第4章:魅入られし魂(8)
「アスラン殿と何があったのですか」
アッシュと入れ違うように入って来たクラリスは単刀直入、溜息混じりに訊いてきた。
「別に何も無い。悪いけど、一人にしてくれる」
「そうはまいりません」
憮然と言い放つ王女に、女騎士はきっぱりと答える。
「ヘッセン殿がおいでです。イリス様がまだ本調子ではないからと、わざわざこちらまで足を運んでくださったのですよ」
言われて初めて、イリスは、守役の後からやってきた男の存在に気づいた。
中年にさしかかった細身の男だ。無駄に装飾の多い服を着込んで狐のような顔で澄ましている。女王の代わりに応対に出ている従弟とは彼の事だろうと、すぐに思い至った。
「初めまして、イリス王女殿下。ガルド国王代理のヘッセンと申します」
予想通り、男は丁重に名乗って頭を下げ、イリスが床から起き上がろうとするのをやんわりと留めた。
「まだお疲れでしょう。どうぞそのままに」
「しかし、三日もご迷惑をおかけしました。ティファ女王にお会いして、お詫びを申し上げねば、こちらの気が済みません」
これはイリスの本心から出た言葉だったが、それ聞いた一瞬、ヘッセンの神経質そうな顔に、焦りが走ったのを、イリスは見逃さなかった。
「我らが女王陛下も生憎、体調を崩しておりまして……その、今は他人と会見できる状態ではないのですよ」
ヘッセンはすぐに取り繕った笑みを作ったが、どうにも答えの歯切れが悪い。
「長いお時間はいただきません。一言、ご挨拶するだけで良いのです」
本当は、ガルド女王ティファに会って、挨拶をするだけでなく、できれば共闘の意向を取り付けたい。しかしヘッセンはあくまで、今は会えない、の一点張りを続けるのだった。
「王女殿下は、北方からこれまでの強行軍で、さぞかし旅疲れをなさっているでしょう。こちらも、陛下が回復されるまで、いましばらくお時間をいただきたいのです。どうかそれをご理解ください」
思わず視線をやると、クラリスはヘッセンに気づかれぬ程度に肩をすくめる。成程、三日間こうとしか取り合ってもらえなかったのだろうと、薄々予測がついて、イリスは心の中で、守役の苦労をおもんばかる。それに、彼のいやに恭しい態度には、何かが隠されているような気がしてならない。
客人達の疑念に気づかず、ヘッセンは念を押すように強調した。
「どうぞ、ごゆるりと」
「クラリスさん」
ヘッセンが出てゆき、自らも王女の部屋を退出した所で、いきなり声をかけられたので、クラリスは不覚にもぎょっと身をすくませてしまった。
入れ違いで出て行ってからずっと、ここに突っ立ていたのか。そんな間抜けな問いを投げかけるより先に、アッシュは声をひそめて囁きかける。
「今夜、一人か二人、ちょっと身軽な奴を寄越してくれないかな」
普通の人間では、突然それだけを言われて、何の事か把握するのは難しいだろう。しかし、クラリスの研ぎ澄まされた思考回路は、青年の意図する所をすぐに悟った。
「アスラン殿は、どこでそう思われましたか」
「盗賊の勘。って言って、騎士様は信用してくれる?」
すれ違う者に内容を悟られないように、普段を装い並んで歩きながら、会話を続ける。意図的に対象の名を伏せて訊ねると、アッシュはおどけて笑ってみせたが、すぐに真顔に戻った。
「あいつ、どうにもいけ好かねえ。ああいう面構えの奴は、絶対何かを隠してやがる」
気に入らぬ、などという理由で疑われる方はたまったものではないだろう。だが確かに、ヘッセンの振る舞いには、そう思われても仕方無い不審な点が、この三日間で多々あった。女王に会わせてくれない割には長く引き留め、周囲に目をやれば、さりげなく、しかし至る所に兵士が配置され、こちらの挙動を油断無く監視しているのだ。こうなると、ティファ女王が病気というのも、甚だ怪しい。極端を言えば、アースガルズと結託して、連合軍を陥れようと何かしらの策を巡らせているのではないだろうか。クラリスはアッシュより論理的な観点からだが、彼と同意見に達していた。
「では、私ともう一人で」
「いや、あんたはだめだ」
クラリスの提案を、アッシュはあっさりと否定した。
「あんたは、イリスの傍についててやってくれ」
その言葉に、クラリスは思わず立ち止まり、ぽかんと青年の顔を見上げてしまった。相手も足を止め、怪訝そうに聞き返してくる。
