第4章:魅入られし魂(9)
女王を抱えて仲間達のいる大部屋へ駆け込んだアルフィンは、所構わずくたりと床に横たわる面々を見て、「うわあ!」と大声をあげてしまった。そこに、頭の後ろへ、冷たい鉄の感覚をごりと突き付けられたものだから、「ぎゃっ!」と二度目の悲鳴を放ってすくみあがる。
「何だ、貴様か。驚かせるな」
「そっ、それはこっちの台詞だよ」
銃士マキシムは悪びれた様子も無く、己の武器をアルフィンの頭から離すと、倒れ伏す連中を見渡した。
「夕食に眠り薬でも仕込まれていたのだろう。皆、起きん」
「どうして君は平気なんだよ」
「毒への耐性を高める訓練は故郷でしている」
アルフィンは、夕食を食いっぱぐれて良かったのかもしれない、と考え、それから、大切な事項を思い出した。
「そうだ、アッシュが大変なんだよ」
道すがら、イノを叱咤してきたが、黒騎士の気配だけで取り乱していた彼女だ。助太刀に向かうとは考えづらい。ここは起きている人間に行ってもらうしかない。
だがマキシムは、わかっているとばかりに無返答で、代わりに、
「恐らく、イリス王女もな」
と、新たな脅威を言い残して部屋を出てゆこうとする。アルフィンは驚き、慌てて引き止めた。
「ちょっと待って。どこへ行くんだよ。女王や皆は、どうするんだよ」
「待たん。王女を援護しに行く。女王はお前が介抱しろ。後は全員叩き起こせ」
矢継ぎ早なアルフィンの質問に、無愛想で短くだが逐一答え、マキシムは足早にその場を去った。後には女王を抱いて、泥のように眠りこける者達の間に立ち尽くすアルフィン一人、残るばかり。
(これなら一緒に薬入りの夕食を食って、気を失っている方がましだったかも)
彼はそう、やや後ろ向きに思わずにいられなかった。
アッシュと黒騎士の戦いは続き、青年が劣勢に追い込まれていた。
黒騎士の攻撃は一打一打が重く鋭く、そして、一向に勢いが衰える気配が無い。とても人間業とは思えない剣さばきを繰り出してくるのだ。持ち前の身軽さで何とかかわし、あるいは剣で跳ね返すが、このままでは、いずれこちらが力尽きる。
薄ら寒い予感が頭をかすめた時、アッシュの真横を魔力の電撃が駆け抜け、黒騎士の剣を、何本かの指ごと弾き飛ばした。
「こっ! 恐いけどさ!」
イノだった。入口で両手を突き出した体勢のまま、細かく震えながらも強く叫ぶ。
「ここでアッシュを見捨てたら、アタシは本当に、弱虫の卑怯者になっちゃうでしょ!」
「それでも来てくれたから、お前は充分勇敢だよ」
アッシュが軽い調子で返すと、魔族の少女は一瞬目を真ん丸くし、それから照れ臭そうにはにかんでみせた。
だが、眼前の危機は完全に去った訳ではない。視線を戻せば、黒騎士は雷魔法で黒焦げになった右手を、しばし無言で見つめていた。が、一振りすると、一瞬のうちに骨や皮膚が再生し、吹っ飛んだ指まで元通りになる。
「げ!」「まじで不死身か?」
敵のとてつもない再生力を目にして、イノはまたすくみあがり、アッシュは戦慄を覚えつつも、油断無く剣を構え直す。
だが、ゆっくりと向き直った黒騎士が次に取った行動は、彼らの予想を遙かに超えるものであった。
「……行け」
初めて、彼は声を発した。
アッシュが驚きに目をみはると、仮面の奥の瞳と視線がぶつかる。その剣技と同じくらい鋭利で冷徹な、しかし奥底に、深い哀しみを封じ込めた蒼。そう見えた気がした。
「イリスを助けに行きたいのなら、早く行け。俺が見逃していられる内に」
呆気にとられて突っ立っていると、黒騎士は再度、苛立ちを込めて声をあげた。
警戒して相手から目を離さぬまま、アッシュは一歩後退る。二歩目にイノの腕を引くと同時、全力で走り出した。
周囲には目もくれず疾走し、女王の部屋を離れたところで振り返って、本当に相手が追ってこない事を確認する。今さら冷汗がどっと噴き出し、呼吸が荒くなった。
その時には、彼の思考はもうイリスの安否に移り変わり、黒騎士の瞳を遠い昔に見た気がする、などという考えは、すっかり失念してしまっていた。
ましてや、声に聞き覚えがあったなどとは。
その頃イリスは、バルコニーの端まで追い詰められていた。
ヘッセンは不快感しか与えてくれなかったとはいえ、更には破獣化したとはいえ、最前まで人間だった。その相手に剣を振るうのを躊躇している間に、これ以上の逃げ場を失ったのだ。
背後にはヘッセンとアティルトが迫る。見下ろせば地面は遠く、何とも運の悪い事に、真下の庭には剣を掲げる騎士像が建っている。これが身軽なアッシュだったとしても、飛び降りるのは躊躇われるだろう。
その内に、ヘッセンだった破獣が追いついて、イリスの首根っこをつかみ、バルコニーの手摺りへ押し付けた。は、と苦しい息が洩れ、剣を取り落とす。
