第4章:魅入られし魂(7)
悲鳴じみた自分の声で、イリスは覚醒した。
心臓がばくばく高鳴り、全身汗でびっしょり濡れている。まだ荒い息をつきながら、のろのろと己の両手を確かめる。見慣れた肌の色を認識してようやく、夢であったと安堵の吐息をついた。
「お、目ぇ覚めたか」
軽い口調でかけられる声があって、イリスは何気なくそちらに視線を送り、再度胸を冷やす。
傍らで顔を覗き込むアッシュは何を知る由も無く、不敵さを備えたいつもの笑みを向けている。しかしそこに、先程夢の中で彼が見せた視線、赤に染まって死にゆく姿を、重ね合わせずにはいられなかったのだ。
そんなこちらの様子に気づいてか気づかなくてか、青年は溌剌と訊ねてくる。
「調子どうだ? すっげえうなされてたぞ」
訊かれて初めて、イリスは自分がベッドに身を埋めている事に気づいた。天蓋がついたベッドは大きく、布団は柔らかくて身が沈み込んでいる。ゆるりと見渡せば、豪奢な調度品が目に入り、開け放たれた窓辺で、絹のカーテンが、微風に揺られていた。
そこまで確認したところで、自分はガルド領に入る直前倒れたのだという事を思い出し、渇ききった口から声を出す。
「ここは、どこ」
「ウルズ」
アッシュが答えたのは、ガルドの王都名だった。
「あんたが倒れたって聞いて、国境のガルド兵が首都に連絡やって、わざわざ迎えを寄越してくれたんだよ」
確かに、ガルディア半島独特の手法が用いられた調度品に彩られる部屋は不必要に広く、高級感をかもし出している。アッシュが先程からいささか居心地悪そうにしているので、それ以上訊かずとも、ここが王都で、さらに王宮内の客室なのだと段階的に理解した。
「私はどれくらい寝ていたの」
「三日。ガルドの連中との交渉はクラリスさんがやってくれてる。女王が病気とかで、従弟とやらしか相手に出てくれねえから、何だか揉め気味らしいけど」
「他の皆は」
「あとは全員待機中。リルハがぶっ倒れたがな」
どうして、とイリスが驚きを見せると、アッシュは少しだけ怒ったような表情を見せた。
「ヤブ医者の薬じゃ効かないって、自分の体力わきまえねえで、つきっきりで看病してたからだ」
どうやらひ弱な幼なじみが脱落した後は、この青年がついていてくれたらしい。
「あんたはあんたで熱高いし、うなされてるのに全然起きねえし。まったく、具合悪いなら、自覚しとけよな」
表情は迷惑そうだったが、決して本心ではないのだと、気遣わしげな口調が物語っている。何に怒っているのかといえば、純粋に自分とリルハの体調管理の不手際に対してだけだろう。
「ごめん……」
指揮官が倒れて、兵達もさぞかし慌てたに違いない。アッシュも今回ばかりは、イリスが詫びてもやめろとは言わなかった。まだ申し訳無さそうに縮こまるイリスの額へ、青年は手を伸ばしてくる。
「ん、熱は下がったみたいだな」
それでもまだイリスの体温の方が高いか、額に当てられた手は、ひんやりして気持ち良かった。心地良さに思わず閉じていた目をうっすら開けて、至近距離にあるその手を眺める。
青年の手はイリスより遙かに大きくて、力強い。そしてイリスより遙かに色が濃い――むしろ魔族のそれに近い褐色なのだ――と、初めて気づいた。
アッシュは生まれも育ちも北方のはずだ。日焼け雪焼けの類でこうなったようではないし、そもそも彼の暮らしていた国が、そんな環境下ではない。
「ああ、これ」
不思議に思っていると、アッシュも流石に視線に気づき、きょとんと自分の手を見つめた後、歯を見せて笑った。
「俺ね、親父が魔族でお袋が人間なの。イノの親と同じだな」
イリスは驚きつつ身を起こした。初耳だったからだ。イノの親の話も初めて聞くのだが。
「髪と瞳の色はお袋譲りなんだけど、あとは親父に似たんだ。だから元々、少し色黒いの。逆に妹は、すっげえ肌白いんだけど、髪は真っ黒でさ。きっと今頃は、お袋似の美人になってると思う」