「異議あり?」
「……喧嘩をされたと、思ったのですが」
「それでくだらねえ意地張って、全体の進行に支障をきたすほど、子供じゃないですって、オレは」
照れ隠しに微笑する青年につられて、女騎士も口元を緩め、つい本音を述べる。
「姫様には、貴方のような方が支えていてくださると、心強いです」
「買いかぶりすぎだって、それも」
アッシュはより一層決まり悪そうに呟き、足早に歩いてゆくのだった。
暗闇から気配無く繰り出された手刀に、夜勤の兵は声をあげる間もなく昏倒した。
「ひゃあ、かっこいい」「さすが元盗賊」
「御託はいいから、遅れずについて来てくれよ」
イノとアルフィンの呑気な称賛を受け流し、アッシュは女王の私室へと、月明かりばかりが照らす薄暗い廊下を駆け抜けた。
向こうが女王に会わせぬつもりなら、こちらも正攻法以外を用いるまでだ。女王に会えれば疑惑の証人となるし、殺されていれば、ヘッセンの潔白を崩す事は容易い。
しかしアッシュは、後者はまず無いだろうと踏んでいた。夕刻、密かに探りを入れた時、女王の部屋付近は幾人かの兵士が交代で見張りについていたからだ。人格から察しても、ヘッセンは、女王を抹殺した場合に、そこまで念入りな偽装をできるほど、策を巡らせられる輩ではなさそうである。
それにしても、クラリスも斬新な人選をしてくれたものだ。
「ちょ、ちょ、待ってよ。そんなに早く走れないって」
「君に付き合わされたせいで、夕飯食いっぱぐれたんだよ、おれ達」
確かに身軽な者を、と言ったが、頭の中まで軽そうな魔族娘と、反対に純朴さがとことん頭の回転を鈍らせてくれそうな田舎青年の二人組を寄越すとは。実はクラリスも主君を不機嫌にさせた事を怒っていて、これはささやかな仕返しなのでは、と邪推してしまう。
だが、二人の戦闘能力は確かに当てになる。いざ立ち回りとなった時、味方は多い方が心強い。そして、その確率が高い事、相手がガルド兵士など雑兵に留まらない事も、彼は承知済みだった。
証明はすぐに来た。
「……いる」
突如イノが小さく悲鳴をあげ、その場にうずくまり、がちがちと歯を鳴らす。
「この先に、何かとんでもないのが!」
少女が廊下の先を指し示すのと、断末魔の声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
「や、やだっ、アタシは行かないよ! 二人ともわかんないの!? 滅茶苦茶だよ、こんなの!」
イノはほとんど半狂乱で叫ぶ。強大な魔力を有する故に、自身より強い存在を鋭敏に感じ取られてしまうのは、ある意味魔族の功罪である。しかし、彼女が恐慌するほどの力を持つ者が、この城に入り込んでいるとすると、思い当たる節は自然、絞られてくる。
(アティルトか!?)
アッシュは小さく舌打ちし、走る速度を上げた。
「イノはここにいて。すぐ戻ってくるから」
出遅れてたたらを踏んだアルフィンが、丸まって震えている少女に言い残し、後を追ってくる。
廊下にはまるで道標のように兵士の死体が続いていた。そのことごとくが、鋭い刃に一撃で急所を刺し貫かれ、息絶えている事から、少なくともアティルトではないとわかる。奴ならば刃物など用いず、より残酷な殺し方をするはずだ。だがそれは、アティルトでないというだけで、安心の材料にはなり得ない。
そして女王の部屋に踏み込んだ時、アッシュの嫌な予感は的中した。
薄暗い室内に映し出される、二人分の影。ひとつは床に倒れ伏す、ガルド女王。いまひとつの影は、それを冷たく見下ろしている。
ある意味、アティルトよりたちが悪い。心の中で毒づきながら、アッシュは剣を抜く。
直立していた影が、新たな役者の登場に気づき振り返った。金髪は月光に照らされて白んで見え、鎧は無気味な黒光りを増している。
仮面の黒騎士――アースガルズの将は『タナトス』と呼んでいたか――は、生気を全く感じさせぬ機械的な、しかし付け入る隙の一切無い動きで、ゆっくりとこちらに向き直った。
「オレが引き付ける。任せた」
一拍遅れて到着したアルフィンが、へ、と間の抜けた返事をするが、それ以上を打ち合わせている余裕は無かった。次の瞬間には二人で、踏み込んできた黒騎士の剣を紙一重でかわしていなければならなかったのだから。
