第4章:魅入られし魂(4)
ヨーツンヘイム領ブリガンディ。ギャラルン河の中洲に位置する、ひとつの強固な砦を兼ねた都市は、かつて戦乱の地となりもしたが、エステル女王の治世になり、平穏を保っていた。
その都市の、住宅街より一段高い場所に位置する旧王城の一室で、窓辺に立ち、外を慌ただしく行き交う兵達の様子を眺めている金髪碧眼の男がいた。彼こそミハエル・リュングヴィ。ヨーツンヘイム王族の正統な血を引く男である。
彼の眼下で展開されるのは、戦の準備だ。ここブリガンディで、イリス王女率いる連合軍を迎え討つ為の。
アースガルズに肩入れするのは本意ではない。だが、グランディアと手を結ぶのもまた、彼にとっては矜持を破壊する、耐え難い屈辱であったのだ。
ヨーツンヘイムはかつて王国だった。厳しくも有事には必ず民を守り通す猛々しき王に、人々は忠誠を誓い、固い結束力を持つ民族としての伝統を、数百年貫いてきた。
しかし約四十年前、グランディア帝国の侵略によって、ミハエルの祖父ハティ・リュングヴィが暗殺されると、状況は変転した。
ただ一人生き延びた王女である母は、帝国の追求を逃れる為に、苦しい逃亡生活を強いられた。そして命からがらたどり着いた北方の一小国の王子に見初められた。やがて一子をもうけて、ようやく人並みの幸福を得た頃に、愚鈍な義弟によって仕組まれた事故で、夫ともども他界してしまったのである。
留学の名の下に王都より遠ざけられ、叔父の息のかかった連中に監視される日々を無為に過ごしていたミハエル少年の運命を変えたのは、あるひとりの、銀髪の妖魔だった。
『両親の仇を討つのは、君の使命。非業の死を遂げた親の仇討ちを果たした王子なら、民も同情してくれよう』
魅了するような甘い囁きに従い、ミハエルは王都に戻ると、天誅とばかりに銀剣で叔父王を弑した。そして王位を奪還し、国政を掌握する頃、妖魔は再度彼の前に現れ、誘いをかけた。
『その兵力をもって、グランディアに復讐する事もできる。祖父殿や母君の無念を、君の手で晴らしてみたいとは、思わないかい?』
生まれも育ちも北方のミハエルにとって、ヨーツンヘイムは形ばかりの故郷であり、グランディア王国に抱く恨みも、それまではほとんど無かった。一族を貶め、母を苦しめた帝国は既に滅びて久しく、エステル女王が別段憎い訳でもない。しかし、妖魔の赤い瞳を見ていると、復讐は正当化された大義であるかのように思えてきたのだ。
ミハエルは兵を率いて祖国ヨーツンヘイムに赴き、旧首都ブリガンディに王として君臨した。近臣の制止も、北方会議の招集も無視した行動であった。先見の明ある熟練騎士は北方に残り、ついてきたのは愚直なほどミハエルへの忠誠心に富んだ若手か、権威に逆らえぬ小心者、いずれも戦に不慣れな兵ばかり。半世紀近い歳月を経て突如舞い戻った王族に、ブリガンディの民は戸惑い、住む街が戦場になると知って抗議の声をあげた。
何処へ行っても王になりきれない己の愚かさは、とうに自覚していた。だが、妖魔の言葉は彼の脳裏をかすめ、心に薄暗い憎悪の炎を灯す。ミハエルは『出ていって欲しい』と進み出た街長を一刀のもとに斬り捨てた。
『我こそがヨーツンヘイムの王。我が意志に逆らう者は皆こうなると心せよ』
血濡れの剣を高々とかざして宣言した突然の支配者を前に、人々は震え怯え、誰もが一様に口を閉ざし、心をも閉ざした。
ブリガンディの民の信頼は得られなかった。
『かつてのエステル女王の解放軍を知っております。お役に立てる事があるかと』
そう近づいてきた、高名な魔道士の姉とその連れ合いを取り立てたが、言葉に裏があるのはひしひしと感じた。それ故、彼らの故郷の孤児院を人質に取るべく、少数部隊を派遣したのだが。