「ヘッセン、気を失わせる程度なら良いが、殺すなよ……わかっているね」
後から悠々とやって来たアティルトが命じると、ヘッセンは少しだけ手の力を緩めたが、決して離してはくれなかった。
「我ながら、上手くできたものだよ、この破獣も」
妖魔はくつくつと肩を揺らしながら嗤うと、自己陶酔気味に両腕を広げる。
「ガルドの権力を欲していたものだから、少し知恵を貸してやったら、あっさり食いついてきた。コルダックやミハエルの時より、ずっと楽だったね」
やはり、ミハエルを焚きつけたのはこいつだったか。罵声のひとつも浴びせてやりたかったが、開いた口からはひゅうひゅうと細い音しか出ない。息苦しさに顔を歪めるイリスを、妖魔は愛おしそうに覗き込む。
「イリス、辛いだろう? いい加減意地を張るのはやめて、僕の元へおいで。君の美しさが台無しになる」
薄れかける意識の中、アティルトの囁きは甘美な誘惑となって聞こえた。
何故、父を殺したのか。
何故、アガートラムを奪ったのか。
何故、こうも自分に執着するのか。
今度会ったら全部吐き出させてやろうとしていた問いは遠ざかり、ただ、この状況から逃げ出したいという考えだけが、湧いて出てくる。
身を委ねれば楽になれるのか。諦めにも似た感情がイリスの全身を支配しかける。そんな時だった。
闇の中に 光が差した
夜を昼に 返すように
空気を切り裂くような歌声が、闇夜を駆け抜けたのは。
迸れ 熱き血潮
逆巻く風に 決意を乗せ
虎狼のように 大地を駆けて
静かな水を 波立たせ
定められし 運命など無いと
その手をもって 証を立てよ
妖魔の思うまま魅入られそうになっていた心が、自律を取り戻す。魔道に疎いイリスでも、それが魔力を帯びる音だと、直感的にわかった。
力強い声音に、ヘッセンが狼狽えて手を離し後退った隙に、イリスは一旦間合いを取り、床に落ちていた剣を拾う。そして今度は躊躇わず破獣の胸に突き立てた。予想以上に固い皮膚に、銀製の細身剣がきいんと甲高い音を立てて中途から折れる。だが、破片は刺さったままで、ヘッセンは、腹に響くほどの呻きをあげる。
痛みに怒り狂った破獣は反撃に出ようとした。だが、それより早く、アティルトが止めるよりも早く、今度は銃声がイリスの耳を突き抜ける。駆けつけたマキシムが放った銃弾は過たず急所を撃ち抜き、ヘッセンだった破獣の体がぐらりと揺れる。巨体はそのままバルコニーから転げ落ち、鈍い音がした。騎士像の剣に貫かれたのだと、見ずともわかる。見たくもないので、手摺には近づかない事を決め込んだ。
そちらから顔を背け、今度は残る妖魔に向き直る。気がつけば、銃を放ったマキシムと、今一人、見知らぬ者がその場に現れていた。
「アティルト、彼女に手出しはさせない」
イリスだけでなく、マキシムも、アティルトさえも、その闖入者を見て呆気にとられている。
「何者?」
妖魔の問いかけに、ふたつに結わいた銀色に近い紫の髪を夜風に遊ばせ、青と紅のオッドアイを細めてその者は名乗った。
「エシャラ・レイ。そう言えば、お前にもわかるだろう」
イリスはさらに唖然としてしまった。アガートラムにいた頃、親や周りの人間から聞いていた。彼らと共に戦った、シャングリア大陸の最後の始祖種、フォモールの王がいると。そしてその名は、エシャラ・レイというのだと。
そんな始祖種の突然の介入に、アティルトもしばらくぽかんとして、名乗った相手に見入っていたのだが、口元に手を当てると、唐突に笑いを弾けさせた。
「ははははは! これは分が悪いようだ。君が出てきた事に免じて、今日の所はこれまでにしよう、エシャラ・レイ殿!」
妖魔は、こちらが勝った気になれない捨て台詞を残し、転移魔法陣を描くと、三者が追う間も無く、その場から消え失せた。
「イリス王女、大丈夫か」
マキシムが、思いがけず他者を気遣う言葉をかけてくれたので、イリスは殊勝にうなずいてしまう。それから、エシャラ・レイを名乗った人物を見やった。
エシャラ・レイは、何も声をかけてこなかった。双眸を細めて、吟味するようにこちらを見つめているだけだった。
小高い丘からウルズの城を見下ろしていた黒騎士の背後に、転移魔法陣が出現する。
「そちらも見逃した、と?」
妖魔のやや不服そうな声に、騎士は無言で返すばかり。
「まあ良い、ガルドは潮時でしょう。次の舞台は、カレドニアかな」
アティルトの方も、はなから回答を期待してはいなかったのだろう。やがて不満を忘れ、くつくつと楽しげに笑いを洩らす。
「我が姫君は、思っていた以上に、多くの力に守られているようですね」
邪悪な思いに深紅の瞳をすぼめ、妖魔は今後起こすだろう物語に想いを馳せる。
「だが、だからこそ……それが失われた時の、絶望と破滅は、美しい」
そしてやはり、黒騎士がそれに応える事は、無いのだ。




