第4章:魅入られし魂(2)
「まったく、肝が冷えましたよ!」
クラリスが、呆れ半分感服半分といった表情で、氷嚢を押し付けてきた。
「後先考えずに行動に出られる所は、一体どなたを手本にされたのやら」
「だが、ああでもしないと、誰も私の言葉を聞いてくれなかったでしょう」
見事なたんこぶができた箇所にそれを当て、イリスは憮然と答える。
「現状はどうなっているの」
「民衆は、今は配給の列に大人しく従っていますが、足りないと不平をあげる者もいるようです」
「ならば、現在ある物資を更に出して。連合軍はバイオレット団や北方諸国から補給がいくらでも来るけれど、アースガルズの民は、今まさに困窮しているのだから」
「また暴動が起きますよ?」女騎士は眉をひそめた。「奪い合いになります」
「皆、そこまで愚かではないと、信じたいんだけど」
腫れ上がった傷を氷水で冷やしながら、さらりと言い放つ王女に、守役が一瞬目を丸くした。また揚げ足を取られるような事を言っただろうかと、イリスはむくれる。
「……何が言いたいの」
「根本的にひとを信じていらっしゃるあたりは、やはり、エステル様の御子だと思いまして」
「それは皮肉?」
「いいえ。最大限の賞賛です」
クラリスはくすりと笑いかけ、王女の命を実行すべく、そそくさと踵を返した。
傍らで聞いていたアッシュが吹き出し、釈然としないままのイリスの顔を覗き込む。
「賞賛、ね。なら、このたんこぶは、さしずめ名誉の負傷ってとこかい」
「貴方こそ、私をかばってくれたでしょう」
青年の腕も、小刀が刺さった傷が手当てされ、巻かれた包帯が痛々しい。
「ありがとう」「お、今回は謝らずにきた?」
当然だ。詫びるとまた押し問答になってしまうから、言葉を選んだのだ。微笑するアッシュにつられて相好を崩すイリスだったが、しかしすぐに笑みは消える。
「為政者とは、支配者とは、罪と痛みの上に生きていくもの」
「あん?」
「クラリスが前に言っていた事は、本当だった」
物事は決して、思う通りには運ばない。反発は起きるべくして起きる。憎悪は連鎖する。それを目の当たりにして、消沈せずにはいられない。そしてやはり自分は、母のようには綺麗に事態を打開できない、指導者の器ではないのだと、自信が無くなってくる。膝の上でぎゅっと拳を握り締めると。
「オレが初めて人を殺したのは、十二の時だったかな」
アッシュが眼前のテーブルにひょいと腰掛け、ぽつりと洩らした。
「殺った相手の表情や血の色が忘れられなくて、一週間くらい熱出して寝込んでた。そん時、オレが師匠と仰いでる人に言われたのが」
『お前が踏み込んだ道ってのは、こういうもんだ。覚悟を決めろ。無理なら出ていけ。盗賊なんぞやめて、まっとうな人生に戻れ』
「……ってな」
イリスは思わず間の抜けた表情で、青年の顔を見上げてしまった。
いつ何時でも最前線に飛び込んでいっては負傷し流血しまくり、繊細とは程遠い位置にいる彼にも、そんな時期があったのかという驚きが込み上げる。それが過ぎると、普段過去の話をあまりしたがらないこの男が、何故突然、そんな話をしたのだろうという疑念が浮かんだ。
だが、答えはすぐに思い当たり、きょとんと目を見張る。
「私が気負っているから、励ましてくれた? 自分も、同じだって」
「さあて、ね」
当の本人は明言を避け、イリスの頭をぐしゃぐしゃ撫でながら立ち上がる。
「単なる人生の先輩の愚痴かもよ。どう捉えてくれても、構わねえ」
「やめて、痛いんだってば!」
「ああ、悪い悪い。お大事に」
こぶに当たるので、イリスが怒って拳を振り上げると、すっかり元の調子に戻った青年は、けたけた笑いながらそれをかわし、部屋を出て行った。
入れ替わりに入ってきたリディアが、替えの氷嚢を渡しつつ、きらきらに目を輝かせて問いかけてくる。
「イリス様、好きな人ができましたよね?」
あまりに突飛な発言に、イリスはがごりと音を立てて椅子からずり落ちかけた。拍子に傷が痛んで頭を抑える。してやった、とばかりにリディアがけらけら笑い声をあげた。
「イリス様ってば、本当にわかりやすい! アッシュさん、あの人でしょう」
「なっ、何を根拠に言い出す!?」
「だってイリス様、ものの言い方や考え方が、アガートラムにいた頃と全然違ってしっかりしてますもん。あの人のおかげで、うちの姫様にもようやく春が来たなーって、グランディア騎士で気づいてる者はみーんな、さりげなく感謝してるんですよ」
何だか、褒められついでに物凄く失礼な事を言われた気がする。
「リディア、あのね、私はね」
「隠しても無駄ですよ、イリス様」
赤みがかった紫の瞳を向けてにっこりと笑うリディアの表情に、イリスも弁解の余地を失った。確かに、この友にはどんな言い訳も、並べ立てるだけ無駄だ。
立場こそ、今も昔も王族とその家臣だが、リディアの態度には、他の貴族の子息達が見せるような、表裏や取り繕いを感じない。勿論、それがリディアの性格であり処世術であるのだと、イリスが知っているからで、そこには、幼い頃から共に時を過ごした経験が積み重なっている。
本音で喧嘩し合い、叩き合いだって何度も繰り返した。父が死んだ時、抱き合って一緒に泣いてくれた。二人の間に隠し事は無かった。しても見抜かれたのだ。
そんな彼女に看破されるくらいなのだから、自分のアッシュに対する態度は、傍から見ても、特別なものと受け取られても仕方無いくらいに変化を見せているのだろう。
確かに、アッシュはいつの間にか、イリスの『いなくなったら悲しむ』だろう人間達の一人に入っていた。
だが。
イリスにとって、親友と呼べる人間が存在するならば、それはリディアだけだ。リルハも友人だし信頼を置いているが、向こうが臣下の礼を崩さないので、本音をひけらかしてまでは語り難い。その両親は尚更だ。エステルは母であり、ユリシスは従兄。バイオレットは友というより、同志、という単語が似合う。
そうやって分類していった時、アッシュは何に当てはまるのだろう。
出撃前の、雑多な人波の中でもすぐ見つけられる、周囲より少し背の高いくすんだ金髪。同じように、イリスの胸中で頭ひとつ分突き出た存在に対する感情にはいまだ、相応しい名前をつけることは、できずにいた。