敵が二撃目に移る直前、すかさずアッシュは上着に忍ばせておいた投剣を放つ。直前で叩き落とされて打撃にはならなかったが、狙い通り、黒騎士の注意がこちらに向いた。
アルフィンの脳も、危惧していたような回転率ではなかったらしい。アッシュの行動と同時に、倒れている女王の元へ駆け寄り、ひっさらうように抱き上げる。横目で見たティファ女王の顔色は蒼白だが、死人のそれではないし、流血もしていない。当て身をくらって気絶しているだけだろう。
安堵する間も無く、黒騎士の剣が振り下ろされてきたので、床を蹴って横様に飛び退く。
「女王を安全な場所に送り届けたら戻……っいや、先に誰かを寄越すよ!」
「頼むわ」
女王を抱え部屋を飛び出してゆくアルフィンと、すれ違いざま早口に言葉を交わし、続く一撃を弾き返す。
「あまり保ちそうにない」
アッシュにしては珍しく弱気な発言は、剣戟の音にかき消された。
夜中、あまりの寝苦しさに、イリスは目を覚ました。熱帯夜の暑さだけではない。妙な予感を覚えたのだ。
城全体を、何か息苦しい気配が包みこんでいるような気がする。大分楽になった身体を床から出し、剣を取ると、できる限り足音を忍ばせて、部屋の扉を開けた。途端に倒れ込んできた何かの影に、思わず悲鳴をあげかけたが、呑み込んで、良く見る。
「クラリス?」
不寝番についていてくれたのだろう守役は、ぐったり倒れ込んで、呼びかけても反応が無い。一瞬血の気が引いたが、すうすうと寝息が聞こえたので、眠っているだけだとわかった。
しかし、三日間自分の代役を務めて疲労が限界に達しているとしても、ここまで眠りこけて起きてこないというのはおかしい。イリスがそう思い至るのを待ち構えていたかのように、闇の中から声がかけられた。
「ご心配には及びません、皆様にお出しした夕食に混ぜた薬が、良く効いているだけです」
咄嗟に、意識が無いままの女騎士を背にかばい、剣の柄に手をかけた。
「ごゆるりと、と申しましたのに。困った方ですな」
現れたヘッセンはその神経質そうな顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし昼間のような、何かを誤魔化そうとするようなものではない。どこか恍惚とさえしている。この嫌悪感を覚える笑いをどこかで見た気がするとイリスは考え、そして思い当たった。聖王教会で、大司教が自らを神の下僕と名乗り、敵意を向けた時と、同じなのだ。
「本当に、まいったね……」
イリスの思考が辿り着くのを待っていたかのように、あの憎たらしい声が聞こえ、ヘッセンの背後に、転移魔法陣が生じた。悪い予感が当たったと、背筋がうそ寒くなる。
「君もそのまま眠って、良い子にしていてくれれば、余計な手間をかけずに済んだものを」
月明かりしか差し込まない暗闇の中でも、色褪せぬ銀の髪と紅の瞳。まるで出番を見計らっていたかのように、妖魔アティルトは、優雅に登場してきた。
前回、アッシュやピュラがいてくれたようにはいかない。クラリスは気づかない。助けを呼ぶ暇も無い。イリスはぐっと歯を食いしばり、床をしっかりと踏み締めると、剣を鞘から抜いた。
だが、アティルトにとって、人間の必死な様子は、相変わらず笑い種にしか過ぎないらしい。けらけらとひとしきり笑ったあと、猫撫で声で愛おしそうに呼びかける。
「一人刃向かうかい? それは、無謀、というものだよ、イリス。ましてや二人の敵を前にして」
妖魔の嘲弄に、イリスは訝しげに眉根を寄せた。アティルトばかりに気を取られていたとはいえ、丸腰で、しかもイリスよりひ弱そうなヘッセンを、奴は何故、戦力に数えるのか。
その答えは、すぐに出た。
「イリス王女、大人しくアティルト様に従いたまえ」
ヘッセンが笑いを零しながら告げる。両手を広げて宙を仰ぐ様は、妖魔に心酔しきったとさえ見て取れる。
「さすれば国も力も、思いのままに得る事ができる。ほれ、このように」
次の瞬間、イリスは信じがたい光景を目の当たりにした。
垂れ流されていたヘッセンの笑い声が唐突に「ヘキョッ」と嗄れた。全身がこきぽきと妙な音を立てて変形し、褐色の皮膚に覆われゆく。鋭い爪や翼が生え、目は瞳孔を失って赤く染まる。
ヨーツンヘイムでミハエルが警告したのは、この事だったのか。
イリスが愕然と立ち尽くす内に、ヘッセンだった人間は破獣と化し、夜の廊下によく通る咆哮をあげるのだった。




