第4章:魅入られし魂(5)
釈然としない結末ながらも、ヨーツンヘイム軍を退けた連合軍は、旧王都ブリガンディに入城した。
イリスは、アースガルズ皇都でもそうだったように、当然、民衆が反発を起こし、自軍を侵略者として責め立てるものだろうと覚悟していた。だが、予想に反して、ブリガンディの民は、ミハエルの軍を追い払った功労者として、連合軍を快く迎え入れたのである。
「自治地区として発展しつつあるこの国に、今更王を名乗る者が戻ってきても、彼らには困惑の種になるだけだったのです」
歓待に困惑するイリスにセティエが告げる。実際、民は口々に、街長を斬り捨てて平穏な街に戦を持ち込んだミハエルを糾弾し、解放者イリスを歓迎した。連合軍の到着を知って、今こそ我が力を振るう時と志願する若者達もいた。それは有り難い事だったが、本来、帰りし王族として迎えられるべきだったはずの者は、必要とされなかった。それを思うと、惨めな末期を遂げた最後の王に、哀れみすら感じる。
民衆は連合軍の主立った者を旧王城に招き、ささやかだが充分すぎるもてなしをしてくれた。しかし、どうにも気乗りせず、イリスはこっそりと宴場を抜け出して、一人、質素ながらも剛健な城内を散策した。
かつてはこの城で、ヨーツンヘイムの民に慕われた主が、善政を行ったのだろうか。滅びし王家を思い、時の流れの残酷さを噛み締めながら、イリスは城内を歩く。すると、廊下をゆく小さな足音が聞こえたので、そちらを振り向き、驚きに目を見開いた。
猫だ。その姿には見覚えがある。銀の毛並みに赤い瞳。かつて聖王教会で出会った猫と寸分違わない外見をしている。
「お前」思わず声に出して近づく。「どうやってここまで来たの?」
大陸北西の聖王教会から、南部のヨーツンヘイムへは、イリス達も数ヶ月かけて来たのだ。さして体躯も大きくない猫一匹が縦断してこられるとは、到底思えない。だが、猫はイリスの疑念をかわすかのようにするりと身を翻して、廊下を小走りに駆けてゆく。そして一定の距離を保ったところで立ち止まり、『ついてこないのか?』とばかりに振り返るのだ。
とてもただの猫とは思えない。初めて出会った時には気にも留めなかったその色合いにも、嫌な思い出が付随してくる。脳裏に浮かんだ妖魔の笑みをかき消すようにぶんぶんと頭を振って追い払うと、イリスは顔を上げ、静かに一歩を踏み出した。
銀色の猫はつかず離れず前を行く。時折こちらを見やっては、イリスがついてきているか確かめているようだ。廊下に射し込む夕日は、聖王教会での出会いを思い出させて、胸の奥がざわつく感覚を覚える。
やがて猫は、ひとつの古びた木製の扉の前に行き着くと、少しだけ開いていた隙間に身を滑り込ませた。追いかけるように扉を開けて、こじんまりとした礼拝堂へ入り込む。申し訳程度に長椅子が置かれ、小さな祭壇がある。軽く見渡してみたが、猫の姿は見えず、最早気配も感じられなかった。
猫を探す事を諦めたイリスは、礼拝堂の奥の壁一面を覆うように描かれているものに目を惹かれ、それに近づく。ここで祀られているのも、北方同様、聖王ではなかった。
果てしなく人に近い姿を象りつつも、背には六枚の羽根をまとう、男とも女ともつかぬ生命。それは、あらゆる生物を超越した存在ともいうべき、強い印象を与える。
放心して見入っていた所に靴音が聞こえ、イリスは我に返って振り向いた。
「クラリス殿が探していたぞ。今後について話し合いたいらしい」
意外な人物が言伝に来たのであっけにとられていると、銃士マキシムは、いつもむっつりした顔をことさら不機嫌そうにしかめる。
「何だ」
「いや、わかった。今行く」
慌てて取り繕い、イリスはふと思い立って、彼に訊ねた。
「マキシムの故郷には何か、信仰はあるの」
