第4章:魅入られし魂(6)
ブリガンディ入城後、連合軍の元には街の人々から様々な支援物資が送られ、共にアースガルズの脅威に立ち向かわんとする戦士達も次々と集った。その数が、はじめは十数人だったのが、日を経るごとに数十、数百と膨れ上がり、一軍を成せるほどにまでなってしまったので、街長代理を引き受けたセティエ・リーヴスや周辺の市長の推薦もあって、イリスは、北方に続き、東方志願兵の統率まで引き受ける事となった。
たった二人で聖王教会から逃げ出し、百に足るかの騎士と盗賊を従えて始まったイリスの旅は、千の位を数える兵を率いる、一大部隊の行軍と化していたのである。
夏の盛りを迎える七月下旬、連合軍はギャラルン河を越え、ガルディア半島へと進軍した。目指すカレドニアは、この半島の西側。豊かな草原の国ガルドを越えれば、もうすぐである。
しかしイリス自身は、カレドニアへ行けば叔父の軍と合流できるというクラリスの言葉に、一度は安心したものの、そう楽観できたものでもなくなっていた。アースガルズに飼い馴らされた人間は自分だけではない。ミハエルが死に際に遺した言葉が、棘のように心のどこかに引っかかって、取る事ができずにいたのである。
ガルドの国境を前にしても、気分は晴れない。ブリガンディで奇妙な幻覚を見て以降、身体だけでなく、精神にも気怠さが襲ってきているようだ。銀色の猫の赤い瞳が視界の端でちらつく。マキシムが告げた、狂いし神の伝承も、先日からやけにぐるぐると頭の中で回っている。
「イリス様、この先はガルドの国境門です。突然大軍で乗り込んでは、不要な諍いを起こしかねません。まずは、代表する者だけでまいりましょう」
ずっと横に馬を並べていたクラリスが声をかけてきたのだが、その声さえがんがんと頭に響く。馬の揺れが気持ち悪く、脳裏を巡る考えはぐちゃぐちゃで、全身が重い。何とか応えようとして、イリスは、自分の平衡感覚と意識が急激に遠ざかるのを感じた。
「イリス様!?」
守役が慌てて支えてくれたので、落馬するのは避けられたのを悟る。発熱の熱さと汗の冷たさが同居するのを感じながら、イリスの意識は深淵へ落ちていった。
「とうさま!」
はしゃぐ自分の声が幼い。イリスは疑念に駆られた。目線がやたら低い自分は、イリスの意思を知る事も無くぶらぶらと小さな足を揺らしている。頭上に伸ばしたちぎりパンのような手を、温かくて大きな手が包み込む。その手の主を視界に映した時、イリスはここが現実ではない事を確信した。
優しく笑みかける、頼り甲斐のある顔。深海の蒼を彷彿させるつり目がちな瞳。自分より少し色の濃い金髪。見間違えるはずが無い。亡き父クレテスだ。その膝に、幼い自分は座っていた。
「とうさま、くら……そら? 見せて!」
拙い舌で幼い自分はせがんでみせる。思い出の底にある父がいつも帯刀していたのは、瞳と同じ深い蒼の石を抱いた白銀の剣『クラウ・ソラス』だ。だが、父はそれを娘の前で抜刀しようとはしなかった。
それでも父は一度だけ、「母さんには内緒だぞ、怒られるからな」と念を押し、イリスの目の前でそれを鞘から抜いた。ここはその記憶の中なのだ。父の手の中で、白銀の刃は青白い輝きを帯びて、一層美しく見える。
「どうして、ぴかぴか光ってるの?」
「これは、父さんが四英雄ノヴァの血を引いている、証拠みたいなものだよ」
娘の素朴な問いかけに答え、父は剣を鞘に戻す。聖光は、あっと言う間に消えた。
「母さんも同じだ。竜王ヌァザの武器、ドラゴンロードを扱える」
「えーっ」
イリスの意識とは関係無く、途端に幼い自分は涙目になって、不満の声をあげた。
「とうさまとかあさまは『えいゆう』なの? とうさまとかあさまは、イリスのとうさまとかあさまだよ、ちがうの?」
「はは……そうだな」
反論が見つからなかったのだろう、父は苦笑を返して、今にも泣き出しそうな娘を腕の中に抱き、小さく呟く。
「でも、お前もいつか受け継ぐ日が来るかもしれないんだぞ」
そして、少しだけ声音を抑えて、呟くように零す。
「どちらを継ぐんだろうな。できればこんなものは、背負って欲しくないが」
「イリスは、イリスのままがいい」
無邪気な言葉に、父は一瞬、蒼い目を驚きに見開き、それから、くしゃくしゃとイリスの柔らかい金髪をなで回した。
「そうだな。その気持ちがあれば、イリスはイリス以外の、何にもならない。お前の心は、どこにも行かないさ」
あの頃は、父の言葉の意味などわからなかったが、成長した今ならわかる。父は自分に、戦に関わる物を極力見せたくなかったのだ。母と示し合わせでもしたのか、自分が戦いの無い世で生きる事を願っていたのだ。
どこにも行かない。幼い姿のまま、イリスはふと思考を巡らせる。夢の中なのに不思議なものだと思いながら。
そういえば、葬儀の時には、『クラウ・ソラス』は失われていた。あの剣は、どこへ行ったのだろうか。
父自身も、どこへ行ったのだろうか。
そこまで思い至った途端、赤い色が視界を塗り潰し、幸せだった記憶は唐突に終わりを告げた。
抱きしめてくれる腕が力を失い、もたれかかってくる。初めて身体が自分の意思に従い、軽く悲鳴をあげながら立ち上がる。父の身体は全身が赤く染まっているのに、顔だけはやたら青白さをたたえて倒れゆく。現実に最期を見た訳ではないのに、夢の中では、何度も何度も繰り返された光景だ。
ひゅうひゅうと細い呼吸が繰り返される。父を呼びたいのに、口の中で舌が膨れ上がっているかのようで、何も声が出てこない。伸ばした手が小さくない事で、イリスは自分の姿が元に戻っているのに気づいた。
それを待っていたかのように。
「いなくなっただろう?」
背後から不遜な声が聞こえる。振り返りながらぎんと睨めば、悠然とたたずみ氷の微笑を浮かべる妖魔の姿があった。
「君の父親はもういない。世界のどこにも」
両腕を広げ、妖艶に、奴は言い放つのだ。
(お前が殺したから!)
叫ぼうとした声は言葉にならず、深い唸りとなる。ぎょっとして再び両手を見やれば、それも既に人間のものではなかった。鋭い爪を有した、鱗と牙持つ獣と化して、自分の思考を無視し、イリスは咆哮ひとつ、あげるのだ。
「そして、君の中の血が、君を、君以外のものにする」
竜、否、竜の血を借りた化物となった自分は、高笑う妖魔を握り潰して尚止まらない。
逃げ惑い、立ちすくみ、あるいは立ち向かってくるちっぽけな人間達を、鱗に覆われた身体で叩き、踏み付け、炎で焼き尽くす。そのことごとくが、母やユリシス、クラリス、リルハら、アガートラムの民に北方の人々、見覚えのある顔なのだ。
累々と横たわる見知った死体の群の中、一人の青年が剣を手に立っている。蒼い瞳に、いつもの親しみは欠片も無い。ただ、恐怖と憎悪を宿して、イリスを見上げているだけだ。
イリスは叫ぶ。やめて、と声にならない悲鳴を。
だが、嫌だと嘆く心とは裏腹に醜い腕は振り下ろされ、赤い血の尾を引いて、青年の身体はあっけなく吹き飛び……。