『孤児院の周りに周到な罠を仕掛けられて、近づく事さえ叶いませんでした』
ぼろぼろになった部下達は、憔悴しきった様子で帰還した。
頼りになる味方は誰一人としていない。それでも。
「もう、後戻りはきくまい」
孤独な王は、端正な顔に自嘲気味の笑みを浮かべて呟くのだった。
ブリガンティを囲むギャラルン河にかけられたギャラルン大橋は、聖王暦二九八年の、帝国軍と解放軍の戦いにおいて、帝国の将ジョルツ・クレンペラーの卑劣な策により一度崩壊した。その後しばらくは捨て置かれたが、エステル女王が即位すると、多大な金銭援助を行い、無事再建された。
石切場から切り出した岩を用いた旧橋ではなく、南の大陸で生産が盛んな、鍛え上げられた金属板を使った新橋は、シャングリア大陸東側と西側を繋ぐ要所として再び栄える役目を得た。
そのギャラルン新橋に太陽光が降り注ぐ下、ブリガンディの支配と自由を巡る、連合軍とヨーツンヘイム軍の戦いは開始された。
草原での戦い同様、ヨーツンヘイム軍の士気はそれなりであったが、明らかに戦い慣れしていない。武器を弾かれてへたり込む者。魔鳥騎士の攻撃に橋から放り出されて、ギャラルンの流れへ落ちる者。連合軍に加勢したセティエ・リーヴスの炎魔法で散り散りに逃げ出す者。連合軍側の被害の比にならぬ落伍者が続出した。
「この展開なら、敵将を降伏させれば戦いは終わるでしょう」
クラリスの言葉に従い、イリスも剣を抜いて前線を駆ける。ミハエル・リュングヴィは金髪碧眼の青年だとクリフから伝え聞いた。その姿を探し求めていると。
「あっ! 気をつけて、イリス様!」
上空からリディアの注意喚起が降ってくると同時、近づく蹄の音を聞いて、イリスははっと音の方に向き直った。青馬の騎士が自分目がけて走り込んでくる。雑兵と一線を画している事はすぐにわかり、振り下ろされた剣を、咄嗟に細身剣を掲げる事で弾き返した。
「見つけたぞ、グランディア王女イリス!」
金の長髪を風になびかせ、馬上の騎士は声高に名乗った。
「我こそはリュングヴィ家最後の王、ミハエル・リュングヴィなり。かつて貴様の血筋によって無念の死に追いやられた我が一族の恨み、その身をもって思い知れ!」
その名乗りに唖然としながらも、イリスは第二撃をかわし、間合いを取る。
「グランディアとヨーツンヘイム王家とは懇意にしていた。我が祖母ミスティも、ハティ王と親しかったと聞く」
油断無く武器を構えたまま、イリスはミハエルを睨みつけた。
「確かに、貴国を苦しめたのは、私の血縁に連なる者であったかもしれないが、彼らも帝国も、最早亡くなって久しいでしょう」
「黙れ」
ミハエルは説得に微塵も耳を傾けず、剣先をイリスに向ける。
「ヨーツンヘイム王家を滅ぼしたグランディアは敵。その全てを絶やさねば、同じ過ちを繰り返す!」
「過ちを繰り返しているのは貴方だろう!」
馬上から打ち下ろされる剣と憎悪を、イリスは怒声と共に受け流した。
「ならばどちらが正義か、互いの剣にて尋ねようではないか!」
「正義だなんて、阿呆な事を! 私怨で戦を仕掛けた者の口にできる言葉ではない!」
半ば陶酔気味の口上をはねのける。加勢に入ろうとしたクラリス達を制し、王女は、再度駆け込んでくる人馬を待ち受けた。
興奮した馬に蹴り倒されるのを寸での所でかわすと、己の武器を勢い良く振り抜く。相手の銀の剣は根元から折れて吹き飛び、ミハエルは無様に馬の背から転げ落ちた。強かに身を打ったのだろう、しばらく動けずにいた彼の首筋に、切っ先を突きつける。実に呆気無い決着であった。
「勝負はついた」
イリスは冷静に言い放ち、大きく息をついて、武器を持つ手を下げる。