踵を返そうとしていた銃士は足を止め、怪訝そうな表情で振り返る。が、イリスの視線を追って壁画を見上げ、質問の意図を読み取ってくれたらしい。ぼそりと答えた。
「……『狂いし神』の伝承なら、マルディアスにもある」
「狂いし、神?」
「神はフォモール、ヴァーン、エリオン、ダイナソアの四大始祖種を生み出した。しかし、始祖種が己の意志の範疇を超えて発展し始めると、神は彼らが自分を滅ぼすのではないかと恐怖し、やがて自ずから狂って、始祖種に呪いを下した、とな」
初耳に目をみはるイリスの驚きに請け合わず、マキシムは淡々と語る。
「長い間、生き残った始祖種が狂った神と戦い、そしてどこかの大陸に封印したらしい。いつか神が正気を取り戻し、秩序の象徴として復活する。そう信じてな」
城にいた頃の講義で、そんな伝承は欠片も聞いた事が無かった。ロックキャニオンでも、あれは善き神として賛美されていたではないか。唖然とするイリスに追い打ちをかけるように、マキシムは続けた。
「俺の故郷だけではない、北の大陸でも東の大陸でも有名な話だ。恐らく西の大陸では聖王伝説に淘汰されていったのだろう」
南の大陸の男はいつに無く雄弁に語り、神の絵から目を背ける。そして、
「確かに原初、神は万物の長だったかもしれん」
少しだけ憤りを滲ませる声色で、低く呟いた。
「だが、生命は己の意志で生き、進化する。誰か一人の手の上で踊る人形ではない。それに気づかなかった時点で、神は初めから狂っていたのだろうさ」
イリスの為にあてがわれた部屋へ戻ると、クラリスに加え、セティエとクリフが待機していて、敬礼する守役に合わせて二人も頭を下げた。
「楽にして良い。私は母ほど敬意を払われる事に慣れていないから」
溜息をつきながら片手を軽く振ると、「まあ、姫様ですからね」とクラリスは相好を崩し、「お姫様、父親似?」とクリフが笑いながら顔を上げた。
父に似ていると言われるのは今に始まった事ではない。とはいえ、二十年以上前、戦線を共にした仲間にまで言及されるのだから、自分は相当父クレテスを彷彿させる外見と立ち居振る舞いをしているのだろう。だが、今は思い出話を聞いている場合ではない。
「イリス様」
イリスが思い至るのを待っていたかのように、クラリスが口を開いた。
「今現在、ブリガンディでは、連合軍に加わりたいと申し出る者が、かなりの数おります。また、戦線に参加できずとも、多くの民は姫様の庇護下に入りたいと声をあげております」
「城に押し寄せた者達は、ひとまずなだめて帰したのですが、意志は変わらないでしょう」
セティエが開け放たれた窓の外を指差すので、近づいて見下ろしてみれば、諦めきれないのだろう民が数人、城の入口にたむろしていた。連合軍の兵が、「沙汰はその内出るから、ほら、今は家で大人しくしていろ」などと声がけしているのが耳に届く。
「エステル女王との橋渡し役だった街長殿は、ミハエルに斬られちまったし。今、この街を守れる奴がいない状態なんだよね」
クリフが両手を肩の高さに掲げて嘆息する。そこまで聞いた時点で、イリスは大人達が何を自分に求めているかを悟った。
「では、私がグランディア国王の名代として、ヨーツンヘイムの安全保証を宣言すれば良いのね?」
考えを音にした途端、クラリス達が一様に目をみはってしばらく閉口した。
「違うのか?」
「……いえ」
的外れな事を言ってしまっただろうか。不安になって眉を垂れると、クラリスが驚嘆を隠さない様子で真ん丸な目をしたまま返してきた。
「姫様が指揮官として成長しているお姿を目にして、思わず」
そして彼女は、くしゃりと笑み崩れる。
「もう『姫様』などと子供扱いはできないのかもしれませんね」
この守役には、幼い頃から、褒められたよりも、叱られ、注意され、呆れられた回数の方が多いと思う。そんな彼女が自分を認める言葉を放ってきたので、面映ゆさが込み上げて、イリスはにやけそうになる口元を咄嗟に手で隠した。