「『今頃は』? 『なってると思う』?」
現在形の推測に訝しむと、アッシュは「言ってなかったっけ」と心外そうに返した。
「十四年前に生き残ったのは、オレだけじゃあない。オレの、お袋と妹。あの日、アースガルズ兵に連れて行かれちまったんだ」
イリスはさらに驚きを受ける羽目になった。青年以外にあの惨劇の生存者がいた事に対してか、それが青年の血縁者だという事実に対してか、その両方に対してか。それは自分でもよくわからないが。
「バイオレットが仕入れてきてくれた話じゃ、お袋は死んだって聞いた。だけど、妹はまだ、アースガルズで生きてる」
「十四年も前じゃあ、妹さんは、会っても貴方の事をわからないんじゃないの?」
「大丈夫。多分ね」
アッシュはいつに無く穏やかな笑みを返し、胸元の首飾りを取り出してみせる。
「これ、親父が作った物なんだ。お袋が同じ物を持ってたから、あの人の性格からして、死ぬ前に妹に渡してるはずだ。すぐにわかるよ」
戦続きで手入れをする間も無かったのだろう、以前より黒ずんでしまった銀製の剣十字を、イリスはしばし眺めていた。しかし唐突に、ある悲観的な考えが胸に浮かぶ。
「ああ、なんだ。そうか」
ふっと顔を逸らし、イリスは抑揚無く呟いた。
「アッシュは、妹さんを取り戻す為に戦っていたんだ。妹さんやご両親の為に、私についてきたんだ。それなら別に、気を遣わなくて良かったのに」
「は? あんた、何言って……」
途端にアッシュが怪訝そうな声音を放ち、ベッドの縁に手をつき身を乗り出してくる気配がする。目を合わすまいとそっぽを向いたまま、イリスは自棄とも取られる笑みを洩らした。
「最初から、そう言えば良かったのよ。うちの父様に恩返しだとか、私の事が好きだとか、嘘なんてつかなくても良かったのに」
「オレは嘘なんか!」
アッシュが、怒り混じりの声でイリスの腕をつかみ、そして、真正面から向き合ったところで固まる。
イリスは必死に微笑を浮かべようとした。だが、口がへの字に曲がるのは抑えきれず、目の奥は熱いのに、水分は出てこない。
「……出ていってくれる」
かろうじて絞り出した言葉に、アッシュは戸惑いと憤りが入り混じった表情のまま手を離すと、無言で部屋を出て行った。
扉の閉まる音を聞いて、イリスは深く布団に身を沈める。
誰の為に、何の為に戦うかなど、人によって違うのは当然だ。自分も、父の仇討ちという思いが、常に心のどこかに澱んでいる。アッシュの戦う理由に自分の存在は関係が無いと知り、苛立ちを覚えたとて、それは単なる我儘だ。しかし、それだけでこんなに胸が苦しくなるはずが無いのを、イリスは自覚していた。
子供の頃から何度も聞いた、シャングリアの伝説。
『人と竜と魔の血は、交わってはならない』
勉強が嫌いでろくすっぽ聞いていなくとも、繰り返されたせいで耳に残っていた一節が、今、大きな枷となってイリスにのしかかる。
イリスもアッシュも、見た目は人間だ。しかしその奥底に、イリスには竜族の、そしてアッシュには魔族の、相反する血が受け継がれているならば。
『三種族の血が交われば、始祖種フォモールに降り注いだ呪いを再び呼び起こし、破壊者「ヴァロール」を生む』
それがただの伝承ではないと、イリスも知っている。グランディア王族の血筋から、人と、竜と、魔族の血を引いた破壊者レディウスが誕生し、大陸中に混乱をもたらしたのは、イリスが生まれるほんの数年前まで続いていた。当時の恐怖はまだ、人々の記憶から薄れてはいない。一体誰が、その再現を許すだろうか。
生まれて初めて、異性に抱いたほのかな想いを、世界の摂理によって阻まれる。そんな理不尽さに悲しくなって、腕で顔を覆ったが、やはり王女は泣けなかった。




