる。クラリスは意味深な笑みをこちらに向けると、さっさとどこかへ行ってしまった。
「グランディア、北方諸国、東方と来て、とうとうガルドの名代か、あんたも大変だな。そのうち本当に、大陸全土の女王陛下にまで、なっちまうんじゃないの?」
なじられても仕方ないと覚悟していたので、いつも通りの軽口を叩いてくる青年の態度に、イリスは謝るタイミングを逸してしまったのだが。
「アッシュ!」
彼が黙った一瞬の隙に、ようやく割り込む。
「その、昨日は、す」「あ、待った」
しかし、それを止めたのはアッシュの方だった。
「オレ前に言ったよな。女がサシで男に謝るのは、惚れた相手より先に死ぬ時だけにしろって」
「でも、私は貴方に酷い事を言った」
「そんなんでいつまでもヘソ曲げてるような、小さい人間に見える、オレ?」
人懐っこい笑みを浮かべる青年につられて、イリスもようやく、強ばっていた表情を緩める事ができた。
「ま、全然気にしてないって言えば嘘だけど、自分の家族の為に戦う気持ちも、あんたの為に戦う気持ちも、どっちも嘘じゃないからね」
手酷く突き放したのに、彼は優しい。だからこそ、禁じられたからと言って、心に灯りかけた想いをすぐに消す事など、できる訳が無いのだ。この灯を伝える事はできずとも、ひっそりと抱いて仕舞い続けているだけなら、良いだろう。
一晩の内に、一人で納得した結論を胸に見上げると、相手は、いつものおどけた、しかしイリスを安心させてくれる笑みを向けていた。
「それにあんた、謝るよりも、オレに言いたい事、あるでしょ」
意図する所をわかりかね、イリスが首を傾げると、アッシュは自身の胸を小突く。
「お袋さんが心配なんだろ。頼めよ、オレに。アガートラムに行けって」
「それは」
イリスは返答に詰まって立ち尽くしてしまった。
常に案じてはいたが、昨夜のヘッセンを見て、不安はさらに大きくなっていたのだ。敵は、人間まで破獣にしてしまうような軍だ。囚われている母が一体どんな目に遭っているか、想像もつかない。だからといって、否、だからこそ、身近な人間に、母の安否を探ってくれなどとは言えなかった。個人的感情の為に、仲間を危険にさらしたくはない。ましてや、この青年を。
しかし、そんなイリスの懸念までお見通しとばかりに、アッシュは胸を張ってみせるのだ。
「あんた、オレの本職忘れた? 天下の義賊バイオレット団の一員だぜ。そう簡単にヘマ踏まないさ」
その自信と勢いに押され、一抹の不安を拭えずにいながらも、イリスは頷いた。
「わかった、お願いします。だけど、くれぐれも気をつけて」
「任せとけって」
アッシュはじゃあ、と手を振り早速立ち去ろうとする。
「アッシュ!」
その腕を、イリスは思わずつかんで引き止めていた。きょとんとした表情で振り返る青年の眼前に、左手から外した輝きを突き出す。父の形見の腕輪だった。
「お守り代わりくらいにはなると思って」
「いいの?」
「勘違いしないでよ。私にとっても母様にとっても大切な物だもの。後できちんと返してもらうわ」
それでもアッシュは嬉しそうに何度も頷き、左手を出して待っている。何のつもりかと眉をひそめると、彼は悪戯っぽく笑った。
「何、はめてくんないの? 誓いの指輪みたいに」
その一言でようやく意味を悟り、イリスは耳まで真っ赤になって怒鳴りつけた。
「ばっ、馬鹿、何言ってるのよ! もう、あんたなんかどうなったって知らない!」
瑠璃の輝きが投げ付けられ、青年の逞しい胸にぶつかる。
「おいおい、大事に扱えよ、親父さんの形見をよ」
アッシュは苦笑しながらそれをつかみ、失くさぬよう以前と同じように首飾り(ペンダント)に通そうとして、一瞬動きを止める。
「ん。じゃあ、代わりにこれだ」
そうして彼は、鎖から剣十字の飾りを外し、イリスに差し出した。
「これ、って」
「お守りもらったからな、お返し。これもわりと、ご利益あると思うぜ」
「そうじゃなくて」
イリスは困惑しながら相手の顔を見上げる。
「妹さんを見つける為の大事な手がかりでなんしょう。私なんかに預けて良いの」
「あんただから、持ってて欲しいんだよ。あんたがそれを持っててくれる限り、オレは必ずあんたの所に帰ってくるって、約束代わりにさ」
アッシュは笑った。だがそこに、いつもの軽い調子は無い。時折垣間見せる、あの真剣な眼差しが宿っている。
「オレはちゃんと帰ってくるから。その時まで、預かっててくれ」
イリスは思わず言葉を失い、ただこくりと首を縦に振る。おずおずと差し出した掌に、アッシュの大きな手が重なり、剣十字の銀細工が、託された。
「気をつけて」
「りょーかい」
イリスの言葉に、アッシュは穏やかな口調で返し、くしゃくしゃと王女の金髪を撫で回す。手が離れ、青年が踵を返す。去り行く背中が廊下の向こうに見えなくなるまで、イリスはその場に立ち尽くして見送った。
どうしても拭えない不安感が胸に込み上げてくるのを、気のせいだと自分自身に言い聞かせながら。
「そろそろいいかな」
イリスの鼓動が収まってくる頃合いを見計らっていたかのように、声をかける者がいた。
シャングリア大陸の始祖種『フォモール』の末裔、エシャラ・レイは、紫みを帯びた長い銀髪をかきあげながらやってくる。
「ボクもしばらく同行させてもらうよ」
前置きも無しにエシャは告げた。
昨夜あの後からどこにいたのか、両親とどういう交流関係にあったのか、そもそも、何の為に現れたのか。
「世が乱れる時、始祖種は人間達の前に現れる。今が、その時だとだけ、答えておく」
質問は山とあったが、エシャラ・レイは最後の一つのみ、しかも漠然としか答えてはくれなかった。
確かにあの魔力は、戦力としてあてになるが、「つかみ所が無くて飄々としている」という、親世代の評価が嘘のように、始祖種の王は真剣な表情を顔に満たして、イリスを見つめてくる。
想定との違いで首をひねるばかりのイリスに、エシャラ・レイは聞こえるか聞こえないかの声で、鋭く呟くのだった。
「今度こそ、運命を変えてみせる為にね」