「私は軍を率いてグランディアに向かわねばならないから、ヨーツンヘイムには残れない。セティエ殿、クリフ殿に、仮の盟主をお任せしても良いだろうか」
「まあ、そう来るよね」
咳払いして誤魔化し冷静に告げると、クリフが肩をすくめ。
「リーヴス家の魔道士の名は、祖父の代から保証されていますし、弟が聖王教会の賢者として更に高めてくれていました。政治には明るくありませんが、名前をお貸しする程度には役立つと思います」
セティエが胸に手を当て、自信に満ちた表情を見せた。
「では、連合軍の兵を幾らか残してまいりましょう。自警団との戦力の兼ね合いは、私が計算いたします」
「クラリスさん、頭使う事にかけては、相変わらず頼もしい」
クラリスの提案に、クリフが笑み崩れる。兵力に関しては、彼女に任せて良いようだ。
「それで、次はどこへ?」
大人達の話が一段落したところで、イリスが声をかけると、クラリスは既にテーブルの上に広げてあった地図の元へ王女を導き、ブリガンディの位置を指差した。
「このまま征西し、ガルド王国へ。そこを抜ければ、カレドニア国のアルフォンス様と合流を果たして、グランディアに乗り込めるだけの戦力を得られるでしょう」
敗走から戦いの日々に身を置いていて忘れかけていた、叔父の名を聞き、イリスの胸に一抹の安堵が訪れる。たしかに、叔父アルフォンスが擁するカレドニアの魔獣騎士部隊の加勢を得られれば、戦力は一気に跳ね上がる。親友リディアと北方から来た数十騎の魔鳥騎士しかいない連合軍の制空権が、幅広くなるのだ。
「それにしても」
セティエが地図を見つめながら、懐かしみを込めて呟く。
「北方から南下し、ガルディア半島を経てグランディアへ。解放戦争と同じ道程に、神の采配を感じずにはいられないですね」
「……神」
その単語を反芻した瞬間。
イリスの視界がぐらりと揺れた。
辺り一面が赤く染まった世界で、子供の泣き声が聞こえる。
『泣かないで、僕の可愛い姫君』
赤く塗りたくられて顔の見えない誰かがこちらに向けて手を伸ばす。
『君が笑顔になるなら、何でも君の願いを叶えよう』
どこかで聞いた覚えのある囁きの後、強い耳鳴りに襲われ、両手で耳を塞げば、今度はそれを突き抜けるほどの、危機感を煽る音が響き渡った。
『駄目です、保ちません!』
『ここまで来てか!?』
『嫌、死ぬのは嫌! 誰か助けて!』
焦りきった若い男性の声、絶望に囚われた壮年の男と思しき声、金切り声をあげる少女じみた叫び。
『「フォモール」、「ヴァーン」、「エリオン」、「ダイナソア」は成功して、何故、我らだけが……』
壮年の男性が、呆然と呟いた後。
『……諦めぬぞ』
地を這うようような呪詛が垂れ流される。
『我らはこの新天地に根付く事を、諦めない。「アルファズル」は墜ちて尚、唯一神としてこの世界に君臨し続けるのだ!』
直後。轟音が聴覚を完全に塞ぎ、視界はより紅く染め上げられた。
「……様、イリス様!」
呼びかける声と、強く肩を揺さぶられる事で、イリスの意識ははっと現実に返ってきた。クラリスが青い顔でこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫ですか。突然あらぬ方向を見て硬直されたのですよ」
「大、丈夫……」
守役を安心させようと吐き出した声は情けない程に小さかった。余計に不安にさせたかもしれないと思いつつ、どっと噴き出した額の汗を拭う。
「戦闘続きでお疲れでしょう。事後処理は我々に任せて、お休みください」
「わかった……」
大人達の厚意に甘える事にしたが、イリスの脳裏では、謎の赤い光景と、呪いじみた言葉が繰り返され、じくじくと頭痛を呼ぶのであった。