「最早、貴方の兵達に戦意も無い。これ以上の無益な戦いはやめましょう、ミハエル殿」
言われて初めて、ミハエルが戦場を見渡した。ヨーツンヘイムの旗はひとつも見えず、戦意のある兵は皆無。彼の剣は折れ、残骸を握る手も血に濡れている。馬は主を振り落として逃げ、その拍子で足を折ったらしく、あらぬ方向に曲がっていた。
「……ふ、ふふ」
うつむいたまま肩を震わせるヨーツンヘイム王の様子に、イリスは眉根を寄せて見下ろす。
「親を失い、国を失い、民の信頼も得られず、万策尽き……。これが、血族殺しの男の末路か」
そして彼は手中に残された剣の残骸に目をやると、やおら自分の喉元目がけて振りかざす。咄嗟にイリスは空いている方の手で、それを叩き落とした。ミハエルが恨みがましい目で睨みつけてくる。
「いずれ死する身ならば、貴様らの手など借りぬぞ! 私はリュングヴィの末裔に恥じぬ最期を選ぶ。邪魔だてするな!」
「どこまで馬鹿なの、貴方は!」
イリスは込み上げた怒りを、思わず大音声で解き放っていた。ミハエルが目を真ん丸くして言葉を失う。
「戦を起こすだけ起こして、民を苦しめた責も取らずに逃げる気か! それが誇り高いリュングヴィ家の人間がする事か!?」
イリスは、この男の酷く腑抜けた顔を、変形するまで引っぱたいてやりたい衝動に駆られたが、理性で抑え、努めて平静に告げる。
「国を追われ、辛い思いをしてきた貴方が、グランディアを憎む気持ちは、わからなくはない。私だって、大切な人を奪った相手を憎む心を、持っているから。だけど、それだけの気持ちで戦い続けていたら、この世から争いは永遠に無くならないでしょう」
『貴女の祖母ミスティ女王は、この大陸から、人同士だけでなく、あらゆる種族民族との争いを無くすべく、尽力していました』
かつて母エステルから聞いた言葉が脳裏を巡る。
『私はそれを受け継ぐ覚悟を持って、王位を継ぎました。貴女もいずれこの国を背負う者なら、争いの根源がどこにあるのか、見極められるようになって欲しいものです』
あの頃は、親の説教など、と話半分に聞き流していた。だが、幾つもの戦いを経て、ヴェラネシアでの騒動も見た今ならわかる。
「憎悪で濡れた剣は、新たな憎悪を呼ぶばかりだ。それに気づかないまま、貴方に生きて欲しくない。そんな悲しい思いだけを抱いたまま、死んで欲しくない」
ミハエルは雷に打たれたようにイリスの顔を見上げていた。が、やがて自嘲と受け取れる溜息が、彼の口から洩れる。
「敵にも情けをかける心……それが、私が貴様に勝てなかった敗因か」
ミハエルの碧眼が、吹き飛んだ剣の残骸を見つめた。
「だが、その温情が通じず、かえって仇になる相手がこの先に待つ事も、覚えておくのだな」
イリスが愁眉を曇らせると、ミハエルはまっすぐこちらに向き直り、真剣な表情で告げる。
「気をつけるが良い、イリス。アティルトに飼い馴らされた人間は、私だけではないぞ。ガルドの」
その時、ひゅっと風を切る音が耳をかすめたかと思うと、ミハエルがかっと目を見開いた。そのまま仰向けに倒れ、動かなくなる。喉には、一本の矢が深々と突き刺さっていた。イリスは咄嗟に矢の飛んできたと思しき方向を振り返るが、何も視認できなかった。
リルハがミハエルの元に駆け寄って脈を確かめ、首を横に振る。アッシュが矢を引き抜き、鏃を見て、舌打ちした。
「致死毒かよ。念入りにやってくれたもんだぜ」
敗者に用は無いのか、口封じの為か、あるいは両方か。イリスにはわからなかったが、はっきりした事もある。
それは、アースガルズの手の者がミハエルを抹殺したのだという事実と、カレドニアに辿り着くまでにはまだ、彼らの用意した妨害が待ち受けているだろう不安。その二つであった。




